講演3
受入れ慎重派として認めることができる受け入れるための最低条件:
第50回労働政策フォーラム

今後の外国人労働者問題を考える
―経済危機が日系人労働者に与えた影響等を踏まえて―
(2010年12月4日)

埼玉大学名誉教授 埼玉大学名誉教授 小野 五郎/講演(3)/労働政策フォーラム(2010年12月4日開催:JILPT)

埼玉大学名誉教授 小野 五郎

受け入れ賛否に決定的根拠なし

私は外国人労働者受入れ慎重派としてお招きいただいたのだと思います。そこで、最初になぜ受入れに慎重なのかを簡単にご説明しておきます。

これまで外国人労働者受入れの是非については数多くの議論がなされてきました。

その中で、何で外国人労働力を受け入れる必要があるのか、色々な人が色々な理屈を捏ねていますが、その多くは、あまりにきれいごとばかりに思えます。例えば、やれ「経済協力になる」やれ「国際競争力を維持していく上で必要だ」、さらには「少子高齢化における労働力不足解消のためには他の選択肢はない」とか「グローバリゼーションにおける必然」などなどです。

しかし、これらの理屈は、まさにそれらと正反対の意見の根拠ともなりうるものばかりでして、ただ単に一方の声が大きいからというだけで取り上げるべきものではありません。いずれにしろ、賛否どちらの方が正しいのかという決定的根拠が存在しないことだけはまちがいありません。景気がよくなると受入れ論が高まり、景気が後退すると受入れ論も後退するという繰り返しが続いています。

もとより、1つのことについての必要性の根拠は、決して数多くある必要はないのです。逆から言えば、かくも多くの根拠を挙げなければならないということは、むしろ個々の根拠そのものが薄弱だというにすぎず、そんなものを幾つ集めたところで本当に必要だということを証明したことにはならないのです。逆から言えば、この問題は、決して個々の利害関係者の意見に左右されたり、目先の問題を先送りにしたりすべきものはありません。すなわち、本来論ずべきは「日本の将来にとって、受け入れた方がいいのかどうか」というマクロ長期的課題です。

そこで、時間の制約から、その一つひとつを取り上げて解説することはできませんが、主要なものについて取り上げ、どうして賛否両論が共存しうるのか、マクロ長期的にはどう理解すべきなのかをご説明したいと思います。

まずよく言われる「本国送金を通じて経済協力になる」という話ですが、これこそまさに20年ほど前にアジア経済研究所研究主幹として経済協力問題に取り組んでいた私がこの問題に関わるようになったきっかけなったテーマです。実は、長いこと「経済協力のバイブル」と言われてきた『ピアソン報告』によれば、先進国による途上国人材の受入れは、送出し国側からすれば、発展に必要な若い人材の流出になるので望ましくないとしております。また、私自身が現地調査をした結果によっても、一部の例外を除けば、本国で送金を受けた人たちにとっては不労所得として乱費されるだけで、かえって現地社会を混乱させるように思います。

似たような話で「日本滞在経験者が増えれば、それだけ海外に親日派が増える」というのも、日本国内で受けた処遇いかんによるのであり、今のように使い捨て的な差別さえ認められる受け入れでは反日感情を高めかねません。

次いで「国際競争力うんぬん」ですが、これは受入れ派の経済学者が、いかに平素大学で教えていることと逆さまの主張をしているかを表すものです。なぜなら、国際経済学における比較優位理論では、ある国の産業の国際競争力は、その国に存在する生産要素、すなわち人、土地、技術を含めた広い意味での資本の組み合せによって決まるとされているからです。言い換えますと、労働力が不足すれば、既存の労働集約型産業ないし企業が力を失い、代わりに新しい労働力制約型産業ないし企業が力を付けるだけで、国家全体としての国際競争力には変わりがないということになります。

将来的な産業構造を描くべき

問題は、その結果、将来形成される産業構造が、国家として望ましい方向なのかどうかです。この視点からすれば、少子高齢化社会に向けて生産性向上に努めつつ、労働力節約型産業へ向かうべき現在、それに逆行する形で生産性の低い既存産業・企業を生き残らされるだけの受入れは好ましくありません。要は、当面の摩擦回避のための対策をどう講ずるかということであって、長期的に産業構造を歪める労働力受入れではありません。

