パネルディスカッション:第10回労働政策フォーラム
キャリア教育に求められるもの
(2005年3月18日)

開催日:平成 17 年 3 月 18 日

※無断転載を禁止します(文責:事務局)

配布資料

【吉田】 ただいまから、パネルディスカッション「キャリア教育に求められるもの」に入りたいと思います。このパネルの趣旨とその問題背景として次のような事が挙げられます。

まず第1点が、雇用環境の変化と若年層の問題ということで、現在、日本の若者を取り巻く産業雇用情勢は大きく変化しております。雇用の不安定化、非正規雇用の拡大の中で、若年層におけるフリーターやニート、失業の増加が顕著になっております。高齢化社会が進展する中、若者は、次代を担う貴重な資源なのですが、若年層が社会的に活用されていないという深刻な問題が生じております。

第2点は、主体的なキャリア開発が必要なのに、なかなかそれが進まないという問題です。学校から職場への移行が円滑に進まないだけではなく、一生のキャリアを左右する若年期の初期段階におけるキャリア形成、能力開発に問題が生じてきている。かつて企業は、学校教育に期待せず、若年を採用後、丸抱えで雇用を保障し、必要な教育訓練を与えてきました。そして、一人前の職業人に仕立てました。しかし、今では雇用保障が困難な半面、教育訓練でも、従業員個人サイドの自己責任によるキャリア開発を強調するようになっております。しかし、個人サイド、特に若年層においてはキャリア意識の発達が遅れていることから、主体的な対応が困難な状況にあります。

3点目は、キャリア教育への期待と戸惑いです。国際比較調査を見ても、日本の高校生は、自立・チャレンジの意識が非常に低い、社会的成熟度が低いと言われております。このままでは日本は、先進国や中国などの追い上げで、国際競争に生き抜いていけないということで、変化する環境に自立的に生きていける個人をつくろうという趣旨で、関係省庁が、最近、「若者自立プラン」というものを立て、進めております。その前提には、キャリア意識を持たせる教育という基本に戻って、キャリア教育が叫ばれているところであり、4月から新しく各方面の施策が展開されようとしております。しかし、学校をはじめとする第一線では、キャリア教育というものをどのように理解し、どう着手したらよいのか、大きな戸惑いがあります。この時期に、キャリア教育を前進させていくためにはどうしたらよいかという点につきまして、改めてキャリア教育を考えてみたいと思います。

メンバーを簡単に紹介させていただきます。このパネルには、ジェプセン先生の他に3名の先生方に参加していただいております。木村先生は、学校から職場への接点、職業人生を見通してのキャリアガイダンスなどをやっておられます。それから、三村先生は、申しあげるまでもなく、日本のキャリア教育の原点も調べられ、小学校レベルからの具体的実践について第一人者と言われる方でございます。そして、藤田先生も、日本とアメリカのキャリア教育と、プロアクティブな発達支援などについてもすぐれた業績を展開されておられます。

このパネルでは、3人の先生方にそれぞれの切り口から発言していただきまして、最後に、ジェプセン先生にコメントをいただきたいと思います。それでは、まず三村先生からお願いします。

【三村】 レジュメには、日本の学校教育におけるキャリア教育の導入と、労働界の状況が簡略化して並行に書かれております。

1.キャリア教育導入の経過

(1) 「キャリア教育の登場」(1999年12月)

周知のとおり、この時、我が国で初めてキャリア教育というものが示されたわけです。とりわけ、キャリア教育が小学校段階から実施する必要があると公に示された点が重要であったと考えております。戦後、新制中学校の発足と同時に小学校から職業指導をなくした時点で、ある意味、問題が始まっていたかと考えています。中学校、高等学校の職業指導・進路指導の流れの中で、いくら先人たちが進路指導・キャリア教育の重要性を強調しても、やはり、小学校段階から実施しない限り、現実的なものにはならないのではないかと。そういう意味で、 1999年に示されたことは非常に重要であったと思います。

(2) 「職業観・勤労観を育む学習プログラム」(2002年11月)

ご参考にA3判の資料を配布させていただきました。学校教育のよりどころとして、この学習プログラムを基にキャリア教育が推進されている地域が多いということです。

(3) フリーター417 万人(国民生活白書)

キャリア教育の推進を刺激するいわゆるフリーター、ニートの問題ですが、厚生労働省の 2004 年版の労働経済白書ではフリーター 217 万人となっており、国民生活白書と数値が異なっております。これは、フリーターの中に派遣社員を入れるかどうかという解釈の違いからだということは、周知のことかと思います。

