<事例報告2>株式会社浜野製作所取り組み事例報告:
第56回労働政策フォーラム

ものづくり分野における中小企業の
人材育成・能力開発
(2011年11月15日)

浜野慶一(浜野製作所代表取締役)


浜野慶一(浜野製作所代表取締役)

私どもの会社がある墨田区には、都内で二番目の町工場の集積があります。第1位は大田区ですが、墨田区には東西5キロ、南北6キロの狭い地域に約3,100の町工場が集積しており、対面積の集積率では、墨田が都内で第1位です。

約3,100ある町工場の約半分が従業員5人以下の事業所で、中小というより零細、家族経営をしている町工場が多いのが墨田の特徴です。

当社は金属加工をしている会社で、主に精密板金やレーザー加工、金属プレス加工、プレスの金型の製作をしています。今、従業員が33人。創立が1978年で、今期で35期目を迎えます。私は二代目の経営者で、父親が墨田区で創業した町工場を引き継ぎました。父親が創業して、当時は母親が経理をやって、50、60歳ぐらいの職人さんが2人、3人ぐらいおり、もちろん自宅兼工場でずっと長い間やっていました。

私が会社を引き継いだとき、従業員は2人で、取引していた会社が4社。当社は4次、5次下請け、下手したら6次ぐらいでずっと部品加工をしていました。1993年に父親が亡くなり、私は外で働いていたのですが、28歳のときに帰ってきて社長を引き継ぎました。

その3年後に経理をやっていた母親が亡くなり、またその3年後に父親、母親が残してくれた工場が隣からのもらい火で全焼するなど、この数年にいろいろな出来事がありました。その後、何とか乗り越えることができ、2003年に墨田区の優良工場であるフレッシュゆめ工場というモデル工場の認定をいただきました。同年には早稲田大学との産学連携をスタートさせました。

会社の文化を変えたい

産学連携をやり始めようと思ったときは従業員が7、8人ぐらいの会社になっていました。2人しかいないところから従業員を増やしてきましたが、当時は、残業が多いとか、給料が少ないと言って、「社長、辞めさせてください」と突然、従業員が言ってくる。

辞められると、「えらいこっちゃ」ということになって、即戦力とか経験者優遇という形で採用票なんかに記載して、ハローワークさんにお願いをするのですが、「たまたまハローワークに行ったら募集の案件が出てた」とか、「ちょっと散歩がてらのぞきましょう」とかいう、おっさんがいっぱい来て、その結果、会社の中がばらばらになりました。

教育訓練も、OJTといいながらも、ただただ現場で仕事をするだけ。教育だとか訓練だとかをしたのは採用して初日の10分ぐらい。実態として、そんなことをしてOJTと呼んでいる中小企業はものすごく多いと思います。

2003年から04年にかけて、早稲田大学と一橋大学から、学生が入ってくる縁をいただきました。

通常、産学連携というと、ものづくりの企業と大学が連携することで新商品が生まれたり、開発品ができたりというようなことを期待して、棚からぼたもち的考え方で始める経営者がいます。

でも実際は、忙しさなどを理由として、中途半端で終わってしまう会社が中小・零細では非常に多い。

当社の場合は、会社のレベルを上げていくために、会社の文化とか風土を変えていくために産学連携を始めようと思いました。

経済学部、商学部など文系の学生が社内にやってきました。私は社内の職人さんに、今までのやり方で同じような作業を同じようにやっていたんではなかなかもうからない時代になってきていますよ、とか話すのですが、職人さんは私と話しているときは「はいはい」と聞くんですが、5分ぐらいすると、今までどおりのやり方に戻ってしまう。この凝り固まってしまった、がっちりとした文化、風土を変えていかないと新しいものにチャレンジできないなと思ったのです。

ブログの作成に着手

学生に社内でやってもらったのは、社内をぐるぐる回って、現場で働いている従業員さん、職人さんといろいろと会話をしてもらうこと。もちろん営業改善や生産計画、生産管理などいろいろなテーマがあるのですが、特に現場で働いている人にヒアリングをしてもらって、現場自体の考え方や取り組みを変えていこうと思いました。

文系の学生ですから、工場のことなんて何もわからない。よくわからないから職人さんに教わるしかない。

そういうことをやっているうちに、ちょっとずつ、職人さんの持っている思いとか技術がちらほら出始めてきました。普通、職人さんに若手を教育してくれというと、「いや、社長ね、教育とかね、我々のときは背中を見て覚えた」とか言って、いつまでたっても平行線なんです。しかし、学生さんが入ってくれて、少しずつ、文化、風土を変えていった。

学生が入ってきて、社内のIT化やホームページ、ブログの作成など従業員と一緒になってやりました。会社では日報をつけていましたが、だいたい今日何をやりましたとか、内容はそういうことが中心で、工場長がチェックして、次の日、私の机の上に置いてある。しかし、私もお客さんが来たり、何かいろいろ打ち合わせがあったりすると見られない。最終的には読み切れなくなっちゃって、まったく日報の意味をなしていなかったことがありました。

私が書いている日報も、パートさんが書いている日報も、みんなで見られないかなと思い、インターネットを介したブログでみんなの意見が見られるようにしました。

あるとき、うちの中堅従業員が社内ブログに日報を入れないで帰ってしまいました。家に帰って、「あ、忘れてしまった、日報を入れないで帰ってしまった」と、その従業員は家で入れていたらしいんです。

そうしたら、奥さんが後ろからやってきて、「あなた何やってるの」と。「いや、うちの会社、日報をこういう形でやっているんだ」と。奥さんが「へえ、そんなことやってるんだ。あなた、どんなことを書いてるの、ちょっと見せてよ」と言ってパソコンを奪った。ほかの従業員や私が入れているものも見たのだそうです。

そこでは、「Aさん、今日は風邪を引いていた私に気遣いの言葉をかけてもらってありがとうございました」。そんなようなやりとりがされている。「あなた、いつも遅くてパチンコ屋や飲みに行っているんじゃないかってずーっと思っていたけれども、あなたの会社はなかなか捨てたもんじゃない。これからは夜遅く帰ってきても文句言わないから、こういう人たちのために一生懸命仕事をしてあげなさい」と、家族の応援がついていくようになったそうです。

職人が教わる立場に

職人さんがこれをやるとなると、パソコンもわかりませんし、どこに電源があるかもわからない。今まで技能伝承は、「盗め」なんて言ってきたのに、自分がこれをやるとなると、わからない。いつも教えている若いやつに「悪いけど、ちょっと教えてくれ」となる。師匠と弟子の関係がここで入れ替わり、たった1本のブログではありますが、社内の教育訓練とは言いませんけれども、技能伝承に役立ったことがありました。

同社のHPより

同社(浜野製作所)のHPより/

当社では積極的な教育訓練投資を行っています。社員が国家技能検定の1級をめざすプロジェクトを2008年から実施しています。その結果、たった2人しかいなかった町工場が、電気自動車などの開発もできるようになりました。

地域とのつながりでは、地域の中小企業のメンバーと、スクラップになって捨ててしまう廃材を「配財」にするということで、子供たちを対象にワークショップなどを開いています。また、大学などとの連携では、深海探査船、潜水艦をつくろうというようなことまでできるようになってきました。

震災の被災企業支援では、当社よりはるかに規模の大きい同業の岩手県花巻市の会社とネットワークを組んで、うちの会社の事務所にも営業所を出してもらうなど、営業的交流などを進めています。

私は全国のものづくり企業団体の役員をやっていますが、2011年の9月には新たなネットワーク(発信ブログ)を立ち上げました。これには全国から17団体が参加してくれることになっています。