基調講演 治療と仕事の両立支援

木谷 宏
県立広島大学大学院 経営管理研究科 教授
フォーラム名
第103回労働政策フォーラム「治療と仕事の両立支援」(2019年6月28日)

はじめに:治療と仕事の両立支援3つの視点について

本日は、大きく3つのお話をしたいと思います。1つは、働き方改革を基点にしながら「治療と仕事の両立支援」についてお話しします。その前提として、働き方改革、ワーク・ライフ・バランス、ダイバーシティーマネジメントについても触れていきます。2つ目は、私も取りまとめに関わりましたガイドラインについて、具体的な課題も交えながらお話しします。最後に、今後の課題についてご紹介させていただきます。

Ⅰ.働き方改革と「治療と仕事の両立支援」の関係

「働くことの定義」を変える

今日の我々の働き方は、近代以降に形づくられたものである、というのが私の基本的な考え方です。この働き方は、成立してから100年、200年しかたっていません。この最近の働き方、近代・現代の働き方の特徴は何かというと、例えば、①家と職場が離れていて、通勤が当たり前の働き方、②雇用されて働く、そして給料をもらうという働き方、③原則としてフルタイムで働き、専業という形で2つ3つの仕事をかけ持ちせず1つの会社で働く、などがあげられます。通勤をして、雇用されて給料をもらい、フルタイム専業で働く。こういった働き方は、我々にとって当たり前のことですが、実は、結構最近の話ということです。

つまり、この今の働き方が、治療と仕事を両立させる上において、さまざまな制約を与えているのではないか。治療する方にとって、通勤は非常に大きなバリアとなります。それから、1つのところからしかお金を得ていないわけですから、休職・退職することにより収入が絶たれるということは、非常に大きな打撃となります。そういった意味で、今日の働き方が治療と仕事の両立を妨げている部分があるのかもしれません。

働き方改革が叫ばれて久しいですが、一言で申し上げますと働き方改革は、今までの働き方を見直すということです。例えば、経済学や経営学では「働くということは、金銭を報酬とし、指示に従って行われ、特定の場所で、特定の時間行われる、肉体的、精神的活動である」と定義されています。これについては、もう既に大分はみ出した部分があるとお感じになる方も多いかと思います。つまり、働き方改革は従来の働くことの定義を変えることにほかなりません。

「働くことの報酬」を変える

そして、皆様方に考えていただきたいのは、報酬についてです。我々は、働いたら必ず対価をいただくことができます。その対価とは何か。大きく言えば、1つはお金です。もう1つは、やりがいです。この経済的報酬と心理的報酬により、我々は、一生懸命働いてきているわけです。しかし、本当にこの2つだけで、この先も満足できるのか。そういった意味では、働くことに対する報酬のあり方を変えるという視点も必要になってくるかもしれません。働くことが、生活あるいは生きることの中における重要なモジュールであると考えるのであれば、暮らし方や生き方をさらに変えていくことも含まれてくると思います。働き方改革はきれいな言葉ではありますが、今までの100年、200年の働き方を、細かいテクニカルなところもそうですし、我々の意識もそうですし、習慣と慣習といったことも含めて、全面的に見直しを求められている。今、大きなターニングポイントにあるのかもしれません。

シート1は、エドガー・シャインという、有名な経営学者がまとめた人間観あるいは人事管理論のモデルです。

近代になってまず我々は、経済人、ホモ・エコノミクスとして、物欲の充足を利己的に追求する人間であるとみなされ、重要な報酬は賃金でした。しかし、人間それだけじゃない。社会人として、仲間との同調を求め、組織や他人のためにも一生懸命行動することができる、良好な人間関係も我々にとっては非常に重要である、というように進化してきました。さらに20世紀に入ると、我々は自己実現というものを非常に求めるようになり、やりがいが報酬として重要になってきました。このような形で、人間観、人事管理のモデルが進化したと言われています。そして、今日において我々は、単に経済人でも、社会人でも、自己実現人でもない。欲求は極めて多様であり、別の言い方をすると、極めて制約が多様であり、行動も多様である。これが今日の現代人の特徴です。そうなった場合、新たな報酬が必要ではないかと、シャインは問題提起しました。

