2003年 学界展望
労働経済学の現在─2000~02年の業績を通じて(8ページ目)


8 その他

冨田

では、最後に、この1本は紹介しておきたいという論文を選んでもらっているので、1人ずつ簡単に紹介してもらいましょう。

太田

神林龍「賃金制度と離職行動:明治後期の諏訪地方の製糸の例」

私が取り上げたのは、神林論文です。この論文は、明治後期の諏訪地方の製糸業を題材にとっています。1880年代以降、そういう製糸業で働く女性の不足が発生して、離職率が高かったのですが、その後、等級賃金制度が普及したことによって、離職率が急速に低下した。このような事実を受けて、一体それはどういうメカニズムによるものであるのかを分析した論文です。

この等級賃金制度は、会社全体の従業員の中でどの程度高いアウトプットを出しているかによって賃金が決まってくる制度です。神林論文は、このような相対評価が組み込まれた制度を導入すると、離職率が低下するメカニズムをモデル分析によって明らかにしています。

モデル分析の結果としては、労働者が離職者の平均能力をどのように予想しているのかという期待が重要な役割を果たすということで、もしも離職者の平均能力が高いという予想がなされるときには離職率は高くなって、実際に離職者の平均能力が高くなる傾向があるということを明らかにしております。さらに、神林論文では、岡谷製糸博物館の資料を使って、離職率が低下傾向にあった時期に、実際に、どうも離職者のほうは、長く勤める人よりも生産性が低かったということをデータから導き出しています。だから、理論と整合性が取れた実証分析になっている。全体として、歴史と理論と実証が渾然一体となった、神林さんならではの分析ではないかと思います。

付け加えておきたい点として、神林論文は、明治期の労働市場は非常に前近代的な状況であり、資本家による収奪が行われていた時代に近代経済学の論理は適用できないのではないかというステレオタイプな見方に対する、有効な反論になっていることです。間違っているかもしれませんが、ひょっとすると、神林さんは、近代経済学のロジックの適用範囲というものを、ある種、歴史を見ながら探り当てようしている部分があるのかなと思うのです。近代経済学のスコープの範囲と限界を探り当てる作業の一環として考えられているなら、これは非常に壮大かつ有意義な計画ではないでしょうか。

安部

川口章「女性のマリッジ・プレミアム―結婚・出産が就業・賃金に与える影響」

川口論文は、『家計経済研究』に掲載された論文です。女性の場合、結婚して家庭責任があることで、賃金がどれほど下がるのかという話になります。賃金が下がってしまうなら、結婚に躊躇するという方向にも解釈することも可能でしょうし、あるいは、少子化対策、ファミリーフレンドリー、男性の育児休暇といったことへのインプリケーションになる。『消費生活に関するパネル調査』を使っていますが、有配偶女性の賃金は、無配偶者のそれよりも低いという推定値が得られる場合もあるけれども、それはほかの属性で大体説明できる。ただ、子供がいると有意に賃金が低くなって、それはほかの属性をコントロールしてもそうです。そういう結論を導くにあたって、論文の前半部分では、女性の場合、労働移動がどういうふうに起こっているかが示されています。例えば職業とか、企業規模とかを見、既婚女性のほうが、大企業から中小企業のほうに移っている、あるいはより賃金の低い産業に移っている傾向があるということが示されています。

これ以降は感想的なことなのですけれども、女性のマリッジ・プレミアムといった場合に、労働市場から出てしまう人についてどう考えるのかなという疑問があります。つまり労働市場から出てしまう人に関しては、賃金データがありませんから、マリッジ・プレミアムといっても、労働市場の中にとどまっている人の間で、どのぐらい結婚していると損をするのか、得をするのかという話になります。男性ですと、結婚したからといって、大して就業状況に違いがあるとは思えないので、マリッジ・プレミアムというと、それなりに解釈可能なのかと思うのですが、労働市場から退出するという影響があると、どう解釈するのかなというのは多少疑問に思いました。例えば市場労働から高い価値を生み出せる女性は、結婚しても継続就業する可能性が高い。これは家事労働と市場労働の選択を考えているわけですけれども、市場労働の価値が高いという人ほど、働き続けるだろう。その一方、家計所得が低いような女性は、所得効果から、継続就業する可能性が高い。家計所得が低いということになりますと、大体の場合は夫の収入が低いということで、夫の収入が低いということは、大体、夫と妻の学歴を比較してみれば、妻も夫も学歴が比較的低いということになるかもしれません。そういう効果があれば、継続就業すれば賃金が高いかというと、そうではないということもあるのかな、ということを考えました。

川口

Yuji Genda and Ryo Kambayashi, "Declining Self-employment in Japan"

