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第4回 理事長在任中に思ったこと──予期せぬ二つの出来事と研究課題
2024年10月16日(水曜)掲載
就任当時
私が労働政策研究・研修機構(JILPT)の理事長に就任したのは、2018年4月のことであった。以来、在職していた5年間、今、思えば、すべて理事や研究員、調査員、そして職員の皆さまに助けてもらいっぱなしであった。
JILPTではご存じの通り、5年間を1期の中期計画としており、私が理事長に就任したのは第4期の中期計画が始まった2年目の4月であった。本来、1年目から就任すればよかったが、前職との関係で、この期の2年目から就任することになった。前任の菅野先生には無理を言って、1年間、理事長の仕事を延長してもらうことになった。改めてここに御礼申し上げたい。
その結果、就任時にはすでに第4期はスタートしており、研究も調査も、そして労働大学校の講義、機構の運営もすべて軌道に乗っていた。私のすべきことと言えば、皆さんの仕事の邪魔をしないこと、足を引っ張らないことぐらいであった。
第4期の「プロジェクト研究」のテーマは、菅野先生がすでに2年前に決めて下さった以下の七つであった。①雇用システム、②人口・雇用構造の変化等に対応した労働・雇用政策のあり方、③技術革新等に伴う雇用・労働の今後のあり方、④働き方改革の中の労働者と企業の行動戦略、⑤多様なニーズに対応した職業能力開発、⑥全員参加型の社会実現に向けたキャリア形成支援、⑦労使関係を中心とした労働条件決定システム。いずれも重要なテーマであったが、それぞれの具体的内容の自由度は高く、研究実施者が自分の問題意識に基づいて選択できる幅広いものになっているとの印象を受けた。
こうしたプロジェクト研究に加え、厚生労働省からその年に寄せられる「課題研究」もすでに決まっており、四半期ごとの「緊急調査」もほぼ順調に始められていた。また、労働行政担当職員に対する研修を担う労働大学校も毎年のルーティンに則り、授業カリキュラムが組まれ、講義が開始されていた。
統計調査の重要性
順調にスタートしているように思えた理事長の仕事だが、そのような時には思わぬことが起きるのが世の常である。5年間の私の在任中にも、二つの予期せぬ突発的な出来事が起こったが、これらから学ぶものはいずれも大きかった。第一の予期せぬ出来事は、機構とは関係しない個人的なものだが、厚労省のいわゆる「統計問題」、「毎月勤労統計問題」であり、この原因を調べる「特別監察委員会」の委員長の仕事を引き受けたことであった。この件はあまり思い出したくない出来事ではあるが、理事長時代を振り返るとき、どうしても私にとっては触れなければならない出来事であった。
最初、委員長を務めてくれないかと打診があったときには、何度も断った。だが、他にだれも引き受け手がおらず、以前、統計委員会委員長の仕事をしたことがあるという理由で引き受けざるを得なかった。最初、これを引き受けたときには、さほど大変なことになるとは思わなかった。
この問題が発覚したのは、私がJILPTの理事長に就任して半年後の2018年末であった。そして「特別監察委員会」が設置されたのが翌年の1月で、その後、調査は土日も含めて深夜遅くまで続けられた。調査は書類を読み直すと同時に、厚労省OBや現役、そして自治体への聞き取り、国会への出席など多岐にわたっており、精神的にも疲労度は増していた。この間、JILPTの理事、研究員、職員の皆様には本当に多大なご迷惑をおかけした。皆様からこの時に受けた励ましの言葉、とくに歴代理事長から頂いた温かい言葉は今でも忘れられない。
このとき身をもって感じたことが、後のJILPTの調査の仕組みをも変えた。近年、政策を決めるうえで、アンケート調査やヒアリング調査がこれまで以上に重要性を増していることはいうまでもなく、本人はもちろんのこと、人々の調査に対する信頼性を高めることはJILPTにとっても不可欠である。このためには、調査の透明性を高め、再現性を確保する必要がある。これは官公庁が行う公的統計に限らず、研究機関が行う各種調査にも当てはまる。JILPTが行う調査においても、調査方法を十分検討し、調査対象者・回答者の無作為性を確保し、復元方法の精度を高め、質問項目や回答率を改善していくのと同時に、外部の人も調査の基礎となっているミクロ情報を利用できるようにする。そしてそのためには、それらをすべて公開していくようにする必要があると再認識した。こうした思いからJILPTの調査においても関係者が全員参加して、対面方式でアンケート調査委員会を開催し、その内容を全員で詳細に検討すると同時に、これまでと同様、データ・アーカイブにミクロ情報を載せ、第三者が利用できるようにしていく。こうしたことがどうしても必要になると考え、皆さんに改めてお願いすることにした。
