事例報告1:第66回労働政策フォーラム
震災から2年、復興を支える被災者の雇用を考える
(2013年3月13日)

事例報告(1) 福島で生き・福島で育み・福島から繋いで行くという事

渡邊とみ子 かーちゃんの力・プロジェクト協議会会長/元イータテベイクじゃがいも研究会会長

写真:渡邊とみ子氏

先日、他県で講演した際、福島から避難しているお母さんやそのお子さんたちの声を聞く機会がありました。まず、多かったのが「本当につらかった」「早く福島に帰りたい」「もっと飯舘村で暮らしたかった」というものです。県外で避難生活をしている人にも、私のように福島に留まって活動を続けている人にも、震災のもたらした影響は大きすぎるということを実感しました。

さて、私の活動は、飯舘村で「女性も地域のリーダーとなって、自分たちのことは自分たちで考えていく」との考えに基づく「地域づくり」が原点になっています。

地域づくり参加のきっかけと経緯

私が地域づくりに参加したきっかけは、1993年に「飯舘村第4次総合計画」の地区別計画策定・推進委員になったことがきっかけです。この計画は各行政区に配布された補助金をもとに住民と行政が地域づくりをするためのものです。当時は、女性がこうした場で、表舞台に立って発言することはあまり馴染まなかったのですが、周囲のすすめで、女性でも主役になって活躍できるのだと思い直し、積極的に参加しました。

当時は、「平成の大合併」と言われていたように市町村合併が盛んな時代でした。飯舘村の合併について、当時の村長から、彼の諮問機関である「村民企画会議」の委員として検討に参加するよう勧められました。

合併の是非について、村の意見が二分する中で、私自身は村をなくしたくないとの強い思いがありました。合併法定協議会にも普通の主婦である私が、区長会会長、商工会会長など男性ばかりの場に混じって参加しました。

こうした活動に参加することで、私は「飯舘村で暮らす」ということを真剣に考えるようになりました。結局、飯舘村は合併をせず、自立する道を選びましたが、そうした中で私の中に、地域づくりで夢や目標を定め、それをいかに具現化するかとの思考回路が養われました。

「イータテベイクじゃがいも研究会」を発足

自立の道を選んだ翌年、2005年6月に「イータテベイクじゃがいも研究会」が発足しました。これは、飯舘村出身の菅野元一さんという当時農業高校の先生をしていた方が、「自立を選んだ飯舘村の地域振興のために」約30年かけて育種し、品種登録したじゃがいも「イータテベイク」とかぼちゃ「いいたて雪っ娘」を提供してくれることになり、地元の農業委員会と菅野氏の話し合いの中で発足が決まりました。

所用で会の設立総会に10分ほど遅れて参加したところ、すでに会長以外のポストは埋まっており、自分には会長は向かないと思ったものの、とにかくポストが埋まらないことには話が進まないということで、引き受けました。

原発事故で村での生産が不可能に

ところが会長就任後、会設立の言い出しっぺだった農業委員会会長をはじめ、農業委員会のメンバーが軒並み脱退してしまい、私は「自分のどこが悪いのだろう」と悩みました。

しかし、最後まで残ってくれた農業委員会のメンバーが私を励ましてくれたことや、飯舘村から世界に通用するものを発信していきたいとの育種者菅野氏の熱意を無駄にしたくないとの思いから、なんとか頑張ってきました。その結果、海外に輸出できるほどの販売ルートを確立することができ、今年の1月に会を発展的に解散することができました。

会では、2007年4月に加工施設「までい工房美彩恋人(びさいれんと)」を立ち上げ、「イータテベイク」や「いいたて雪っ娘」の加工販売を手がけました。この「美彩恋人」は、研究会メンバーたちの名前から1字ずつもらい、Be Silentをもじってつけたものです。飯舘村の女性が強いとはいえ、世の中に物申したり、事業を興すことに対して、たくさんの誹謗中傷がありました。このBe Silentに込められた意味について詳しくは言いませんが、お察しいただければと思います。

この起業は資金のない私にとって、つらいものでした。当初は仲間同士で加工施設を立ち上げることを考えていたのですが、「農家のかーちゃん」たちはお金を出すことができない。やむなく私自身が代表になって、加工施設を立ち上げることになりました。その中で身をもって学んだことは、仲良しグループやサークル感覚では、ダメだということです。

ところが、イータテベイクがようやく世の中に出せると思った矢先、福島第一原子力発電所の事故が発生しました。種芋生産は国家で厳しく管理されているのですが、認可を得るため、馬鈴薯植物防疫補助員になり、種芋生産に関わりました。飯舘村での原種栽培が合格になり、2011年度産で採種が合格すれば、世の中に出せるという段階にきたとき、原発事故が起きたのです。

2011年3月の時点で、私は自主避難しながら県の職員に相談し、種芋を植えるための土地を必死に探しました。その結果、5月には避難先で畑を借りて種をまき、未来につなげる種を収穫することができました。

「かーちゃんの力・プロジェクト」始動

そんな中、かねてから飯舘村の地域づくりに関わっていた福島大学の先生から「とみ子さん、今どうしているの」との電話がありました。直接お会いして、「かーちゃんの力・プロジェクト」の構想を聞きました。これは、原発事故で、飯舘村と同じように畑も加工場も奪われてしまったかーちゃん達に食に関する技や味を伝え、地域を元気づけることを目標にするというものです。