つまり、両立支援は、具体的な中身は時間であり、あるいは合理的な配慮ということになろうかと思います。これはある意味、人々が求めている第3の報酬でもあります。こういった考え方もできるのではないでしょうか。

働き方改革とワーク・ライフ・バランス

さて、働き方改革とワーク・ライフ・バランスの関係も見ていきたいと思います。そもそもワーク・ライフ・バランスは、憲章という形で日本でも十数年前から始まりました。ただ、理念は浸透しましたが、実効性が難しい。なぜか。要は具体的な方法論を欠いていたということに尽きるのではないかと思います。精神論ではワーク・ライフ・バランスは実現できない。歯を食いしばって少し集中力を高めても高まる生産性は数%かもしれませんし、生み出される時間は僅かかもしれません。つまり、従来の業務そのものの見直しもしなければいけませんし、具体的な方法論によって進めていかなければワーク・ライフ・バランスは実現しないということで、具体的な方法論である働き方改革がスタートした、と言えるでしょう。

働き方改革の中に、病気の治療と仕事の両立が謳われています。内閣府でも治療と仕事の両立を、今、一生懸命進めている状況にあります。働き方改革には1つだけ落とし穴があると思います。働き方改革は、当然のことながら、リスクマネジメントという視点でも進めていかなければなりません。当然、長時間労働がいろいろなリスクを本人に与えるということはわかっていることです。サービス残業は、コンプライアンス上、大変な問題でもあります。そういった意味では、リスクマネジメントとしても働き方改革を進めていかなければなりません。企業の中には、最近は大分変わってきましたが、無事是名馬という価値観が蔓延しているのではないかと思います。無事是名馬というのは、多少能力が劣っていても、病気も怪我もせずに、走り続ける馬が名馬であるとする考え方を表した格言です。つまり、病気をしない人、休まない人、怪我をしない人が優秀という、かつての日本企業の価値観が、まだまだ大きいと思います。このあたりを払拭していかないと「がんに罹患しました」ということを会社に相談しづらくなります。

Ⅱ.「治療と職業生活の両立支援に関するガイドライン」について

次に、ガイドラインについても簡単に触れておきます。

シート2は私が座長をつとめた5年間をまとめたものです。今から6年前になりますが、大規模アンケート調査を実施しました。そうしたなか、さまざまな課題がみえてきて、取り組みが具体的になりました。平成26年度にはモデル事業も実施し、事例集も作成しました。平成27年度は、今回のガイドラインが作成され、その後、留意事項ということで初めはがんだけでしたが、脳卒中や肝炎、さらには難病も追加されました。平成29年度、平成30年度は、企業や医療機関向けのサポートマニュアルということで、具体的な様式集の使い方といったマニュアルも拡充されてきています。

ガイドライン作成は、大勢のメンバーでつくり上げて、いろいろな調整をして、なかなか大変でしたが、「小さいながらも大きな一歩」という言葉を使い、これから大きく世の中は変わっていくと非常に意気込んでいました。

ガイドラインの中で、私が強くお願いして盛り込んでもらったものがあります。それは、治療と仕事の両立において絶対に欠かせない4人の登場人物のお話です。登場人物は、絞れば3人ですが、私は4人だと思います。1人目は当然本人です。例えば、がんに罹った労働者の方です。2人目は企業の方です。がんに罹った方を雇用している会社です。3人目は病気、疾病について治療している病院です。本人と会社と病院。この3人は絶対に欠くことができない方々となります。ただし、大きな課題は3人とも違う言葉を話しているということです。会社はビジネスの言葉を話している。病院は医療の言葉を話している。本人は、生活者の言葉を話している。この3つの言葉のインタープリターあるいはコミュニケーターが必要であり、これが4人目となります。

Ⅲ.これからの課題について

1つはこのガイドラインの周知です。傷病休暇や休業を法制化していくことも、今後検討がされるべきと思います。2つ目は企業における取り組みを推進、支援することも必要となります。3つ目は先ほど述べた3つの言語のインタープリター、コミュニケーターが必要だということ。4つ目は医療機関に対する支援です。最後の5つ目は働く一人一人に対する支援といったことも当然必要になってくると思います。

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