第13回 旧JIL講演会
少子高齢社会の雇用と処遇
~エイジフリー社会の構築をめざして~
(2000年10月11日)

慶應義塾大学商学部教授
清家 篤

目次

講師略歴

清家 篤 (せいけ・あつし)

1954年東京生まれ。1978年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1983年に慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程を修了。1992年から慶應義塾大学商学部教授。
現在、経済企画庁「雇用における年齢差別禁止に関する研究会」座長などを務める。専門は労働経済学。博士(商学)。

主な著書
  • 『高齢者の労働経済学』(日本経済新聞社、1992年)
  • 『仕事と暮らしの経済学』(共著、岩波書店、1992年)
  • 『高齢化社会の労働市場』(東洋経済新報社、1993年、労働関係図書優秀賞受賞)
  • 『生涯現役社会の条件』(中公新書、1998年)
  • 『定年破壊』(講談社、2000年)

少子高齢社会と就業・雇用

(1)世界に類をみない高齢化

きょう私に与えられましたテーマは、少子高齢社会の雇用と処遇ということです。私は労働経済学者で、特に労働市場の高齢化と雇用の問題を研究テーマにしておりますので、少しその観点から考えておりますことを整理したいと思います。

まず、雇用や処遇の仕組みを変えることを外から強く要請している少子高齢化とは、いったいどういうものかということを、簡単におさらいしておきたいと思います。

日本の人口の高齢化は、文字通り世界に類を見ないものです。どのくらい類を見ないものかということを象徴する数字が2つぐらいあると思いますので、最初にちょっと紹介させていただきたいと思います。

1つは「4分の1」という数字です。政府は5年おきに将来人口推計というものを発表しております。もうちょっと正確に言いますと、国立社会保障・人口問題研究所が、日本の将来人口推計を5年おきに発表していますが、一番新しい推計が、1997年に発表された平成9年推計と言われるものでございます。

この平成9年推計によりますと、2015年には、日本の人口の25.2%が65歳以上の高齢者で占められるということです。ちょうど日本の人口の4分の1が65歳以上の高齢者になるということですが、これは世界のどの国よりも高齢者の比率が高くなることを意味します。

今の日本の高齢者率、すなわち65歳以上の人口の比率は、大体17%弱ぐらいでございます。これは西ヨーロッパの諸国とほぼ肩を並べている状態ですから、そういう意味では、今の日本は最も高齢化が進んだ国の1つだと言えます。しかし2015年の25.2%というのは、その時点で世界のどんな国よりも高齢者の比率が高い国になることを意味します。

もう1つは「2倍速」という数字でございまして、これは高齢化のスピードの速さを示すものです。国連の定めた定義によりますと、65歳以上の高齢者の比率が7%を超えますと、その社会は高齢化社会になったということになっております。英語で申しますと「aging society」、「age」という言葉に進行形がついたものです。日本はいつ高齢化社会になったのかと言いますと、1970年の国勢調査でこの比率が7%を超えたことが確認されているわけでございます。

1970年と言いますと、お若い方はご記憶ないと思いますが、大阪で万国博覧会が開かれた年です。ですから覚えるとき、日本は大阪の万国博覧会とともに高齢化社会の仲間入りをした、「aging society」になったということになります。

これに対して65歳以上の比率が14%を超えますと、その社会はもはや高齢化社会ではなく、高齢化の「化」という字がとれて、高齢社会になるということになっております。これも英語で申しますと「aged society」、「age」という言葉に過去完了形がついた形になります。

日本では今回の国勢調査の前の小調査、1995年の国調でこの比率が14%を超えたことが確認されています。もうちょっと厳密に言いますと、1994年中に14%を超えたと推定されているわけです。そういうふうに考えますと、日本は高齢化社会の時代を1970年から94年ないし95年までの四半世紀で卒業して、今、高齢社会になっていると言うことができます。

これに対して、日本と同じように既に高齢社会になっている西ヨーロッパの国々を見ますと、大体平均で半世紀ぐらいかけて、高齢化社会の時代をゆっくりゆっくり経験して、高齢社会になっているわけです。長い国になりますと、フランスのケースで115年ですから、1世紀以上かけて高齢化社会の時代を通過して、高齢社会になっていることになります。

日本は西ヨーロッパの国々が半世紀ないし1世紀かけて通過してきたところの高齢化社会の時代を、たった四半世紀で卒業してしまったことになるわけです。スピードで言えば2倍、フランスなどと比べると4倍ぐらいのスピードで高齢化を進めてきたことになるわけです。

つまり日本の高齢化が、どうして世界に類を見ないと言われるかというと、高齢者比率の行き着く先のレベルが非常に高いということと、そこに行くまでのスピードが非常に速いということです。それだけ日本の社会は、西ヨーロッパなどと比べても、社会や企業のシステムを人口の高齢化に合わせて、速やかに、しかもよりドラスティックに変えていかなければいけないということになるわけです。