(4) 若者自立・挑戦プラン( 2003 年 6 月)

こうしたことを背景に、 2003年に「若者・自立挑戦プラン」が策定されました。従来の教育施策は主に文部科学省を中心に行われてきましたが、厚生労働省、経済産業省、そして、経済政策担当大臣という幅広い日本の国家政策の担当者が、教育施策に関わったという意味では、このプランの重要性が指摘されるのではないかと思っています。

(5) キャリア教育と進路指導の関連明示(2004 年 1月)

従来、論じられていたキャリア教育と進路指導の関係について、「進路指導の取組は、キャリア教育の中核をなすものである」という、ある程度、解決づけた言葉が報告書に盛り込まれました。

(6) 新キャリア教育プラン推進事業(2004 年4月~)

「キャリア教育プラン推進事業」については、文部科学省が全国 45 地域(小学校 110 校、中学校 86 校、高校 80 校)を指定し、既に各地域が1年目を終えようとしております。私も、これらの指定地域のうち、直接・間接的に9つの地域に関わっております。後ほど現状をお話しさせていただきますが、地域が指定を受け、行政の後ろ盾を受けながら、小・中・高校が連携し、キャリア教育が実際に始まっているということをもう一度、数値も含めてご理解いただければと思います。

(7) 若者自立・挑戦プランの強化(2005 年4月~)

以上のような政策をバックアップするようなプロジェクトが、 2005 年4月から始まります。文部科学省の「キャリア教育実践プロジェクト」という名のもと、向こう3年で、連続して5日以上の―ちょっとこの「連続して」がどれだけ強いものかよくわかりませんが―職場体験を1万校の中学、ほぼすべての公立中学校で実践するというプロジェクトです。あるいは経済産業省では、「キャリア教育プロジェクト」として、小中高からの働く意欲を高めるために、地域や企業が連携してビジネス体験の場を提供するようなプロジェクト―聞くところによりますと、一地域 2,000 万ほど出るということですが―、それが今、募集・申請を受けているという状況のようです。

2.キャリア教育実践の進捗状況

こうした中で、では、実際に学校はどう動いているのかというところを、次に見ていきたいと思います。ここでは、実際にその学校を訪問し、あるいは担当者と面と向かって話をしたものだけを挙げております。

(1)静岡県沼津市立原東小学校

前述のキャリア教育の指定地域でない場所で、3年前からキャリア教育を始めた小学校の例を挙げています。この小学校の事例に関しては、『キャリア教育が小学校を変える!』という本に書いておりますが、私は3年前からこの小学校を訪問し、1年間の導入、2年目までの実践が、もうこれで終わらんとしております。

さまざまな実践例を挙げるのもまた良いのですが、どのように学校が変わったかというところを少しお話しさせていただきたいと思います。先生方一人一人の言葉を紹介させていただくと、1年目の実践が終わった後の研修会で、ある男性の先生が、「これまで自分は教育活動、教育実践を行ってきたけれども、壁に直面したときには、いつもその問題の前で足踏みをしていた。しかし、キャリア教育を自分が始めてからは、自分が直面した問題を解決するベースができた」という感想を話しておられました。また、2年目の実践が終わり、翌月にリタイアをする女性の先生は、「私は、この3月で小学校教諭を引退します。最後の2年間、とてもいい思いをさせていただきました」という感想を仰っておられました。

(2)広島県尾三地区

上記(1)が、いわゆる指定を受けずに独自でキャリア教育を始めた小学校の事例です。これに対し、上記(2)は推進地域に指定されておりますが、同区の学校では既に平成13年度から県の指定を受け、小中高で学校間連携の実践が行われています。小中高12年間を通じたプログラムの実践が行われいるので、この地域でのキャリア教育の導入は進んでおります。携わっている先生方も、これまでの実践の積み上げ学習プログラムの枠組み(例)を効果的に活かしております。

(3)富山県氷見市立一刎小学校

この小学校は推進指定を受けていませんが、これまで長年、「全国花いっぱいコンクール」に出品しており、いわゆる飼育活動を通して子供たちを教育する、勤労生産活動に携わるというベースの上に、キャリア教育を乗せております。縦割り集団による勤労生産活動等、自分たちがそれまでやってきたものの上にキャリア教育を乗せて実践しています。

