メールマガジン労働情報2000号記念企画
第5回 私たちのこれからの役割
2024年10月18日(金曜)掲載
内部の人間になってわかったこと
私は、2023年4月から理事長を務めています。私は、それまで一人のユーザーとして労働政策研究・研修機構(JILPT)の仕事を評価してきました。『日本労働研究雑誌』、『ビジネス・レーバー・トレンド』、調査研究報告書など、自分自身の興味関心にしたがって、さまざまなデータを使ってきました。『日本労働研究雑誌』の編集委員やリサーチ・アドバイザー部会の委員、労働関係図書優秀賞の審査委員、東京労働大学講座運営委員など、JILPTの事業の運営にも関わってきましたが、あくまでも外部の協力者という立場を出るものではありませんでした。
昨年4月からは内部の人間として運営を担うようになったのですが、その役割になってわかったことがたくさんありました。その一つが研究員の調査に向き合う真摯な姿勢です。世の中には調査と称するものがあふれています。Googleなどを使って簡単に調査ができるようになった結果、様々なことがまことしやかに語られます。そこには数字の怖さがあります。「調査した結果、85%が○○を支持しています」と言われると、大多数の人が支持していると思ってしまいますが、支持しそうな人たちを対象として調査した結果、そうなったことも考えられます。調査結果は、対象の選定によって意図的に変えることが可能だからです。
本来の調査は、母集団を代表するサンプルを選び、一方向に誘導するような質問を避けて調査票を設計しなければなりません。サンプルの抽出も質問票の作成も骨の折れる仕事です。的確にサンプルを選んだとしても、回収率が低いと調査結果の信頼性が低下します。要請元である厚生労働省の意図を汲みつつ、回収率を一定以上確保するために答えやすい調査票に仕上げていくには多大な努力が必要です。このような努力を通して、様々な調査結果が公表されていることに気づかされました。
内部の人間になってわかったことの二つ目は、調査研究と研修の融合です。JILPTは、労働基準監督署やハローワークで働く職員の研修を担っています。朝霞に労働大学校があり、オンラインと対面を組み合わせて、効果的な研修プログラムの構築と運営に取り組んでいます。基準監督行政や職業紹介の第一線では様々なことが起こります。過去に経験したことがないような事態が発生したとき、調査研究で明らかになった知見が役に立つ場合があります。例えば、失業者の心理状態がどのように変化するかについての研究結果は、多様な失業者に対応する必要があるハローワーク職員の助けになります。研究が実践に活かされていることは外から見ていたのではなかなかわかりません。調査研究がより良い労働行政の実現に寄与していると言えます。
わかったことの三つ目は、JILPTが英語で発信している情報が海外の研究者にとても役に立っている点です。日本の労働事情を知りたいと思ったときに第一の情報源になっているのがJILPTです。『Japan Labor Issues』をはじめとして、日本の労働事情に関する英語の情報をホームページで提供しています。日本経済の相対的地位の低下とともに、日本の労働についての国際的な関心も薄れていますが、日本企業が取り組んでいることの中には国際的に評価されてしかるべきものがたくさんあります。例えば、アメリカの介護業界ではPeace agreementと称する協調的な労使関係が模索されています。アメリカの労働組合は戦闘的で、自分たちの要求を通すためにはストライキも辞さないというのが一般的ですが、一部の業界では労使協調的な動きが見られます。こういった活動を研究している人たちが日本の労使関係を参考にしようとしたとき、JILPTのホームページが役に立っているようです。
これからのJILPTに求められること
①実態をていねいに明らかにし、広く社会に伝えていくこと
世の中には、ごく一部で起こっている事象をとらえて、それが全体で起こっているかのように言われることがあります。例えば年功序列です。年功序列という言葉から想像される実態は、同期入社の人たちは同じように昇進し、給料も上がっていくというものです。私は、これまで多くの企業を見てきましたが、みんな同じように昇給・昇進していく会社にはお目にかかったことがありません。毎年の評価で着実に差がついていきます。大卒同期入社20年の社員をとりあげたとき、昇進の早い人と遅い人の間での年収格差は500万円くらいになります。これだけの差がついている実態を無視して「日本企業は年功序列だからダメなんだ」と批判する人たちがいます。このような言説に対して、ていねいな調査に基づいて反論することが必要です。
②政府関係機関だからこそできる調査研究に取り組む
労働政策審議会労働条件分科会の一つのテーマは、解雇の金銭解決の仕組化の是非を検討することです。日本では正社員の解雇が難しいので企業活動が停滞する。企業が求める結果を出せない社員は一定のルールの下で解雇できるようにした方が望ましい─経営側はこのように主張します。他方、労働側は次のように主張します。解雇の金銭解決をわざわざルール化しなくても、実態として労働審判や労働相談で解雇案件は解決されている。ルール化するとそれを悪用する使用者が出る可能性がある。だから反対だ。
厚労省からの要請を受けて本機構の研究員が地方裁判所(1庁)を訪ね、和解になった案件の実態を調べました。裁判で判決が出ると公表されますが、和解の内容は公表されません。そのため、これまでは、解雇に至った労使紛争がどのように解決されたかを知ることはほとんどできませんでした。大学の研究者が和解の内容を知りたいと言っても、裁判所は許可してくれません。政府関係の機関だからこそ可能になった調査でした。解決までにどれくらいの期間を要したか、和解金は給料の何カ月分にあたるか、和解までにどのような議論がなされたかなどを調査し、労働条件分科会に報告しました[注1]。
これからもこのような要請があると予想されます。JILPTの特性を活かして、それらに着実に対応していくことが必要だと考えます。
③国際的な情報発信
日本の労働事情については、すでにホームページ等で発信しています。それに加えて、海外の研究者との交流を積極的に推進する必要があります。コロナ禍を経て、対面で開催する学会や研究会が増えてきました。JILPTは、日中韓の政府系研究機関の交流やアジア・太平洋諸国の若手研究者を対象とした国際会議を対面で開催しています。これらに加えて、2026年9月にILERA(国際労働雇用関係協会)のアジア地域会議を東京で開催予定です。ILERA本部からの要請を受けて、JILPTとして積極的に協力していくことを決めました。
時間と空間を超えることができるという点で、オンラインの良さは確かにあります。しかし、オンラインでは画面に映った情景と音声しか伝わってきません。所詮、二次元の世界です。それに対して、対面で会議を行うと、三次元かそれ以上の状態になります。初対面だけどたまたま隣に座った人と話したり、久しぶりに会った友人たちと深い意見交換ができたりします。そのような場を作っていくことが私たちの役割だと思います。
以上3点の他にも取り組むべき課題はありますが、JILPTにしかできない調査研究やJILPTの特長を活かした研修に取り組んでいきたいと思います。