コロナの流行
もう一つ、理事長在任中に発生した予期せぬ出来事は、なんと言っても「新型コロナウィルス感染症」の広がりである。日本経済は失われた30年に直面していると言われながらも、少なくとも労働市場に関する限り、金融危機以降、失業率も低い水準で推移しており、落ち着きを見せていた。ところが理事長就任後1年9か月が経過した2020年1月に「新型コロナウィルス感染症」の流行が報じられようになり、JILPTの仕事の進め方についても、さらには研究すべき課題についても新たな対応が求められた。
まず、仕事の進め方である。横浜港を出港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客・乗員の中にCOVID-19の罹患者が確認されたのに端を発して、その後、日本全体に感染症の広がりが報じられるようになった。感染の拡大を回避するには手洗いやうがいだけでは不十分であり、不要不急の外出を自粛しなければならない。このため保育園や学校を休園・休校にし、飲食店等を休業したり営業時間を短縮したりすることが要請され、通勤もなるべく控えるようにと報じられた。
こんな状況が日本で発生するなど、1年前には夢にも思わなかった。何よりも困ったことは、100年前のスペイン風邪のときを除けば、日本では前例のないことである。厚労省からJILPTにも出勤者を7割削減するようにとの要請があった。そこでテレワークによって通勤を減らすことにしたが、これを実現するには、暫定的ながらもこのためのシステムの用意や内規の作成が必要となる。幸いJILPTではすでに稟議書の押印はリモートで代替できるようにされており、さらには担当者の迅速な対応によってテレワークのシステムを用意することができた。そのおかげで、出勤者削減の数値目標を概ね達成することができた。改めて担当者の尽力に感謝申し上げる。
「多様な変化」を分析する必要性
事務的な対応と同時に、コロナ禍で大きな問題になったのが、調査研究である。コロナという突発的な出来事で新たな研究課題が求められた。とくにJILPTの分析課題として、「危機が発生した時の労使の対応、政策的支援の効果と限界」を検証する必要があると考えた。
これらを分析するには、多数の同一企業や同一個人をコロナ発生期間中、追跡調査し、時間の経過とともに人々の行動や心理状態がどう変わるかを明らかにするパネル調査は出来ないものかと考えた。しかしこれを実施するには多数の研究者の参加と多額の費用が必要である。そこでこの実施を巡って理事や研究員、調査員、総務の人たちと議論を重ねた結果、機構内外の研究者の参加が得られれば、予算をやりくりしてそうした調査研究は可能になるし、有効でもあるとの結論に達した。そこで皆で力を合わせ、この間の公的統計による検証、さらにはこれを補完する形で「企業パネル調査」「個人パネル調査」を実施していくことが決定された。そして具体的には、コロナが広がりを見せたわずか3か月後から毎週、コロナPTを開き、コロナに関わる調査研究全般を議論することにした。
研究課題は、(1)コロナによって社会経済はどう変質し、(2)雇用や賃金、所得や支出は期間中どう変わっていくのか、そしてそれは個人特性によってどう違い、コロナ終焉後は果たして元の状態に戻っていくのか、(3)企業の雇用調整はどう変わり、(4)人々の気持ち・考え方・行動はどう変わっていくのか、(5)緊急に行われるようになったテレワーク・在宅就労はどのような人によって実施され、実施割合は業種、職種、企業規模、地域によってどう違い、時間の経過とともにどう変わっていくのか、そしてそれは企業の生産性や経営にどう影響するのか、(6)とくに政府の支援策と考えられる「雇用調整助成金(特例)」や「持続化給付金」「コロナ特別貸付(資金繰り支援)」に注目し、それらはどのような企業、どのような人が利用し、その政策が長期化するのに伴い効果はどう変わり、どのような問題点が生じるのか、等である。2年にわたって3~4か月ごとに企業や個人の定点観察を実施し、これらを把握していくことにした。
従来、欧米では日本と違い、企業への支援を通じ、雇用を守るという施策は採られてこなかった。それが今回、イギリスやアメリカといったアングロサクソン諸国でもこうした施策が採られることになったが、(7)各国の助成制度は日本の雇用調整助成金制度とどのような違いがあり、企業の雇用調整にどう影響し、失業率・休業率にどう影響し、政策の開始・終了の時期にどのような違いがあるのかなどの国際比較を、海外調査の担当を中心に行っていくことにした。