震災前、私は飯舘、浪江、葛尾、都路、川内など国道399号線が通る町村と連携して「いなかみち活性化共同体」という事業を行っていました。私は、これらの町村のかーちゃん達を一人ひとり訪ね歩き、構想を伝えました。当初、かーちゃん達からは、「先の見えない中、この先どうしたらいいか考えられない」「自分たちで作ったものを使えず、他の産地のものを買ってまで生産はしたくない」とマイナスの言葉ばかり聞こえてきました。しかし、そんな中でも、「支援を受けるだけではなく、自分の足でもう一度立ち上がりたい」との声も上がり始めました。

2011年11月にかーちゃんの力・プロジェクトの全体会を開催した時、私は保健所の許可がいらない餅と漬け物の生産を提案し、「結もちプロジェクト」が発足しました。プロジェクトでは、豆腐と胡桃で味付けした「さい餅」や荏胡麻を使った「じゅうねん餅」をつくる予定でしたが、当時、福島県の玄米から国の基準の500ベクレルを超えるセシウムが検出され、原料として使えない状態でした。困っていたところへ新潟県石打地区から「中越地震でお世話になったお返しです」と、餅米と青肌大豆の提供がありました。

プロジェクトのおかげでかーちゃん達に笑顔が戻り、「またやりたい」との声も聞かれました。

地域雇用再生創出モデル事業に申請

私は、福島大学の小規模自治体研究所の契約職員としてこのプロジェクトに参加していたのですが、契約期限は2012年の3月まででした。福島大学の先生方は期限が終了しても何とかプロジェクトを継続したいと、県の地域雇用再生創出モデル事業に申請してくれました。

プロジェクトが県に採択され、2012年4月には、下は30歳から上は74歳までの12人を雇用しました。ちなみに、私自身は、モデル事業に申請する際、自分の名前を事業の代表者として登録していたため、経営者とみなされ、賃金をもらうことができませんでした。

プロジェクトでは、「伝えます 届けます 広めます 『故郷の味』」をキャッチフレーズに弁当や漬け物、菓子の加工販売を行っています。この弁当は、福島医大の先生や栄養士会の協力を得ながら、カロリーを550キロカロリー未満、塩分を3グラム未満に抑え、「かーちゃんの笑顔弁当」として販売しています。

しかし、プロジェクト開始前に私が「いいたて雪っ娘」を販売する際、「飯舘村の名前を出すのか」と言われました。私は「出します」と言いました。出すからには、自分達で安全基準を決めようということになり、世界の中でも厳しいと言われるウクライナ基準(野菜1キロあたり40ベクレル未満)よりもさらに厳しい「1キロあたり20ベクレル未満」という基準を設定しました。それが、かーちゃんの基準にもなりました。

今後の自立に向けての課題

プロジェクトの将来について、いつまでも助成金や補助金頼みというわけにもいかないので、今後の自立に向けた課題をあげました。

まず、プロジェクトの運営組織「かーちゃんの力・プロジェクト協議会」のあり方です。現在は任意団体なので個人事業主とみなされ、さまざまな契約を結ぶのに制限があります。今後は法人格の取得に向け、検討しなければなりません。また、組織のメンバーについて、上からの指示を待つのではなく、「自分達のことは自分達で考えて行動する」との意識付けをしていくことも重要です。

次に経営感覚・バランス感覚の養成です。自立のためには、利益をあげなければなりません。かーちゃん達には、「原価計算をしっかりしなさい」と伝えています。また、支援を受けながら地域の方々とも連携していかなければなりません。これを両立するためのバランス感覚を養うことも大切です。

私個人の課題としては、モチベーションのコントロールがあげられます。プロジェクトの代表である私は給料も保障もないため、ボランティアとしての活動に限界を感じることもあります。モチベーションが下がらないよう、なんとか自分自身をコントロールしている状態です。

最後に私がつくった「あきらめないことにしたの」という詩をご紹介して締めくくりたいと思います。これは、私が本当に苦しい中で、イータテベイクやいいたて雪っ娘を育てている時に、ふと書いた詩です。苦しいときにはこれを読みながら、原点を振り返ることにしています。

この「あきらめないことにしたの」は、災害の後でも諦めないで生きていくとの覚悟を示したものです。私たちは、いつ福島に帰れるかわかりません。戻れる人、戻れない人たちがいるなかで、かーちゃん達のつながりをどのように保つか。

ふるさとをなくした人の中に飯舘村でキムチをつくっていた高橋トク子さんという74歳の女性がいます。彼女が、飯舘村に戻り、土を耕して、再生するには時間が足りません。そういったかーちゃん達の一人ひとりの歴史をきちんと残してあげるのが私の新しい夢です。

あきらめないことにしたの 沢山悔しい思いをしたよね 沢山、沢山泣いたよ でも、生きてる やっぱり止まっては駄目だよ どんなに小さな一歩でも前へ進んだら ほらね。実ってくれたんだもの 植物は、こんな状況の中でも 頑張って生きているんだもの だから私は あきらめないことにしたの