(4)北九州地区、北九州市立泉台小学校

この学校は推進地域になっていますが、同地域では、平成 12年度から、生活科・総合科の連携が成果として上がっています。その上にキャリア教育を乗せているわけです。

こうした学校の先生方と、正式な講演などではなく、例えば私が近くに寄った際、先生方から「喫茶店に集まるから来てくれませんか」とか、「公民館を借りますから勉強会しましょうよ」というお誘いを受けて、非公式に会合を持つ場合が多いのですが、教師の皆さん、お休みでも出てくださって、すごく活発な議論がなされます。キャリア教育とは何か、教師の実践とは何か、そうした議論を通して、キャリア教育に携わる先生方の共通の思いを、幾つかの地域に関わりながら感じております。

3.共通の疑問から日本のキャリア教育に求められるもの

しかしながら、こうした地域の先生方、皆さんが順調にいっているわけではありません。最初は問題にぶつかります。初めに直面する問題は、大体同じです。それは、「自分たちがやっているものが果たしてキャリア教育に当たるのだろうか」、「キャリア教育とは一体何なのか」という2つの疑問をお持ちになります。私は、これらの疑問が、最初に申し上げた新制中学校になった際に小学校から職業指導・キャリア教育を事実上なくしてしまった我が国の学校教育が抱えた、それを要因とした問題ではないかと考えております。何かモデルがあって、そのとおりにやらなければならないというものなのかどうか、そして、キャリア教育とはこれだというものは、本当にあるのだろうかというところです。

2つ例を挙げたいと思いますが、 1927年、学校教育に、つまり小学校を含む学校教育に職業指導が取り入れられた最初の訓令 20 号という文面の一部から取り上げました。ここに、「職業ニ関スル理解ヲ得シメ勤労ヲ重ムズル習性ヲ養ヒ始メテ教育ノ本旨ヲ達成スル」という言葉があります。これには既に職業の理解、職業観、勤労を重んずる習性、勤労観が入っていて、これを養うことが教育の源であると謳われています。やはり、小学校からの教育が分断されたというのは、日本の学校教育においては、非常に大きな損失だったのではないでしょうか。

次に、 1918 年、大正7年に、自分で小学校の教育に携わった校長が次のように言っています。「吾人は職に真に人を生かしむべく、直接輔導の任にある者」。小学校の先生に向かって、「あなた方は、職にほんとうに子供たちを生かすように直接輔導―これは「ガイダンス」の意味ですね―ガイダンスの任にある者だ」ということで、この先生は、その時期からすばらしい実践を行っていたわけです。

このように、これから教育全体を変えていくものが、キャリア教育、その中でも小学校からのキャリア教育が重要なのではないかと考えております。かつては小学校においてキャリア教育と共通の理念がわが国に存在した事実は今後の学校教育におけるキャリア教育の可能性を示唆していると思います。学校教育の立場から、私の考えを述べさせていただきました。

【藤田】 私からは、どちらかというと中等教育を中心にお話をさせていただき、そこで進められている教育改革とキャリア教育との関係を軸にしながら、何がそこに求められるのかを考えていきたいと思います。

1.今日進む教育改革の特質とキャリア教育

まずキャリア教育を考える上で、教育改革の特質を知ることが重要なのではないかと思っています。そのときに、教育改革が「多様化」をキーワードに進んでいるということを、まず前提としてお話ししたいと思います。

例えば、高等学校の多様化(シート1)ですが、 1980 年代から、いわゆる職業高校と言われるものの改変を中核としながら、これまでになかった新しい学科が提供されております。また、それとは全く違う方策になりますが、1994 年には、普通科、職業科に続く第3の学科として総合学科が導入されております。現在では、200校を超えた設置が進められているところです。これが、外から見える多様化と言えるのではないでしょうか。

学習指導要領、これはカリキュラム改革としての多様化になりますが、学校内でも多様化が進んでいます。いわゆる「3割削減」というものですが、3割が削減されたのではなくて、ほとんどは次の学校段階に先送りされているわけです。先送りされた結果の高校や中学ではどうしているかというと、選択科目のほうに流している。すなわち、今まで選択科目というものは、学校選択と言われており――学校から見ると選択なんですが――、中に入っている子供たちから見ると選択でも何でもなく必修という状況だったわけですが、今度からは、実質的に子供たちの選択を許容していこう、むしろ選択することによって自分たちの学びのデザインをさせていこうというような流れが、ここで見られるわけです。