人口の高齢化というのは、単に高齢者の数が増えるだけではなくて、日本の戦後の経済発展期に職業生涯、あるいは消費者としての生涯を送ってきた人たちが、そのまま高齢化していくということですから、年を追って高齢者の内容も変わってくるわけです。例えば、年をとった人は従来、ハイテク機器に弱いとか、パソコンが使えないという偏見が強かったわけでありますが、そういった状況もだんだん変わりつつあります。最近のある調査によると、60歳以上の高齢者でパソコンなどハイテク機器を使いこなしている人たちの比率は、それ以下の年齢層の人たちとあまり変わらない水準になってきているということです。

ちょっとシャレみたいな話ですけれども、そういうハイテク機器に強い高齢者の方を、テクノロジーという言葉をもじってテクノジジーと言うそうですが、これからはテクノおばあさんも増えてくる。高齢者の方の数が単に増えるだけではなくて、その内容がずいぶん変わってきていることも大切なポイントでございます。

(2)若年人口の激減

同時に人口高齢化のコインの裏側は、若年人口が激減するということです。若年人口とは、とり方でいろんな見方がございますが、仮に今の20代の人口と見てみましょう。ことし、日本全体で20代、20歳から29歳までの人口が大体1840万人ぐらいいるわけです。15年後の2015年には、どのぐらいまで減っているかと言いますと、1248万人まで減るというのが平成9年推計の結果です。つまり現在の3分の2ぐらいの規模に、20代の若年人口がぐっと減ってしまうわけです。

この若年人口の減り方がどのぐらいすごいかと言うと、21世紀の最初の10年間(2001?2010年)に20代の人口が400万人減ることがわかっております。20代の人口が400万人変化するということの、社会に与えるインパクトはどのくらい大きいか。今からどんな影響が出てくるかをはっきりと予測することは難しいわけですが、過去に20代の人口が大きく変化した時期と比べてみることはできるかと思います。

実は、我々の記憶に残っている過去に、若年人口が激増した10年間というのがありました。それは昭和40年代と重なっているわけですが、1965年から1974年までの10年間に20代の人口が250万人増えています。いわゆる団塊の世代を中心に、20代の人口が激増した10年間というのが昭和40年代でした。

折しも高度経済成長期と重なっていましたから、特に大企業を中心に若い人たちが大量に採用され、企業の活力もものすごく高まりました。あるいは社会的に見ますと、東京大学の入学試験が1年なくなるぐらい大規模な学園紛争、大学紛争が起きた10年間でした。もちろん大学紛争は、若い人の数が増えたためだけに起きたわけではありませんけれども、ある意味では若者のパワーが大学紛争という大きな社会現象の背後にもあったと思います。

そういう大きな若者のパワーが社会的にも顕在化した10年間の20代人口の増え方が、250万人だったわけです。来年からの10年間、今度は20代の人口が400万人というオーダーで逆に減ってくるわけですから、少なくとも昭和40年代に若者が増えたときの1.6倍ぐらいの規模で社会に影響を及ぼすだろうと思われます。しかも、昭和40年代に増えたときとは反対に、減る方向への影響ということになります。

具体的に、どんなことが起きてくるのか。1つは間違いなく雇用の場に大きなインパクトを与えることになるわけです。若い人が3分の2という規模まで減ってくるわけですから、企業が若い人をいくらでも安く、たくさん雇えるという構造ではなくなってきます。若い人を安くたくさん雇って、その上に給料の高い少数の、相対的に言えば数の少ない中高年を乗せるといったピラミッド形の組織を維持することは困難になってくる。

むしろ、母集団が少なくなってくる若者を各企業が奪い合うことになりますから、当然市場の圧力でその値段は高くなります。企業としては、値段が高い、しかも経験も能力も蓄積されていない若者を無理にたくさん雇うよりも、数も豊富になってきて、しかも経験や能力が蓄積されている高年の人たちを、もっと活用することに合理性が出てくる。もうちょっと言いますと、中高年の人たちを活用してもコストが高くならないような賃金体形であるとか、処遇の仕組みを工夫する強い動機を、各企業が持つようになるということです。

(3)高齢化のためのコスト負担増

人口の高齢化は労使間の分配のあり方も大きく変えると思います。毎年、日本の特に大企業では春闘というのをやるわけです。春闘の基本的な構図は、去年1年間の生産性向上をどれだけ労働側が賃上げという形でとるか、あるいは、どれだけ企業側が将来の投資のために内部留保という形でとるかという、単純に言えば、去年1年間の成果のぶんどり合戦という構図だったわけです。

しかし、人口が高齢化してまいりますと、第三者が私にも分け前をよこせと口を挟んでくる。それが社会全体の高齢化のためのコスト負担増ということです。具体的に言いますと、社会保険料がぐんぐん上がってまいります。公的年金制度の改正がことしの春にあったわけですが、この改正によって、将来の年金給付は、相当伸びが抑えられることになります。支給開始年齢の引き上げも含めますと、トータルで2割ぐらい給付水準が削減されるのではないかと試算されています。