後程もう一度お話ししますが、こうした一国の産業構造に影響を及ぼすような政策課題に取り組むためには、まずは将来の日本にとって望ましい産業構造を描き出すべきです。あるいは、それに向かっていく過程で発生する摩擦軽減策として、経過措置として最低限必要な受け入れを認めることはやむを得ないかもしれません。ただし、その場合は、予めどんな業種・職種で、向こう何年間に何人程度の受け入れまで許容するかをきっちりと決めておき、絶対にそれを延長したり拡充したりしないことが求められます。仮に、それ以外に、例えば経済合理性からも受け入れた方がいい分野があるとすれば、当然、市場原理に則って完全に原因者負担、受益者負担原則を貫くべきですし、それさえも否定されるような分野は実は経済合理性がなかったということになります。

禍根残す少子化対策での受け入れ

では、「少子高齢化対策」という点からはどうでしょうか。実は、人口問題の専門家が長期にシミュレーションした結果からすると、そのための外国人受入れは問題を先送りするだけで、かえって将来に禍根を残すことになります。なぜなら、いずれ外国人自身が高齢化していき、かえって問題が大きくなってしまうからです。また、多くの外国人労働者は相対的に収入が低いですから、個々の国民にとって真の豊かさに近い一人当たりGDPも低下してしまい、国民の豊かさの下支えにはなりません。さらに、経済界が言うところの購買力としてもさしたる期待はできません。その上、社会保険にも未加入というケースが多い現状では、その救済のために財政悪化が避けられません。

問題は産業間の生産性格差

そもそも少子高齢化という構造問題に本気で取り組むとすれば、福祉対象人口の増大とその支援人口の減少という現実をまず直視することが求められます。その上で、どうしたら社会が破綻せずに済むかを真剣に考えれば、直ちに到達する結論は一人当たり生産、すなわち労働生産性のかなりの向上を図らなければならないということです。といって、個々の企業や業種における生産性向上対策は、日本ではすでにかなりの段階まで進められており、素直に考えればもはや限界に近いと見るべきです。とすれば、答えは唯一つ、思い切った産業構造の転換を図って国家全体としての生産性向上を図るほかはありません。

わたしが統計を使って試算したところによると、産業部門間の生産性格差は高いところと低いところで実に10倍以上、製造業部門に限ってみると、低いところと高いところでは5倍以上の格差があることが分かりました。ということは、労働力をこの高いところから低いところへ誘導するだけで、国家全体としては相当程度の生産性向上が図られるということです。

もちろん、その過程で淘汰されるところが出ますが、それは別途セーフティネットを用意すべきなのであって、そうしたものまで今までのように全部救済しようとすれば、かえっていざという時に救済する力さえ残っていないことになってしまいます。実は、外国人労働力受入れを主張し、現に受け入れている産業のほとんどはそうした本来なら淘汰されるべきものなのです。

ついでに申し上げますと、一般に競争力が高く、生産性も高いと信じられてきている自動車産業にしても、部品から下請まで含めた自動車産業全体で見ると、決して生産性が高いとは言えません。だからこそ、低賃金の不正規労働者や外国人労働者を雇ってきたわけですし、追い風だった円安がおさまると、その勢いは落ちてしまったということになります。そういう意味で、いつまでも自動車産業を日本のリーディングインダストリーとして頼っていていいのか。頼るならば、自動車産業も抜本的な構造改革が必要になります。

逆から言えば、低生産性部門を生き残らせるという短期的視野から、賃金のみならず福利厚生関係やその他社会的費用を含めて安上がりな外国人労働者の雇用を認めている限り、国家全体としての生産性向上は阻害され、いつか社会破綻を招くことになると覚悟しなければなりません。

そうした単純労働者とは違うように見える高度技術者の受け入れにしても、高い能力を有する人ほど、いずれ母国が発展し始めるとかつてシリコンバレーでも起こったように一斉に帰国が始まりますから、後に残されるのは技術力の空洞化です。今は、彼らに頼るよりも、日本人に対する技術教育、それも私の大学教員経験からしますと大学院の拡充ではなく、幼児時代に遡っての家庭での体験教育が一番大事です。現状のままでは、大学院に進んでもらいたい優秀な学生は、すべて中国人だということになりかねません。

「多文化共生」は奇麗事

さらに、少子高齢化の側面から必要とされる受入れ数は、労働者としては当面1,000万人程度と言われていますが、実はその家族まで含めると軽く3、4,000万人を突破してしまいます。つまり、日本人構成そのものを大きく変えることになります。まして一部で言われるような逆三角形になってしまった人口ピラミッドを矯正するための移民ともなれば、移入人口は軽く1億を突破してしまいます。目先の欲得に眩んでそこまでする覚悟が、はたして皆さんにあるのでしょうか。一見無関係なように見えますが、私がライフワークとしている環境問題からしますと、そうした大規模な人の移動というものは必ずや自然環境を破壊します。