このように外から見ても内から見ても選択の幅が広がるということで、ここで少し頭の体操をしていただきたいと思います。ここにA定食とB定食を用意いたしました。食堂に入って定食が2つしかなければ、恐らく迷う方でも 30 秒ぐらいで、多くの方は10 秒ぐらいで、魚にするかトンカツにするか決められると思います。しかし、例えば何かの記念日で、1食3万円なり 5万円を使おうとするとき――あまりないですが、清水の舞台から飛びおりようというようなとき――、何回も決断をしなくてはなりません。これを 5,000 ~ 6,000 円の食事で済ますとなると、先ほどのA定食、B定食とあまり変わりませんが、そうではなくて、3万円、5万円ぐらいの食事を考えるとき、1皿ずつ物を組み上げていくわけです。例えば、10 皿あれば 10 回の決断を下さないと1セットできないわけです。これは、料理そのものに対する幅広い深い知識を顧客に求めているのと同時に、その客自身も、自分が何を食べたいか、要するに自分自身で何をしたいのかということがわかっていないと、金をむだ遣いすることになっていきます。すなわち選択肢が増えることは、それに伴って選択する高い能力を、選択をする側に求めていると言えるのだと思います。

このように考えたときに、教育制度の改革における選択肢の拡大、最初の例に戻りますと建築インテリア科や環境防災科のように、早期進路決定を促す多様化と同時に、総合学科のように進路決定のモラトリアムを許容するかに見える多様化もあります。しかし、許容しているのではなく、幅広い科目選択を許すというのは、実は非常に高い進路選択能力を高校生に求めているのではないかということだろうと思います。また、学習指導要領における選択肢の拡大も、同じことがいえるのではないでしょうか。

こうして考えてみると、現在の教育改革においては、幅広い多様な選択肢を将来に生かす力の育成が求められています。まさにキャリア教育の課題というのが、ここに表れているのではないかと考えます。

しかし、現在進められているキャリア教育の推進施策には、どうしても緊急対策的なところがあります。フリーターや早期離職者の問題、あるいはニートの問題、これは緊急対策として十分考えなくてはいけない問題ですが、それと同時に、緊急対策とは異なる長期的視点に立った教育プログラムの立案が、どうしても遅れてきているのではないかと思っています。

もちろん、緊急対策が必要ないと言っているわけではなく、それと同時並行で、もう少し長いビジョンでの教育プログラムとしての施策の構築が求められるのではないでしょうか。

2.不可欠な2つの力:内に向かう力、外に向かう力

私たちが考えなくてはいけないのは、2つの力が必要だということです。キャリア選択の段階でよく言われることですが――従って私のオリジナルでも何でもないのですが――、「内に向かう力と外に向かう力が必要だ」ということです。つまり、自分が何であるかということと、社会がどうなっているかということの両方知らなければならないということです。内に向かう力については、例えばさまざまな査定用具と言われる心理的検査があります。ただ、いかんせん、心理検査を受けているのが生活経験の乏しい子供ですので、彼らにまんじりともせず内面に内面に視野を向けていっても、はたして自分自身に向かうことができるでしょうか。結局、私たちは社会と関わり、人と関わることで自己を発見し、自己形成しているということも同時に考えていく必要があるのではないかと思います。

また、外に向かう力を育成するに当たっても、いかに社会科の授業を組み立てても、あるいはキャリア教育と言われるものを組み立てても、子供たち自身が、大人のことだから自分たちには関係ないと思ってしまったのでは意味がなくなるでしょう。子供たちが持っている社会認識力について、仮に水をくみ上げる「ひしゃく」に例えた話をすると、子供たちが生活経験の中でつくり上げてきたひしゃくというのは、非常に小さいものです。そのひしゃくを持って宝の山に行ったり、あるいは泉に行って水をくんでこいと言っても、やはりひしゃく1杯分しか水はくめないでしょう。やはり、学校教育によって子供たちの生活経験を超える大きな支援をすることによって、ひしゃくを大きく育ててあげなくてはならない。ひしゃくを樽のように大きくして泉に行けば、きっと沢山の水をくむことができるでしょう。

そうした意味で、よりプロアクティブな、事前の計画性のある、体系性のあるキャリア教育が必要なのではないかと思います。

人と関わること、社会と関わることで内に向かう力(自己理解力)を育成し、外に向かう力(社会認識力)を育成していくわけですが、そこで、職場における学習が非常に重要になってくるわけです。ただし現在、多くの学校では、職場での学習を大過なく実施することが先に来てしまいがちです。では、その次に来るステップは何かということを考えていきたいと思います。