それだけ年金の給付を削っても、現在労使が毎月の給料の17%ぐらい負担している厚生年金の保険料は、2025年には28%ぐらいまで上昇すると計算されています。高齢化が進めば当然、医療費がかさんできますので、健康保険の保険料もじわじわと上がっていく。これに介護保険も加わってきますと、去年1年間の生産性向上分のうちかなりの部分が、毎年自動的に、高齢化のためのコスト負担増に食われてしまう。残ったほんのわずかなところを、労使が賃上げや内部留保で奪い合うことにもなりかねない。そうならないためにも、今、社会保障制度の改革をしなければいけないわけですが、これについてはなかなか合意を得ることが難しい現状にあります。

こうした負担を今のまま増やし続けると、若い人の生活水準が下がってしまう。高齢者の年金をまかなうために、働く世代の可処分所得が下がってしまうような、あべこべの現象が起きかねないわけです。

あるいは、社会保険料の半分は企業の負担ですから、この負担があまり重くなっていきますと、社会保険料が高い国で人を雇うのをやめよう、もう少し税金や人を雇ったときのコストが安い国で人を雇うようにしようという形で、雇用の空洞化も起きかねない。1人あたりの負担をあまり重くしていくということは、社会全体の活力を維持する意味からも、好ましくないわけであります。

(4)年金給付の削減

負担は重くできないから、給付を削減するかということでありますが、事実それをやろうとしているわけです。一例申し上げますと、今回の年金改定の1つの目玉は、年金支給開始年齢の引き上げです。既に厚生年金の基礎年金の部分は、2013年に最終的に65歳支給になると決まっているわけですが、その上のいわゆる報酬比例部分、残りの部分も、最終的には西暦2025年までに、65歳に支給開始年齢を引き上げる。根っこから上まで、厚生年金の支給開始年齢を65歳化するということが1つのポイントです。

もう1つは、賃金スライドをやめたということです。厚生年金には2つのスライド制があったわけです。1つは物価スライド。もう1つが賃金スライドです。

例えば60歳でやめたとき、厚生年金が20万円もらえるとします。そのまま額面で20万円のままいきますと、物価の上昇があったとき、当然20万円の価値はどんどん目減りしていく。20万円で物が買える購買力を将来的にも維持するため、いったん決まった年金額を、物価の上昇に合わせて見直していく。簡単に言えば、物価の上昇分引き上げていくというのが、物価スライドです。これによって、少なくとも年金をもらうと決まったときの年金の実質価値、購買力を維持していく。そういう物価スライドのほうは、今回の制度改定でも残りました。

もう1つ賃金スライドというのもやっていました。例えば60歳のときに20万円もらえると決まり、そのあと物価の上昇に合わせて購買力だけは維持しますということでは、公的年金だけで生活する場合、例えば80歳まで生きるとして、20年間生きている間、生活水準の向上は一切ないことになってしまうわけです。それではあまりではないかと。

少なくとも現役の労働者は、毎年のベアという形で生活水準の向上がある。現役の労働者には生活水準の向上があって、年金生活者の生活水準は据え置きというのではちょっとひどいので、年金生活者に対しては、現役の労働者の賃金上昇に合わせて、1度決まった年金額を少しずつ増やしていく。もうちょっと厳密にいいますと、賃金の上昇率から社会保険料や税金の増加分を差し引いた、現役労働者の可処分賃金の上昇率に合わせて、年金も上昇させましょうということになっていました。実は今回の改正で、これをやめることにしたわけです。

どういうことかと言うと、少なくとも公的年金だけで生活する人にとって、1度年金の額が裁定されたら、実質価値は維持されますけれども、その後は死ぬまで生活水準の向上はありませんということです。窮乏化政策とまでは言いませんが、これはかなりドラスティックな変化です。

私は今の年金財政を考えると、この程度の給付の抑制はやむを得ないだろうと思います。しかし、これだけでは済まないかもしれません。もうちょっと給付の抑制というのが出てくるかもしれない。そうなってきますと、例えば生活水準が今のまま維持できるならまだいいけれども、長期的に下がっていくことになると、いったい何のための経済発展なんだという話が、当然出てくるでしょう。

(5)高齢者の就業・雇用促進

マクロの経済の観点から言いましても、これから人口の4分の1、あるいは大人の人口の3分の1を占める高齢者の購買力を著しく低下させるような給付の抑制は、内需を中心に経済を活性化していこうという、我が国のマクロ経済のあるべき姿にも反することになってしまう。そこでできるだけ1人あたりの負担を引き上げず、年金はしっかりもらえるようなシナリオはないだろうかと考えたとき、1つ出てくるのが負担の裾野をできるだけ広げていこうという考え方です。