その点、先住民は、長い歴史の中で、すでに風土と同化しているのです。いわゆる「多文化共生」というのは奇麗事でして、日本の自然環境保全という視点からも、土地・土地の風土と同化している日本人の伝統的価値観に移入外国人も合わせてもらうという同化しかありえません。移民との共生がうまくいっているとされるヨーロッパでも、目に見えるか見えないかは別として、かつての植民地住民に対するような人種差別問題が起きています。その点、植民地経営の経験が乏しい日本人に、欧州人のように本音と建前を使い分け、表面的にはともかく、実際には同化政策を進める器用さはないと思います。そもそもドイツでは当局者の口から「日本は高度成長期に外国人労働者を入れなくてよかったな。わが国では結果として多様な問題が多発して、もはや手に負えなくなっている」などという言葉さえ聞かれる始末です。

価値観の違う人々と共生することによって新たな創造力が生まれるという話にしても、長い日本の歴史を振り返ってみるとまったく間違いだと分かります。伝統的な日本人の豊かな創造力は、遣唐使の昔から、海外から異質な物を取り入れた後、咀嚼して日本化することによって始まっているわけです。

グローバリゼーションの必然?

すなわち、グローバリゼーションの必然というのは、実情が真のグローバリゼーションなどではありません。世界台での同化ないし欧米化を錯覚してグローバリゼーションと言っているだけです。世界台での同化は、多様な価値観とか国際分業の意義を喪失させるだけであり、非西洋にして唯一先進大国となった経験を有するわれわれ日本人は、むしろ逆に真のグローバリゼーション、すなわち異質な文化・価値観の存在を互いに認め合って地球台で共生していくべきことを海外に向けて発信すべきなのです。

自国の伝統・価値観を強調するというのは、日本人が苦手とする分野ではありますが、私の国際機関勤務経験からすれば、そうした自己主張を貫いていくことこそ本物の国際人なのであって、そうした基本軸を捨てた人は「根無し草」として軽蔑されるだけです。私はずけずけもの言いますから、彼らから、「おまえは、日本人には珍しいコスモポリタンだな」と言われたことがあります。私は民族主義者ですから、「ばかにするな」と怒ったら、「そうじゃない。民族主義者でない人間はコスモポリタンになれないんだ」と他国の人から言われた覚えがあります。

受け入れのための3つの条件

最後に残る有力な議論は、結局、今の受入れ体制・制度が整備されていないまま、経済界や政治力によって、ずるずると実態が先行してしまう弊害を取り除く必要があるという、むしろ消極的な理由くらいなものです。実は、私は、過去にはこれについても否定的だったのですが、今となってはそうした考え方は受け入れざるを得ないと思っています。逆から言えば、そのくらい事態は深刻だということです。

したがって、最後に条件闘争として、受入れ条件を述べたいと思います。

第一は、彼らを単なる一生産要素、労働力としてではなく、血の通う一個の人格として扱うということです。このいわば当然のことが蔑ろにされているところに、すべての問題の根源が潜んでいます。

第二は、長期マクロ的立場からきちんと日本がめざすべき産業構造を描き、それに合った形で受け入れていくということです。卑しくも今の低賃金では日本人の働き手がいなくて困るなどといった本来淘汰されるべき企業を生き残らすために外国人を受け入れるのは、将来に向けた産業構造形成の視点からも避けるべき話です。

第三は、そのことは、とりもなおさず市場原理、換言すれば受益者ないし原因者負担原則を貫くということです。そのため、外国人に対しても全員正規の公的社会保険に加入させるとともに、社会的間接費用、要するに子供の教育費なども企業に負担させるための外国人雇用税を課すことが求められます。こう言うと、必ずや「高度技術保有者については、それだけ日本経済に貢献しているのだから免除すべきだ」という話が出てきます。しかし、そうした人たちは、自身の所得も高いし、会社も儲かっている受益者負担原則を貫くことは、低賃金の単純労働者以上よりも簡単なはずだと思います。