3.成否の鍵を握るプロアクティブな発達支援

ここで言うプロアクティブな――子供自身が悩んだり、あるいは進路選択に迫られたりする前に――何らかの積極的働きかけが必要ではないかと思うのですが、よくよく考えると、学校教育というものがプロアクティブな働き方の集大成なのではないかでしょう。例えば、数学を勉強したくてたまらない子供たちだけに数学を教えるとか、国語の漢字を勉強したくてたまらない子供たちに国語を教えるということでなく、社会生活上必要だから、現代社会に生きる人間として教養として必要だからと、一生懸命動機づけをし、あるいは新たな視点を獲得させるためにプロアクティブに教育プログラムを提供してきたのではないでしょうか。子供たちがやりたいことを見つけるまで待つとか、彼らの要求に応じた教育を提供するというよりは――むろん、強制的にキャリア教育をしていくことは全く意味がないかもしれませんが――、もっと積極的に働きかけ、子供たちの動機づけをしたり、視点や視野の拡大に働きかけるプログラムが必要なのではないかと思います。

4.職場見学・職場体験・インターンシップをめぐって

具体的には、キャリア教育実践プロジェクトなどの中心には、職場体験・インターンシップなどがあります。小学校での職場見学、中学校での職場体験、高校でのインターンシップという用語の使い分けはあるものの、それぞれの狙いが体系化されているかどうかというと、必ずしも我々全員が納得するように体系化されていないのではないでしょうか。これは非常にうがった言い方になりますが、中学校段階で職場に行くと職場体験と呼び、高校段階で職場に行くとインターンシップと呼ぶというような実践も、もしかしたら混じっているのではないかと思います。

そうした観点から、アメリカにおける――ジェップセン先生から後で補足のご説明をいただければと思いますが――体系化というのは示唆的かと考えます。例えば、 この写真は ミネソタ州の事例ですが――本日は時間がないので中身のご説明ができませんが――、職場見学からアプレンティスシップに至るまでの段階性、体系性というのが前提として組み立てられております。こうしたなかで狙いが明確になっていけば、実践を評価するときも、その狙いがいかに実践において達成できたかという視点ができますし、体験学習の評価もできていくでしょう。また、受け入れ側の企業や地域社会と職場体験・インターンシップを共有することによって、単にお客さんとして中学生、高校生を迎え入れるだけではない、学校との共同作業としての職場における学習ができてくるのではないかと思います。

5.「夢」「将来展望」をどう位置づけるか

このように、中等教育段階におけるキャリア教育を考えた場合、受験という障壁があるなかで、どうしてもキャリア教育が後回しになり、次の学校段階に先送りされてしまうという問題があります。小学校では中学校でやればいいと言われ、中学校では高校でやればいいと言われ、高校では大学へ入ってからやればいいと言われ、結局どこでもやっていないということになってしまいます。そうではなくて、ここの学校段階ではこうしたことをやったのだから、次はこうしてほしいというような、「先送り」ではなく「申し送り」が行われればいいと思います。その一つの体系化のヒントになるのが、文部科学省を中心として推進しようとしている体験学習なのではないかと思います。

キャリア教育に対しては、「そんなこと言ったって、うまい具合にキャリアが計画どおりに進むはずないんだ、そんな絵空事を考えさせてもしようがない」という意見もあります。しかし、計画どおりに物が進まないからといって、計画そのものが無意味だということでは決してありません。億万長者や芸能人のような、輝かしい人の関心を集めるような人生を送ることができない人間でも、その人生に価値がないとは思いません。ごく普通の人間が、ごく平凡な日常を一生懸命生きている、その一生懸命さの中に、実は生きていく価値があるのだという視点で、キャリア教育をしていくことが必要なのではないかと思います。

それでは、私がたまたま出会った言葉を引用して終わりたいと思います。 19 世紀のアメリカに、エマソンという思想家がおりました。次の言葉は、彼の残した詩の一部を翻訳したものです。

健康な子ども、小さな庭、あるいは、社会的な状況の改善

これらのうちのどれかひとつでも後に残して、世界をほんの少し良きものにし得たこと。

成功したとは、そういうことだ。

この詩では、何も社会改善をしたり、巨万の富を残したりすることではなく、子供を残すこと、あるいは小さな庭を残して近隣の人たちにほっと目を休めてもらったりすること、そうしたことも、成功したということの要素なんだ言っています。それぞれが主役の人生をそれぞれ一生懸命生きていくことが成功ということなのではないか、そういう見方でキャリアをとらえた場合、誰にとっても自分が主役の人生を生きる上で支援が必要です。所詮わたしなんかどうでもいいんだというような認識を持つ子供たちがいるとすれば、それは私たち自身が、キャリア、あるいはキャリア教育のとらえ方に関して違った見方をしてきたのかもしれないという感じがいたします。