1つは消費税ですね。すべての国民が物を買うたびに高齢社会の費用を負担していく。あるいは女性の就労をもっと促進する。働く意思と能力のある女性にとって働きづらい制約をできるだけ取り払って、その人たちにもっと本格的に働いてもらい、社会保険料や税金を負担する、高齢社会を支える側に回ってもらう。そしてもう1つが、働く意思と能力のある高齢者にできるだけ長く、本格的に働き続けてもらう。これから数が増えてくる高齢者に、高齢社会を支える側にできるだけ長くいてもらうことが、大切なポイントになってきます。

これはダブルで効いてくるわけです。1つには、例えば今まで60歳で引退していた人が、65歳とか70歳まで働いて、社会保険料や税金を負担する形で高齢社会を支える側にいてくれますと、1人あたりの負担はそのぶん軽くなるわけです。もう1つは、平均寿命がそんなに伸びないとすれば、現役で働く期間がそれだけ長く、年金で生活をする期間は短くなりますから、年金を支払う期間が短くなります。その短い期間であれば、かなり充実した年金を支払うことができるということです。

もちろん、日本は民主主義の国ですから、もう働きたくないという人まで無理やり総動員することは許されません。また、豊かな社会のひとつの尺度というのは、もう十分に働いた人は引退できるというところにあると思いますから、もう働きたくないという人まで無理やり総動員するのは正しくないわけです。

ところが幸いなことに、日本は先進国の中で、飛び抜けて高齢者の就労意欲が高いという特徴があります。人々の就労意欲をはかる一番客観的な指標は、労働力率といわれる指標です。これは当該人口グループに占める労働力人口の比率です。労働力人口とは就業者と失業者の合計でございまして、この両者の共通項は就業意思があるということです。つまり、当該人口の中で就労意欲、就業意思のある人の比率がどのくらいあるかということを示す指標が労働力率であります。

例えば60代前半の男性の労働力率を見てみますと、日本の場合、現在では75%ぐらいあるわけですが、これに対して、先進国の中では比較的高いアメリカやイギリスで50%ぐらいです。ヨーロッパ大陸にいきますとぐっと下がりまして、ドイツでは30%を切っております。フランスは16%ぐらいです。

このように日本は先進国の中で、高齢者の就労意欲が飛び抜けて高い国と言えます。この高い就労意欲を本格的に活かせる仕組みをつくっていくことができれば、さきほど言ったシナリオのように、働く意思と能力のある高齢者が、もっともっと高齢社会を支えてくれることによって1人当たりの負担を軽減し、またほんとうに年金が必要になったような人たちには、十分な年金を給付できるような社会をつくることができるのです。

(6)生涯現役社会という考え方

そこで、生涯現役社会という考え方が出てくるわけです。私は2年半ほど前に『生涯現役社会の条件』(中公新書、1998年)という本を書きました。この中で、今申し上げましたように、働く意思と能力のある高齢者が、できるだけ能力を発揮できるような仕組みをつくることが、日本の経済社会の活力を将来的にも維持するために必要なのではないかという提案をしました。

こういった考え方に対して、総論ではかなり同意が得られているわけです。例えば、政府の文書で見ましても、一昨年の国民生活白書には、生涯現役社会という考え方が相当強く反映されております。あるいは去年の夏に出ました雇用審議会の雇用計画の中にも、生涯現役というような考え方が出てきているわけです。そういう意味で、いわば総論として、生涯現役社会をつくろうということについては、かなりコンセンサスができつつあるのではないかと思います。

問題は各論ですね。各論レベルになると急に、生涯現役はなかなか難しいということになってくる。例えば大企業の経営者の人たちとお話をいたしますと、皆さん「生涯現役、結構ですね」と実にニコニコ話を聞いてくださる。そこで、将来は年金の支給開始年齢が皆65歳になるわけですから、少なくとも皆さん方の会社も定年年齢を65歳ぐらいまでにしたらどうですかという話になりますと、急に顔がけわしくなる。ちょっと待ってくれ。60歳定年でも今かなり苦労しているのに、65歳までサラリーマンを現役で雇えと言われてもそれは無理な話だ、というのが今のところの大企業経営者の反応であります。65歳定年は無理だと。

でもそういうとき、私は半分冗談、しかし半分ぐらいは本気で、「それちょっとおかしくないでしょうか」と言うことにしています。サラリーマンは65歳まで現役で働けない、だから雇うわけにはいかない、と言っておられる大企業経営者の方々には、65歳ぐらいの人がいっぱいいるわけです。人によると70歳ぐらいで元気に会長とかやっている。

自分たちは60代で経営者をやっている。しかし、普通のサラリーマンは60代でできないというのはやっぱりおかしい。激務の経営者が60代でできるのであれば、普通のサラリーマンの仕事も、60代でできると考えるほうが自然なのではないかと思います。

そういう話を大企業の部長クラス、それと役所の課長クラスの人が入っている勉強会でしましたら、皆さん少しニヤニヤしながら反論されました。「清家さんはやっぱり学者だから、あまり日本の大企業とか役所の組織のことをよく知らないんだな」と。

