「市民手当」をめぐる議論
 ―制裁強化の可能性も

カテゴリー:労働法・働くルール

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  • 国別労働トピック:2024年2月

旧来の「求職者基礎保障制度(ハルツⅣ)」を刷新し、昨年からスタートした「市民手当(Bürgergeld)」の標準給付月額が2024年1月に12%引上げられた。市民手当は法案審議時に「寛容すぎる」として、下院(連邦議会)が可決した法案を上院(連邦参議院)が否決し、最終的に折衷案が成立する等、当初から批判が寄せられていた。ハイル労働社会相は現在、就労拒否者に対する給付停止などの制裁強化に言及しており、市民手当をめぐる議論が活発になっている。

旧来の「ハルツⅣ」の課題

「ハルツⅣ」の通称で知られる求職者に対する基礎保障制度は、2000年代前半に実施された労働市場改革が源になっている。就労促進を目的とした規制緩和や失業手当の見直し案等を提示したのは、当時のフォルクス・ワーゲンの労務担当役員で、シュレーダー首相(当時)の顧問も務めたペーター・ハルツ氏である。同氏の名にちなみ、「ハルツ改革」と呼ばれ、ハルツ第Ⅰ法~第Ⅳ法の4段階に分けて広範囲に行われた。現在は、労働・社会制度の大部分が改革の影響を受けているといっても過言ではない。

ただ、ハルツ改革は、当初から「社会的格差を招く恐れがある」として市民団体や労働組合などが強い懸念を表明していた。特に2005年1月に施行された「ハルツ第Ⅳ法」による失業手当の大幅な引下げと給付期間の短縮、「社会扶助」と「失業扶助」の統合については、強い反対が出され、最も激しい議論が交わされた。

改革前の「失業扶助(Arbeitslosenhilfe)」は、失業保険受給期間が満了した者、または失業保険の受給要件を満たさない者を対象として、期間の定めなく支給するものだった。だが、ハルツ第Ⅳ法により「失業扶助」が廃止され、「失業手当Ⅱ」が創設された。従前の「社会扶助(生活保護)受給者」から、「1日3時間以上の就労が可能な要扶助者」を抜き出して「失業扶助受給者」と統合。本人には「失業手当Ⅱ(注1)」を、その家族で就労可能でない要扶助者には「社会手当」を支給することとした。「失業手当Ⅱ」は、通常の失業保険給付(失業手当Ⅰ)の受給期間を満了しても再就職できず、経済的に困窮している者などに支給される。長期失業者の受給が多いが、短時間働きながら不足分の上乗せ給付を受給する者もいる。

このハルツ改革によって、失業者はより積極的に新たな職を探すなどプラスの効果が見られたが、その反面、失業手当Ⅱの受給者には、通常の就職支援だけでは単独で生計を維持できる正規職に就く機会や能力に乏しい者が相当数いることも明らかになった。図表1の通り、2008~2017年にかけて失業率は改善しているのに、同期間中の失業手当Ⅱの受給率(15~65歳の就業人口に占める割合)はあまり改善が見られない。そのため、この層に対する支援の在り方の議論が長年続いていた。

また、失業手当Ⅱには、軽微な違反(正当な理由なく、相談日にジョブセンターに来ない等)をした場合、基準給付が1割減額される。また、無理なく従事できると判断された仕事を紹介され、正当な理由なくその受け入れを拒否したり、自ら失業期間を引き延ばす等の義務違反をした場合、初回は給付額の3割減、2回目は6割減、3回目は給付そのもがなくなるという厳しい「制裁(Sanktionen)」が設けられていた(ただし、以前の義務違反による給付の減額の開始時期から1年以上経過している場合には、義務違反の再犯とはならない)。このような給付の減額や停止は、失業者のより早い就業復帰に寄与する面もあるが、同時に労働市場から受給者を完全に撤退させる事も多く、当該者の生活状況を著しく悪化させる可能性が指摘されていた。

図表1:失業手当Ⅱの受給率と失業率の推移(2008-2017年)
画像:図表1

出所:IAB(2019)

「市民手当」で制度刷新へ

以上のような厳しすぎる措置を緩和し、これまでの「ハルツIV=何らかの問題があって長期間失業しており、手当を受けながら働かない(働いても短時間)者とその家族」という侮蔑的なイメージによって受給者がスティグマ(負の烙印)を負いがちな旧来の制度を刷新し、より長期的視野に立って受給者に寄り添いながら労働市場への統合を目指すために、政府は2022年「市民手当法案(Bürgergeld-Gesetz)」を提出した。

既存の「ハルツⅣ」の下では、受給者を労働市場に戻すための迅速な配置が最優先―いわゆる“優先配置(Vermittlungsvorrang)”―とされ、受給者が臨時的な仕事を得た後、数カ月後に再び受給者として舞い戻ってしまうことが繰り返されていた。ハルツⅣの受給者の3分の2は職業訓練資格を保有しておらず、そのために長期失業に陥る者が多い。新しい市民手当制度では、“優先配置”を廃止し、受給者が長期に持続可能な仕事に就けるよう、職業訓練参加インセンティブの強化や、長期就業困難者に対する専門のコーチング支援などを新たに提供することにした。また、受給者が職業訓練資格を取得するために充当できる期間も従来の2年間から3年間に延長。さらに、義務違反をした場合の厳しすぎる制裁措置を緩和し、基本的な生活保障として不十分と批判されてきた標準給付額の大幅な引上げも行うこととしたのである。

市民手当法案(Bürgergeld-Gesetz)は、2022年8月9日に草案公開後、9月14日に閣議決定され、連邦議会(下院)の審議を経て11月10日に可決した。しかし、その後、連邦参議院(上院)において「新制度は寛大すぎる」として、11月14日に否決された。連邦参議院は、州の代表議員で構成され、前政権で与党だった中道右派のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の議員等が「市民手当が導入されれば働こうとする人がいなくなる」と強く批判していた。