非常に簡単ではございますが、私の発表は以上です。ありがとうございました。

【木村】 本日は、学校教育から産業界への移行期と、産業界で今、起こっていることについて2点申し上げたいと思います。

1.キャリア形成における教育、職業行政、企業の連携

1点目は、産業界におけるキャリア・コンサルティングについてです。キャリア・コンサルティングとは、「労働者が、その適性や職業経験等に応じて自ら職業生活設計を行い、これに即した職業選択や職業訓練等の職業能力開発を効果的に行うことが出来るよう、労働者の希望に応じて実施される相談」であります。今日、産業界におけるキャリア・コンサルティングを通じ、キャリア形成をみずから個人主導でやっていくような体制をつくることが、ようやく始まりました。制度が出来たからといって、産業界において、個人のキャリア形成支援が果たして自ずと行われていくのかどうか、今後の問題でありますが、相当多くの企業がキャリア・コンサルティングを行う体制を整えつつあります。

そこで一番問題となりますことは、「キャリア形成における教育、職業行政、企業の連携」が、いよいよ求められるようになったということです。しかし、キャリア形成の基礎をつくるのは、学校教育です。学校教育でつくったものを職業行政などの就職支援が企業に結びつけ、会社に入ってからは、企業がサポートしていく体制が始まったということである。

資料の「参考」に、キャリア・コンサルタントは何ができ、何をやる人かということを書いておきましたが、私の認識では、学校のキャリア教育、進路指導と全く同じものです。やり方も、手順も、その内容も基本的には同じです。つまり、学校のキャリア教育を会社の中で行う、これがキャリア・コンサルティングです。

2.学校教育に「働くこと」を取り戻す

2つ目の問題として、ここに、「学校教育に『働くこと』を取り戻すこと」と敢えて書かせていただきました。すでに取り戻しているかもしれませんし、言い過ぎかもしれませんが、今日的意味で、「学生・生徒に『働くことの意味』を『考え、体験し、それを自分のモノにさせる』」のが、今、キャリア教育に求められていると私は思います。

問題なのは、働くことの意味とは何かということです。我が国は、古くから、江戸時代の士農工商の身分に基づく職分とか、家業を受け継ぐとか、職分に基づく農民道とか、商人道とか、職人かたぎという勤労観、職業観がありました。そういうものを基盤とした、正直、勤勉、節約という日常生活の規範というものがあったと言われてきました。私は、小学校の校庭に二宮金次郎が立っていたような時代に育った人間ですので、今日でも、働くうえで、正直、勤勉、節約という言葉は納得するわけですが、もはやこれらはすべて死語になってしまいました。しかし、今日、こうした言葉と無縁に、働くことの意味を教えることができるだろうかと問われたら、私は出来ないだろうと思います。

そこで、若いころから読み続けてきたいくつかの本から、働くことの本質に関わる言葉を拾ってみました。

(1)自分本位と他人本意

最初に、夏目漱石の講演集の中に『道楽と職業』というのがありますが、その中に、「豆腐屋は自分のために豆腐を作っているのではなく、他人のために豆腐を作っている。その豆腐を売った利益で自らの生活を立てている。人のためにしたことが同時に自分のためになっている。それが働くということだ。」という趣旨の表現があります。漱石は、これを、「自分本位と他人本位」と言っております。両方がなければ、働くということにはならない。ここでは、「自分のためにする仕事と人のためにする仕事の分量は同じ」だと漱石は言っています、もともと働くというものにはそういう本質があるということです。(夏目漱石 1911「道薬と職業」漱石文芸論集 岩波文庫)

(2)専門分化と分業

「専門分化と分業」、これも同じ漱石の講演集の中に、 1911 年の時代ですが、「今、日本に職業が何種類あるかということを知っている人はいないだろう。私は以前から、大学に職業学という講座が必要だということを考えている。」ここで漱石は何を言っているかといいますと、分業がどんどん進んでいけばいくほど、時代の変化とともに人間は偏っていくのだということを言っております。今日、分業がさらに促進し、その中で自分が何をしているかということをどれだけ理解させるか、それが教育をする上で大きなポイントだといっています。(夏目漱石同上)