彼らに言わせると、日本の大企業などでは、経営者の仕事はものすごく楽だから60代でもできるけれども、普通のサラリーマンはものすごくたいへんだから60代では無理なんだと。そうしたら役所の人からも、事務次官は60代でできるかもしれないけれども、課長や審議官は60代ではできないという反論を受けまして、そういうものかなとも思ったわけでございます。

しかし、激務の経営者が60代でやっているということは、ごく普通のサラリーマンの仕事であれば、部課長の仕事はどうか知りませんけれども、60代でできると考えたほうがいいだろうと思います。

老人性痴呆症の研究などをされている和田秀樹さんという若い精神科のお医者さんが、『75歳現役社会論』という本を書いておられますけれども、55歳定年当時の50代の人と、現在の60代の人の体力や健康状態とは、ほぼ匹敵していると言っております。そういうことを考えると、少なくとも今、定年を60代半ばぐらいまで延ばしていくことは可能なのではないか。あるいはそのようにしていかないと、個人の生活のつじつまも合わないと思います。

つまり個人の職業生涯は、年金の支給開始年齢が65歳になるわけですし、社会全体としても、できるだけ長く働いてもらうことが全体の負担を低くするために必要なわけです。やはり長期的には、個人の職業生涯をもうちょっと長期化していかないといけないのではないか。あるいは個人の職業生涯をもっと長期化できるような仕組みを、社会全体でつくっていく必要があるということだろうと思います。

深刻な年齢差別問題

(1)高齢者の活用を阻む定年制度

そのとき、今のところいちばん大きな障害になりそうなのが、特に雇用の場にはびこっているエイジズム、年齢主義だと思うんですね。その典型が、一定の年齢になると有無を言わさずやめてくださいという定年退職制度だろうと思います。定年退職制度にはいろいろな定義の仕方があるでしょうけれども、どんなに働く意思や能力があっても、年齢だけを理由にやめてもらうという仕組みですから、そういう面ではエイジズム、年齢主義の象徴のようなシステムだと思います。

現在、30人以上規模の企業の約9割に定年退職制度があります。さらにそのうちの約9割が定年年齢を60歳に置いているわけです。定年制度を設ける場合、法律で60歳を下回る定年は禁止されておりますので、定年の最低限は60歳であるわけですが、9割近くの企業が60歳定年で、61歳以上に定年を定めている企業はまだ1割程度ということになっております。

今年の春闘では、厚生年金の基礎年金部分の支給開始年齢が来年から61歳になりますので、60歳定年である大企業の労働組合が、雇用を少なくとも年金の支給開始年齢に合わせて61歳まで延長してほしいという要求を一斉に出しております。電機やゼンセンではかなり進展が見られ、すぐにというわけではないにしても、鉄鋼や造船でも進展が見られています。

しかし、そこでも定年の延長までいっている会社はまだまだ少ない。私の知る限りでは、富士電機が定年そのものを65歳まで延ばすという形でやっておりますけれども、そのほかのケースは今のところ、ほとんど雇用の延長という形で労使の話し合いがついているわけです。定年そのものを延長する、あるいはなくしてしまうというところまでは、なかなかいっていないわけでございます。

私は、定年制度そのものが経済あるいは就労行動に、非常に大きなネガティブの効果を持っていると思っております。私どもが行った実証研究で、2つのことがわかっています。

定年になったからといって、すぐ仕事をやめてしまうわけではなく、第2の職場で働き続ける方もいらっしゃいますが、定年をきっかけに仕事そのものをやめてしまう人がいる。労働市場からリタイアしてしまう確率は、定年を経験することで18%ぐらい高まるということが、私どもの計量分析からわかっております。働く意思と能力のある人にできるだけ長く働いてもらいたいというときに、わざわざ定年という人為的なバリアで労働市場から退出させてしまう。これが、定年制度の持っている第1の経済的なロスです。

2つ目は、定年後も働き続ける人たちの能力の発揮が、定年によって失われてしまう部分があるということです。60代の人たちで見た場合、55歳当時と同じ仕事をやっている人の比率は、定年を経験した人としない人とでは統計的に違うわけです。これは雇用者に限ってですが、定年を経験していない人は、60代になっても55歳当時にやっていた仕事を6?7割がしている。ところが定年を経験しますと、その比率がグッと下がってしまう。仮に就労を続けるとしても、定年そのものが、それまでの能力を必ずしも十分に発揮させないバリアになってしまっているわけです。

働く意思と能力のある高齢者にできるだけ本格的に働き続けてもらうことが、社会全体にとっていいことだと言うとき、わざわざ働く意思をくじく、あるいは働き続ける場合でも能力の発揮を疎外するような定年退職制度は、言い方はちょっときついかもしれませんが、反社会的な制度となってきかねないわけでございます。