公的統計を使って、統計解析の担当を中心に、経済成長率や物価、企業の設備投資、家計の消費支出や貯蓄、失業率や休業者数、就業者数や労働時間、賃金、補助金の変化を調べ、週1回のコロナPTで報告してもらうことにした。その一方、研究員や調査員の人たちは公的統計では捉えられない変化について、自ら実施したパネル調査と重ね合わせることで何が起こっているかを明らかにしていくことにした。
分析結果は、「新型コロナウィルス感染拡大の雇用・就業への影響」(2021年3月)等の4冊のハンドブック、『コロナ禍における個人と企業変容―働き方・生活・格差と支援策』(2021年11月)、『検証・コロナ期日本の働き方―意識・行動変化と雇用政策の課題』(2023年3月)の2冊の書籍に、論文集としてまとめられている。
コロナ禍における調査は、個人の働き方や技能、所得や保有資産、企業の業種や職種、企業規模などの特性によって、影響は異なることを示している。こうなると平均値だけでコロナ感染症や各種政策の効果を語ることはできない。これからの社会では、これらの特性はますます多様化し、その違いは拡大していくであろう。こうしたことを考えると、今後、雇用問題を分析するにあたって、平均値概念だけで語ることは危険であり、分布の概念を重視した調査研究が求められる。第5期のプロジェクト研究で、「多様化」を重視した考えはそこにある。
いま思うこと
もう一つ、今後の研究で重要になってくるのが、賃上げを雇用政策として意識した時、これがどのような政策から影響を受けるのか、そしてその効果、弊害は何かを検討することである。我が国では賃金の決定は、従来、個別企業の労使に任されており、今も基本的にはこれに変化はない。春闘華々しき時、リーダー企業やリーダー業種がまず賃上げを決定し、これに追随する形で他の企業が賃金を決めていった。だがそこには政府の介在する余地はなかった。今も個別企業の労使で賃金が決められることに変化はない。しかし、最近は政府が政策を通じて、賃上げに影響を与えようという動きがある。
その背景には、労働市場は人手不足であるにもかかわらず、そして多くの企業が収益を上げているにもかかわらず、また物価が上昇しているにもかかわらず、賃金は上昇しない。その結果、労働者の暮らしは苦しくなる一方、マクロ経済的にも賃金と物価の好循環は起こらず、賃上げがない限りデフレからの脱却が難しいとの政策判断がある。
かつては日本の賃金は労働需給に敏感に反応して決まるだけに、景気が悪化しても賃金は下がって雇用は守られ、失業率は低くて済むと言われてきた。それが最近では、景気がよくなっても、賃金は上方硬直的であると批判される。
政府はこうした認識を重視し、近年、「官製春闘」だなどと指摘されながらも、直接、経済界に声をかけ、賃上げを実現しようとしてきた。そして最近では、賃上げのための数多くの政策が実施されようとしている。財務省は賃上げ促進減税を実施し、公正取引委員会は下請法や独占禁止法を厳格に適用し、賃上げした企業の価格転嫁をしやすくしたりしている。経産省は企業の生産性向上のために設備投資助成を行うとともに、パートナーシップ宣言を構築しようとしている。厚労省は教育訓練給付制度を拡充し、労働者のリスキリングを促して職業能力を向上させるとともに、各種助成金制度を導入して賃上げを実現しようとしている。さらには最低賃金を大幅に引き上げ、同一労働・同一賃金法の適用により、低賃金労働者の賃金を引き上げようとしている。
果たしてこれらの支援策は、賃金をどの程度引き上げることになるのか。おそらくそれらの効果は、業種や職種、企業規模や働き方、雇用形態などの特性によって違ってこよう。果たしてそれはどの程度違うのか。税や社会保障制度のいわゆる収入の壁によって、賃上げはどの程度抑制されるのか。そして労働時間等にその弊害はないのか。
賃金について、これまでも研究は行われてきたが、新たな賃上げ誘導策が政府によって導入されたとき、賃金はこれらにどのような影響を受けるのか、新たな研究に着手していく必要がある。政策に新しい動きがある以上、労働政策研究もこれに柔軟に対応していく必要がある。
ここ数年、雇用政策は「働き方改革」に力点を置き、労働時間問題を中心にその改善を目指してきたが、これと並行して、いま、賃金が政策ターゲットとして意識されるようになった。今後の労働政策研究では、EBPMの視点に立ち、雇用条件のもう一つの基礎をなす賃金に焦点を当てた基本的な分析が求められるのではないか。こんなことを、最近、感じる。