(3)労働の成熟

「働くこと」にはどうしても、やってみなければわからないというところがあります。労働が成熟してくるということを、黒井千次は、「経験を通じて仕事が自分の中に受け入れられ、それが他人事としてではなく、自分の中に入り込んで、自分の中で生き始めたとき、自分の中で何か動き始めたとき、それが労働が成熟したということだ。」といっています。経験をずっと積めば、労働が自分のものになるかというと、そういうものじゃない。経験を積んだものの中の働くことの本質が自分の中に入り込んできて、それがあたかも最初からあったごとく動き始めたとき、労働は成熟した。この労働の成熟というのを、どのように学校教育の中で教えるかということが非常に重要だと思います。(黒井千次 1982 「働くということ」講談社現代新書)

(4)労働にかりたてるもの

人からやれと言われてやるのではなく、我を忘れてそれに取りかかるようなこと、これが労働に人を駆り立てるものです。これについては、ソルジェニーチンの『イワン・デニーソビィッチの一日』から挙げました。強制収容所で時間が来たら皆と一緒に帰らなければならない、時間だから集まれと言われ、遅れたら牢屋に入れられるような状態に置かれても、イワンは壁塗りをやめない。イワンは、呼ばれても最後まで残って、ためつすがめつ壁を見て、「うむ。悪くない。右から左からと壁の―をたしかめる」そして、一番最後に駆けてくるという一節があります。我を忘れて働くということはどういうことか。月曜から金曜までは会社の中で、会社に言われたとおりちゃんと仕事をやっていて、何の不満もないし、自分なりにちゃんとやっていると思う。しかし、我を忘れて働いているというのは、土曜と日曜、老人ホームでボランティアとして働いている時だと思う人がいる。その人にとってのキャリアは、果たしてどちらなのだろうか。両方だと思いますが、ボランティアの部分もこの人にとって立派なキャリアだと私は思います。(A・ソルジェニーチン・1963「イワン・デニーソビッチの一日」 新潮文庫)

(5)仕事が人をつくる

私が古くからおつき合いのある小関智弘さんという作家・旋盤工がいます。「大森町界隈職人往来」(岩波書店)で著名な旋盤工で、作家でもある方ですが、「人は働きながら、その人となってゆく。人格を形成するといっては大袈裟だけれど、その人がどんな仕事をして働いてきたかと、その人がどんな人であるかを切り離して考えることはできない」と言っています。今日、できれば趣味や余暇で人生を過ごしたいという若者が多いと言われていますが、人は、自己紹介するときに、私はこういう者ですと一般に職業を言いますし、引退した者は、過去の仕事について語ります。働くということと無縁に自分自身を表現し、他人にも理解を求めるようなことはない。私は現在のところ余暇や趣味は、労働にとってかわってはいないと思います(小関智弘 2001 「仕事が人をつくる」 岩波新書)

3.ではどうすればよいのか~「自分のために働く」~

一言で言えば、「自分のために働く」ということを教えればい。 30年ほど前、労働の人間化の研究が盛んに行われました。どんな働き方がよい働き方なのか、要約すると (1) 労働の内容に手応えがあること、(2) 仕事から学ぶことがあること、(3) 自分で判断する余地があること、(4) 人間的なつながりがあること、(5) 仕事に社会的意義を感じられること、(6) 将来にとって何らかのプラスになること、以上のような要素を含んでいる労働が、人間化された労働すなわちよい働き方といわれます。今日労働の人間化が求められているのは、だれに求められているかといいますと、まず事業所側に求められているわけです。会社がこうした労働をつくりだせば、働く人は、そこにみずからそれを選んで働いていく、これが職業人生だという考え方です。

私は、こうした労働に含まれている本質を学校教育の段階で教え、雇用政策にバトンを引き継ぎ、就職選択の支援を受け、産業にバトンを渡すことが必要だと考えています。ですから、バトンを渡された会社は、従業員のキャリア形成をサポートしなければなりません。幸い、キャリア・コンサルティングの動きは、裾野が広がってきております。経営者がどれだけ理解しているかは分かりませんが、産業カウンセラーやキャリア・コンサルタント、キャリア・カウンセラーなど、名前はいろいろですが、こうした方々の意欲と集団の力がようやく動き出しました。5年間で5万人を養成しようという勢いですので、数の問題でなく質の問題も出てくるでしょうし、さまざまな課題を抱えてはおりますが、そういう人たちの力が、私は、経営者を動かしていくはずだと信じております。

コメント

【ジェップセン】 3人の先生方のお話を、あたかも私自身が生徒・学生であるような気持ちで聞いておりました。ですので、先生方の話を聞き終えて、教室を後にするという生徒の気持ちで、これからコメントをしたいと思います。

まず最初に、木村先生のお話についてですが、自分のために働くという点、これに関してのコメントが私の想像力を非常にかき立てました。私の講演の部分と、木村先生のお話しになったことを少し関連づけて説明したいと思います。