(2)定年制度はなくせる

そんなことを言っても、定年というのは依然としてあるし、昔から多くの企業で採用されているわけだから、いきなりそれをなくすわけにはいかないだろうと言われるかもしれません。しかし、定年というのは、そんなにあたりまえの制度でもなかったわけです。

例えば、自営業の人には基本的に定年がないわけですね。八百屋さんが65歳になったから定年という話はありません。あるいは中小企業、零細企業では、定年制度を設けていない会社が相当あります。統計に表れてくるものだけで見ても、例えば1974年、ちょうどオイルショックがあった今から25年ぐらい前の社会で見ますと、30?99人規模で定年退職制度がある企業の比率は55%程度でした。せいぜい半分ぐらいにとどまっていたわけです。自営業の比率は今よりももっと高いですし、30人未満で定年制度がある企業の比率はもっと少なかったわけですから、定年制度というのは必ずしもあたりまえではなかったわけです。

したがって、定年退職制度というのは、特に中小企業部門においては比較的最近、普及してきた制度であると言えるわけです。あるいは自営業の比率が趨勢的に低下してきたことによって、働く人たちの中で定年制度に引っかかる人たちが、単に増えてきたということが言えるわけでございます。

現在の社会においても目を海外に転じて見れば、1967年にアメリカで年齢差別禁止法ができました。その後、78年、86年と改正を経ているわけですが、現在適用されている法のもとでは、40歳以上の労働者に対して、年齢を理由にした不利益な取り扱いをしてはいけないことになっております。定年退職制度というのは、年齢だけを理由にした退職の強制ですから、典型的な年齢差別に当たるということで、アメリカの企業は、今、基本的には定年なしでやっているわけです。

もちろん、高い企業年金を受け取ることができる一部の経営管理者層については、65歳という定年を定めてもよいことになっておりますが、それは例外でありまして、ほとんどの労働者については、定年を設けることができない。そういう中でビジネスをやっているわけです。

このように、定年というのは別に天から降ってきたものではなく、あくまでも一時期つくられたものであり、やろうと思えばこれをなくしてしまうこともできるということだけを、今は押さえておきたいと思います。

(3)中高年失業者の就職を阻む年齢制限

もしかすると今、足もとの問題として定年以上に深刻なのが、中高年失業者をめぐる年齢差別の問題であります。失業率は4.6%ぐらいまで下がってきておりますが、相変わらず、中高年の失業には深刻な部分があります。中高年でいったん失業しますと、次の仕事を見つけるまでの期間が非常に長くなってしまう傾向があるわけです。中高年の失業者がなぜ次の仕事を見つけられないのか。

毎月の失業率を調べている総務庁統計局が毎年2月と8月、「労働力調査特別調査」を行っております。我々はよくこれを「労調特別」と言っていますが、ここでは普通の労働力調査で調査していない、例えば失業者に対して、どうして次の職につけないのか、どうして次の仕事が見つからないのかということを聞いています。

特に最近の調査で非常にはっきりしてきているのは、35歳以上の年齢グループで見た場合、失業者が次の仕事につけない理由の断トツのトップが、求人側の求める年齢と自分の年齢が合わないということです。35歳以上の人が、若過ぎて雇ってもらえないということはあまりありません。要するに中高年になって失業すると、企業のほうで出してくる求人条件が45歳までとか、40歳までとか、35歳までとか、そういった年齢制限つきであるところに問題があるわけです。

これは非常にゆゆしい問題です。例えばいったん失業したとき、しようがないから賃金の要求水準を少し下げる。賃金で妥協するから雇ってくださいと言うことはできるわけです。あるいは企業側の求めている能力が自分にないとしたら、訓練して身につけて雇ってもらうということは、個人の努力で何とかなるわけです。

しかし年齢だけは、35年前に戻って生まれ直すわけにはいかない。個人の努力ではどうしようもない。そういう個人の努力ではいかんともしがたい年齢を理由に再就職が妨げられてしまうのは、非常に深刻な問題であります。特にこれから、中高年の労働者が増えてきます。そして中高年の失業者も増えてくるわけです。そういう中高年の失業者が年齢を理由に再就職を妨げられるということは、実は日本の失業率を構造的に高めてしまう危険性もあるわけです。したがって、採用における年齢の制限を厳しく規制していく必要があるだろうと考えられます。

さきほど申しましたように、アメリカの年齢差別禁止法のもとでは、年齢の制限は許されません。採用する際、「何歳まで」という求人広告を出すことは許されないわけですが、それでは実際に面接をするとき、どういう面接なら許されるのか。成蹊大学の森戸助教授に伺った話ですが、今のところ面接の際、裁判になっても許される年齢に関する質問は「あなたは18歳未満ですか、それとも70歳以上ですか」ということだけだそうです。それ以外の質問は、年齢差別禁止のルールに抵触するおそれがあると。

そこまで極端にする必要があるかどうかは別として、私は少なくとも法定の定年年齢が今のところ60歳と決められているわけですから、その法律で決まっている定年年齢よりも若い年齢制限をつけてはいけないというぐらいのことは、年齢差別禁止法をつくる前にでも早急に立法措置を講じていいのではないかと思っております。