その後、法案修正が行われ、連邦議会と連邦参議院の両院からなる調停委員会において、11月23日に折衷案が合意された。11月25日に改めて両院投票にかけられ、最終的に成立した。

連邦議会の可決法案と成立した修正法案の主な相違点は、以下の通りである(図表2)。

図表2:市民手当法案:修正前後
  連邦議会の可決法案 成立した修正法案
資産・住宅審査の猶予期間 受給開始から「2年間」は猶予期間として、世帯主は「6万ユーロ未満」まで所有資産について問われたり、より小さな居住への引っ越しを求められたりすることはない(同居家族1名増加ごとに3万ユーロまで)。また、猶予期間中は、すでに住んでいる住居の家賃等は実費を全額支給する。 猶予期間を「1年」とする。
さらに世帯主の所有資産上限は、「4万ユーロ未満」とする(同居家族は1名増加ごとに1.5万ユーロまで)。また、猶予期間中は、すでに住んでいる住居の家賃等は実費を全額支給する(ただし、暖房費については、合理的な範囲で支給)。
「信頼期間」と受給者が義務違反行為をした場合の制裁措置 受給開始から最初の6カ月間を「信頼期間」とし、この期間中は義務違反があった場合でも減額等の制裁措置は科されない。
※ただし、アポイント無視など、ジョブセンターの支援業務に全く協力しない受給者に対しては信頼期間中であっても制裁措置を講じる。
「信頼期間」は設けない。
1回目の義務違反は1カ月間10%減額、その後も受給者が合理的な仕事の申し出を受け入れない場合は最大で30%減額される可能性がある。

出所:BA、BMASのプレスリリース等を元に作成。

標準給付月額の引上げ

以上の経緯で、昨年発足した市民手当だが、今年1月にはインフレ等を考慮して標準給付月額が12%引き上げられた(図表3)。これについて、野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)等からは「過度の引上げは労働意欲を低下させる」との批判が出されていた。

図表3:市民手当の標準給付月額(2023年、2024年) (単位:ユーロ)
画像:図表1
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出所:連邦労働社会省(2023)

また、「真面目に働くよりも、働かずに市民手当を受給した方が良い」という考えや情報などが一部で流布されたため、その事態を懸念した連邦労働社会省が、特設サイトを設けて、市民手当に関する虚偽情報の払拭に努めている(図表4)。

図表4:市民手当の事実
事実(○) 虚偽(×)
最低賃金時給の引上げによって、仕事をした方が多く収入を得ることができる。また、将来の年金受給の権利も獲得することができる。 仕事をせずに市民手当をもらった方が得だ。
市民手当の受給者数は増えていない。最新統計によると、離職者は以前よりも大幅に減少している。 多くの人が仕事をやめて市民手当を受給したがっている。
市民手当の受給者の生活状況は多様である。多くの人は家族の世話をし、語学コースに参加し、職業訓練を受講しており、ひとり親であったり、慢性疾患を抱えていたりする。彼らは決して怠け者ではない。 市民手当受給者は怠け者だ。
市民手当受給者が、正当な理由なく義務を履行しない場合、給付金を減額される可能性がある。 市民手当の制裁を恐れる必要はない。
市民手当は、支援が必要な場合の最低限度の基本的生活水準を保証すると同時に、協力する義務を明確にしている。目的は、支援の必要性の克服もしくは軽減である。ジョブセンターはそのための助言、職業資格の取得、職業紹介を通じて支援を行う。 市民手当は無条件のベーシックインカムである。
殆どのケースにおいて、労働時間を延長した方が価値は増す。現在は、市民手当受給中の追加収入機会の改善により、さらにその価値は高まっている。 パートタイムで働く市民手当受給者は、フルタイムの仕事に切り替える価値はない。
最低賃金と市民手当の格差は拡大した。最低賃金が導入された2015年以降、最低賃金は今日の市民手当の標準給付額よりも高く引上げられている。 最低賃金と市民手当の差はかなり縮小した。

出所:連邦労働社会省(2024)

労働社会相の制裁強化策

現地報道(注2)によると、批判を受けてフベルトゥス・ハイル労働大臣は現在、ジョブセンターが仕事を紹介しても就労を拒否し続ける受給者への制裁を強化し、最長2カ月間給付を完全停止する案を打ち出している(ただし、ホームレス状態を避けるため、住居関連費は給付)。現行の市民手当では、30%の給付削減が制裁上限となっているためで、今後連立政権内での合意を目指すとしている。

この案について、連立相手の自由民主党(FDP)や野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)等は歓迎の意を表している。他方、ドイツ労働総同盟(DGB)の研究機関であるハンスベックラー財団経済社会研究所(WSI)所属のベッティーナ・コールラウシュ教授(パーダーボルン大学)は、制裁強化の効果に対して懐疑的な見解を示している。同氏は、市民手当の標準給付月額は、文化的な最低限度の生活を保障するための額である点や、市民手当を受給するよりも働いた方が多くの収入を手にできる制度設計である点、低所得者は制度が複雑すぎるために本来受給できる手当を請求しないことが多い点、さらに、フルタイムで最低賃金相当で働く場合、現在の最低賃金額(24年1月~時給12.41ユーロ)が低すぎる点などを指摘。その上で、「制裁を強化する方向でなく、熟練労働者不足の中で、職業資格を持たない長期失業者が社会から必要とされる仕事ができるよう訓練を提供し、資格を付与することが極めて重要で、これこそが現在もっとも足りていない点だ」と指摘している。

参考資料

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