1点、私の講演につけ加えたいポイントがありますが、それは、人はみずからのキャリアストーリーといったものを書き上げる、いわゆる作家であるということを話しました。その概念のもとで、一つつけ加えたいことがあります。つまり、みずからがとる行動によって、作家自身も変化をしていくということです。もし、本当に時間が許せば、木村先生と何時間でも語り合いたいと思っているところであります。

また、藤田先生のお話でも、いろいろと参考になる、勉強になる点がありました。特に、選択肢が増えることについて、コース料理を例えに、料理をいただく人が自分から選ばなければいけない、何を食べたいのか選ぶという話が非常に興味深かったと思います。もちろん、今の世代の人たちにとっては選択肢が拡大し、私の時代にあった頃のメニューの選択肢よりも非常に幅が広がっていると思います。

また、藤田先生のお話の中で「先送り」という言葉がありました。これも非常に重要な点だと思います。つまり、特に高校、中等教育の段階で、自分が何をしたいのか、何をやってみたいのか、それを考えてもらうということは非常に大事だと思います。ただ、多くの場合――アメリカでのケースですが――、子供たちの多くは何らかの決定を下すのではなくて、高等教育に入ってから、例えば大学に進んでから、カレッジだとか、もしくは専門学校に行ってから決めようというように先送りをしていました。そしてこの先送りがうまくいかなかったのです。カレッジに入ってから様々な選択肢を目の前にするわけですが、前の段階で先送りをしていなければ、よりよい形でそれらの選択肢に向かうことができた、そうした準備ができたはずなんです。

それから、三村先生のお話の中で非常に勉強になったのは、今、日本においてどのようなことが起きているのか、その現象を学んだことであります。特に、さまざまなプログラムがあちこちの学校で実施されていることがよくわかりました。

そこで、1つ思いましたのは、やはり適切な方針・政策が展開していくためには、きちんとした現状把握が重要であるということ、きちんとしたデータをとること、また、今、何が学校の現場で起きていて、生徒たちは何を考えているのかを把握することが重要だと思いました。しっかり把握をしていないと、きちんとしたプログラム、授業の形成はできませんし、ひいては子供たち・生徒たちに対して、キャリアに関する決定を行う際の十分な援助・サポートもできないと思います。

最後に、これは1つ私のほうから皆さんに考えていただくコメント、それから、自分自身も考えている、いつもの問いかけを投げてみたいと思います。どうしたら若者に対して、働くということを教え、サポートしていったらよいか、いつも自分で考えていることがあります。通常は、私の世代、私の年齢に近い方に対しての問いかけになります。つまり、こういうことです。もし今、日本において、高校を卒業しようとしている若者と自分がその立場が入れ替わることができるのならば、あなたは立場を替わり、その高校生になりますか、という問いかけです。今まで自分が生きてきたなかで蓄積した知識や経験も踏まえて考えた上で、立場を替わりますか、という問いかけです。私の場合、半世紀に及ぶ経験がありますが、そうしたものを今度は脇に置いておいて、もういちど 10 代に戻るということなんです。そして、今まで自分が蓄えてきた知識も踏まえて決断をしなければいけない。多くの人は、この問いかけに、必ずしも「はい」と答えません。やはり、決めるのが難しいと言う人が大半です。

今の質問をあれこれ考えていくと非常に深刻になってしまうかもしれませんが、ともかく、私が申し上げたいことは、我々が何をしても、何を決めたとしても、次の世代は、自分たち独自のアイデア、考え方、それからいろいろな慣習をつくり上げていきます。そして、それらを決めていきます。例えば今の 14 歳や 15 歳の子供たちが好んで聞く音楽だとか服装は、我々大人の立場から、実際に聴いてみたい、そのような服装をしてみたいと果たして何人が選ぶでしょうか。それから、例えばアメリカでは一般的なことですが、子供たちは入れ墨を好んでしますが、何人の大人が刺青をしたいと思うでしょうか。ですから、我々大人の世代として、その上の世代として、やはり重要なのは、彼らをうまくガイドしてあげる、指導してあげるということだと思います。彼らに対して、キャリア、働くということに関しては、こうしなきゃいけない、こうすべきだ、だからこうしなさいというふうに要求、要請をするのではなく、指導してあげる、導いてあげるということが大事だと思います。

最後に、経営に関するある教科書の言葉を引用して終わりにしたいと思います。

私たちの将来、未来というのは、自分たちが選択する道ではなくて、自分たちがつくっていく道である。