必要な制度改革

(1)年功的な賃金・処遇・雇用調整の抜本改革

もちろん、企業が定年や採用に対する年齢制限を設けるのには、それなりの理由もあるわけです。1つは、年功的な賃金体系あるいは年功的な処遇の仕組みがあることです。いつまでも年齢とともに賃金が高くなる仕組みのままだったら、企業としては、ものすごくコストが高くなってしまう。だれか人を中途採用しようとする場合でも、できるだけ賃金の安い若い人のほうがいい。中高年の人を雇ったらコストが高くなるので、採用に年齢制限をつける。これはごく自然なことだろうと思います。

また、年長者を管理職、監督職にする処遇の仕組み、昇進システムのもとでは、年をとった人がやめてくれないと、後の人がつかえてしまう。そして、後の人を処遇することができない。その意味でどうしても定年という形で組織の新陳代謝を図る必要がある。あるいは、中途採用で担当者レベルの人を雇おうとしたとき、管理職の適齢期である40代、50代は、どうしても採用の網にかけることができない。担当者として雇うのであれば、30代ぐらいまでといったことになるのもやむをえないわけです。

こういった年功的な賃金、あるいは昇進・処遇システムが、定年制度であるとか、採用における年齢制限を企業にとらせている理由であると、経済学的には理解することができるわけです。

もう1つ付け加えますと、定年制度というのは、日本の企業にとって、唯一とは言いませんが、非常に貴重な雇用調整手段だということであります。つまり、だれに文句を言われることなく、従業員にやめてもらうことができる非常に重要な機会が、定年退職ということになります。

日本の雇用システムでは、いわゆる解雇権乱用法理、あるいは整理解雇の法理といったところで、いわゆる有名な4条件が雇い主に課せられており、よほどのことでないと、雇い主が解雇権を行使できない世界になっております。企業が雇用を削減したい、雇用調整をしたいというとき、どういうことをまずやるかというと、大企業のリストラ計画などを子細にごらんになるとすぐおわかりになるかと思いますが、大抵の場合、いわゆる自然減というのをまず図るわけです。定年退職でやめたぶんだけ雇わないという形で、雇用を削減する。それでも足りないぶんは希望退職や、場合によっては指名解雇もあるのかもしれませんが、そういう形で減らしていく。

このように、定年退職というのは、特に雇い主にとって、解雇権が縛られている中では、非常に貴重な雇用調整の手段でもあるわけです。これをやめろ、定年退職はなしにしろと企業に言う場合、定年に代わる雇用調整の柔軟性と言いますか、その手法をある程度認めてやらなければいけないことになるだろうと思います。

では、年齢差別をなくすにはどうしたらいいのか。定年とか、あるいは採用における年齢制限をなくすにはどうしたらいいのか。経済学者的に言えば、年功的な賃金、あるいは雇用調整の仕組みが、定年や採用における年齢制限を必要としているわけですから、そういうものをまずなくせばいいということになります。少なくとも、必要条件としては、年功的な賃金システムあるいは昇進・処遇システム、そして定年だけを雇用調整の手段とせざるを得ない雇用調整のあり方を、変えていくことが必要だろうと思います。

具体的に言えば、年齢を基準としない賃金体系で、その人の能力や業績、会社に対する貢献度に見合った給料を支払う。あるいは年齢に関係なく、最後まで担当者としてプロフェッショナルな仕事をしてもらう、年齢を管理職に採用する際の基準にしないといった変革が必要になるわけです。あるいは定年退職にかわる雇用調整のルールを定めていくことも必要になるだろうと思います。

(2)雇用制度はいずれにしても変化する

賃金をできるだけ年齢や勤続と関係ないものにしていく、あるいは人々の処遇のあり方を、管理職という形ではなく、基本的にはプロフェッショナルを中心に考えていこうということは、少しずつ大企業の中でも出てきています。中小企業では、もともと賃金はそんなに年功的ではないですし、年をとって部長や課長という肩書きがついても第一線で仕事をしていますから、そんなに問題ではないわけですが、大企業においても、最近、新聞の経済面をごらんになればいいと思いますが、必ずどこかで年俸制が導入されたとか、今まで6段階あった管理職のポジションを3段階に圧縮したとか、そういう話を聞くわけでございます。

年齢を基準としない能力本位、あるいは成果本位、業績本位の賃金体系であるとか、管理職をうんと圧縮したフラットな専門職本位の組織というものは、実は日本の企業が競争に勝ち残るために今やろうとしていることであり、そのまま進めていけば、それがすなわち年齢差別なしに人を雇うことができる条件の整備につながっていくことになるわけです。

もし、うちは完全な能力主義です、あるいはフラットな組織を志向していますという企業があったら、そういう会社に定年退職制度があるのは論理的におかしい。もし能力に見合った賃金を払っているのであれば、60代の人だからコスト高だとか、30代の人はコスト安だということにならないわけです。