私は、玄田=神林論文を紹介させていただきたいと思います。

日本を除くOECD諸国では、近年、自営業者の比率が上がっているという発見がありますが、一方日本では、ここ30年ぐらい、自営業者の比率というのが一貫して下がっています。なぜだろうかというのが論文の解明しようとしている問題ですが、その問題に直接焦点を当てる前に、多くの自営業者に関しての、自営業者がどういう特性を持った人たちなのかということに関して、非常に注意深く研究をしています。海外で行われている自営業者に関する実証分析を、日本のデータを使って行っている部分もよくできていると思います。家計調査を使っているので、日本の自営業者の全体像を非常にうまく描き出しているのではないかと思いました。

おもしろいと思ったのが、諸外国で発見されているような自営業者の特性が、日本でもそのまま見つけられるという部分です。例えば年齢が上昇するとともに、自営業者の比率は上がっていく部分ですとか、被雇用労働者の所得のプロファイルと比較して、自営業者の所得のプロファイルのほうが、なだらかであることも、やはりアメリカやヨーロッパで発見されている事実と整合的です。

こういう研究を、海外の結果と比較可能な形でするということの貢献は大きいと思います。例えば各国の間で共通に見られる特性の裏側にあるものは何だろうかといった理論の開発をモティベートすることにもつながりますから。

タイトルの自営業者がなぜ減ったのかといった部分なのですが、二つの理由を挙げています。年齢とともに自営業者になる確率が上がるという加齢効果が小さくなったのだということが第1点目で、第2点目は、地方における自営業者の比率が下がったのだということです。その二つで大体説明できるのだという話をしています。加齢効果の減少に関してですが、実際に年齢を加えることによって、自営業者になる確率が上がるという効果が下がったのか、それとも、実際にどういった人が自営業者になっていくかといった、自営業者へのサンプルセレクションのメカニズムが変わっていったのか。その辺の違いを、もう少し考える余地はあるかと思います。そこまで言うのも厳しいと思いますが、今後の研究の課題として、加齢効果が減少したのは、一体どういうことなのかというところを深く詰めていくのも、おもしろいのではないでしょうか。

あともう一つは、地方で自営業者が減っているという話なのですけれども、これも、効率性へのインプリケーションを考えたときに、例えば地方で自営業者が減っているといった現象が、この論文で推測されているように、大店法が改正されて、地方にも大きなスーパーマーケットが進出できるようになって、個人商店がつぶれたといったことであるとするならば、今まである種のレントを得ていた人たちが、そのレントを得る機会がなくなっただけだというふうに考えることができるので、あまり厚生上の問題はないとも思えます。

その一方で、地方ですごくいいアイデアを持っていて、起業したいという人たちが、銀行の貸出などの制約をより強く受けるようになって、開業したらいい利益を得られていたであろう事業が開業できなくなったといったことであれば、厚生上の損失は大きいのではないかということがあると思います。

ですから、データ的にどの程度見られるのかちょっとよくわからないのですが、おもしろいのではないかなという感想を持ちました。

玄田=神林論文の中で、最終的に、もうちょっと深いところまでやろうと思ったら、パネルデータがないとできないと述べられていたのには、共感しました。

冨田

太田聰一「労働災害・安全衛生・内部労働市場」

では、最後に太田論文を紹介します。おそらく労働災害に関して書いた経済学の論文は、これまでなかったのではないかと思います。それだけでもおもしろいですね。もちろん、いくつか内容的にもおもしろいところがあります。労働災害が長期的に減ってきているが、高齢化の進展を考えると、安全衛生対策などをしっかりやって労働災害の減少に取り組むことが、重要だということを説明しているということです。労働災害の発生率や離職率の実証分析にすぐに行かずに、内部労働市場の議論を使って理論モデルをつくってから実証分析しているところは、これから論文を書く大学院生たちにぜひ見習ってほしいなという気がします。

この論文がいいと思った点が三つあります。繰り返しになりますが、労働災害というこれまで経済学があまり取り扱ってこなかったテーマに関して、どういう視点から経済学的分析ができるかということをよく考えた論文です。また、労働災害を減少させるための企業の取り組み姿勢の差を、労働市場の内部化という点で、きちんとモデルを組んで議論してきているというところも、いいと思います。もう一つは、既存の公表されているデータを工夫して分析しているところです。個票データが手に入りやすい時代になってきました。しかし、まずは公表データでできるところまで分析していくという努力をしないと、何かアイデアを生み出す能力が減退していくような気がします。公表データを工夫して分析してみること、これは若い研究者にも見習ってほしいと思います。以上です。

太田

ありがとうございました(笑)。

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