この受益者・原因者負担原則を完全に貫けば、市場機構が歪められず将来に向けて望ましい産業構造が形成されることになりますから、そこまできちんとした受け入れをするのであれば、私自身の立場も受入れ反対ではなくなります。しかも、そうまでして外国人を雇いたい企業は激減するはずですから、さして問題は生じないことになりましょう。先に申しました社会的摩擦とか風土破壊その他も心配ないと思われます。

なお、法人税・所得税納付により企業は必要な負担をすでに行なっていると、経済界はよくいいますが、そんなことを言い出したら罰金さえ払えば犯罪行為も合法化されると言うのとどこがちがうのでしょうか。もっとひどいのは、「外国人雇用税など制度的な賦課は、負担回避を目論む者を地下に潜らすだけである」といった類のいわば開き直った議論をする人までいます。それでは、まるで罰則さえ無くせば犯罪者が逃げ隠れしなくなり、世の中がよくなることに話と同じじゃありませんか。それから、「外国人労働力の受け入れの多い豊田市などは、現に財政上も潤っている」という話にしても、企業ないし工場そのものが立地している市町村と税の恩恵がないままベッドタウン化されて費用や摩擦ばかり発生している周辺市町村ではまったく事情が逆となります。まして個別市町村の損得と国家全体の損得を同一視できません。そういうのを経済学では「合成の誤謬」と呼んでおります。

介護・看護では待遇改善が重要に

すでにお分りいただけたかと思いますが、「高齢化社会で不足する介護などの福祉要員として必要である」という、いかにも正義感に基づく意見にしても、日本人自身が求職者数に応じた求人がなくて困っている現在、明らかに雇用のミスマッチが起きているのだと言わざるをえません。

その原因の中でも、介護とか看護という非常に負担の大きい仕事に見合った待遇が用意されていないことがもっとも重要なポイントだと思います。市場原理に基づく供給量を確保するための待遇を改善する代わりに、劣悪な条件でも我慢してくれる外国人に依存するのでは、いつまでたっても待遇改善が進みません。そして、外国人の母国が発展を遂げて新しい人材が求められなくなった後に残るのは、かつて日本で介護・看護に当たりやがて自身年老いて介護・看護が必要な外国人だということにもなりかねないのです。むしろ、今なすべきは、思いきった雇用条件の改善と要介護者を減らすための社会システム、さらには人手を軽減するための介護システム、ロボットと血の通った人との組み合せを研究開発することなどではないでしょうか。この分野で世界をリードすることは、高齢化もロボット技術も世界で最も進んでいる日本のいわば使命でしょうし、日本の生き残る道とも感じています。

制度を冷静に固めるチャンス

ここまでの私の話を聞いて「あまりに理屈っぽくて冷たすぎる」と感じた方もいるかと思いますので、最後に一言付け加えておきます。実は、あくまで私の立場は、基本的には日本国内では外国人でも人格は尊重すべきである。ただ、入り口はできるだけ閉めるということです。ですから、私の周辺で外国人が困っている人がいれば、これまでも手を差し伸べてきております。逆に、外国人労働者受け入れの立場の人に限って、知らん顔をしている人もいます。

ですから、資料を読ませていただいた厚生労働省の考え方には基本的には賛成します。なぜかというと、今、受入れ積極論や移民論が、ある意味鎮静化しているわけです。こういうときにこそ、制度を冷静に固めるべきチャンスだと思うからです。ただ、1つ言いたいことは、先ほど申し上げたように、高度技術者という名目で特別扱いはすべきでないと思います。なぜなら、過去に高度技術者という名目で入ってきたほとんどが大半がエンターテイナーという名の水商売関係者だったという事実があるわけです。そういうことをやると、必ずや抜け穴に使われるだけだと思います。

むしろ、日本に魅力さえあれば、求められる人材は、向こうからやってきます。魅力がなければきません。その魅力づくりは、個々の企業の努力に依存するのであって、国としては、基本的制度さえしっかり固めておけば、必要にして十分だと思います。

これまで20年間、ずるずるきてしまったのを振り返ると、やはり、この機会に基本線をまとめてくださいというのが本音です。景気がまた少しよくなって、また変なことをやると大変なことになりますから、今のうちに固めてもらいたいという感じがいたします。

蛇足ですが、最後にガルブレイスが言った言葉を紹介させていただきます。「人々は、真実よりも自分の耳に心地よく響くことを聞きたがる。それに迎合して権威づけをし、真実をゆがめているのは、いわゆる有識者である。そうやって世の中の常識は形成されていくのだ」。本日のフォーラムが、真実が常識となる契機となってくれることを期待して、話を終わらせていただきます。