年功賃金には、いわゆる生活給という考え方も背後にあります。ごく簡単に言うと、20代の独身であればこのぐらい、30代で所帯を持てばこのぐらい、40代になると子供も大きくなるし、大学に行ったりするかもしれないからこのぐらい必要でしょうという、いわば個人の生活の必要に合わせて賃金を決めているという考え方が、年功賃金の背後に1つのアイデアとしてあったわけです。

しかし、こうした生活給の考え方は、2つの理由でだんだん崩れていかざるを得ないのではないかと思っています。1つは国際競争です。もちろん、生活給の考え方はどんな国でも、程度の差はあっても存在するわけです。労働者が生きていかなければ、そもそも雇い続けることはできないわけですから、労働者の生活を一切無視した賃金体系というのはあり得ない。問題は、その生活給の範囲です。

どれほどはっきり議論されているかどうかは別として、アメリカで生活給の範囲に含まれているものと、日本で生活給を考えたときに含まれるものとでは、ギャップがあると思います。

特に生活給は男性社員を中心に考えられているわけですけれども、例えば日本の40代の男性社員、大企業のサラリーマンを考えた場合、家に専業主婦を置いて、もしかしたら大学生の子供が2人ぐらいいて、その子供たちの授業料や生活費までお父さんの稼ぎだけでやっていけるような、そのぐらい生活費の範囲を広めにとって、いろいろな物事を考えているように思うんです。労働組合の人たちの議論を聞いても、40代は教育費がかさむとか、そういう議論が必ず出てくるわけですね。

おそらくアメリカで生活給と考えた場合、専業主婦とか18歳を越えた大学生の学費や生活費を、1人のお父さんの稼ぎで面倒を見るというところまでは、たぶんもう含めない形になっていると思います。逆に言うと、夫婦で働いて初めてきちっとした生活水準を維持できる。つまり、生活給の範囲がより個人単位化してきているわけです。

国際競争をしている中で、せいぜい未成年の子供の生活費まで含めた個人単位の生活給と、専業主婦や大学生の子供の生活費まで含めた家族単位の生活給が競争すると、それは個人単位のほうに収斂していかざるを得ないわけです。これは社会保障制度にも関連しているわけですが、世帯単位の生活給を前提とした年功賃金は、だんだん崩れていかざるを得ないように思います。

もう1つは、国内的にも、女性の就労がどんどん進んでくる。さきほどお父さんの給料と言いましたけども、共稼ぎのとき扶養家族をどちらにつけるかという議論が出てくる。家にお母さん、専業主婦がいて、子供がいてという家族だけではなくなってきているわけです。

そして、結婚しない人も増えています。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、将来、日本人男性の生涯未婚率は20%ぐらいまで上昇するかもしれないということです。生涯未婚率というのは、今たまたま離別してひとり者だとか、死別してひとり者だというのは入りません。生涯に一度も結婚しない人が男性の場合、5人に1人ぐらい、女性でも15%、6人に1人ぐらいになってくるのではないかということです。

あるいは、結婚しても子供をつくらない人がいる。つくる人もいる。夫婦でともにキャリアを歩む人も出てくる。そういうとき、世帯単位、特にお父さんの稼ぎで専業主婦から大学生の子供まで面倒を見るという生活給体系は、日本人の労働者の中でもなかなか支持を得にくくなってくるのではないかと思います。

年功賃金は昔から変わる変わると言われていて、一向に変わらないと言われる部分があります。けれども、私は相当ドラスティックに変わっていかざるを得ない状況になってきていると思います。建て前やイデオロギーで年功賃金を変えるというのではなくて、社会構造や国際的なマーケットの変化が、年功賃金を変えていく原動力になると思うわけです。

(3)一社雇用保障システムの維持は困難

それから、定年があれば、そこまでの雇用を保障できるのか。つまり、定年を企業に与えておく代わりに、定年までの雇用保障を確保するという考え方が、これからも成り立つかどうかという点であります。

労働組合がいまひとつ定年廃止まで踏み込まない1つの大きな理由は、定年というものが持つ雇用保障機能を重視しているからではないかと理解しております。定年までの雇用保障が守れるのであれば、それは1つの戦術と言いますか、選択肢として合理性を持っているだろうと思います。ただ、学校を出てから定年まで1つの会社で雇用を保障していく一社雇用保障システムが、これは今までも中小企業にはなく一部の大企業や役所だけにあったものですが、これからもほんとうに維持していけるんだろうか。それはなかなか難しいのではないかと思います。

理由は2つあります。1つは個人の職業生涯が長くなってくる。少なくとも65歳までは現役で働かないといけない。場合によっては70歳ぐらいまで現役で働くかもしれない。そうすると、他の条件が一定でも、個人の職業人生が長くなったぶん、その間に会社がつぶれたりする確率も高くなってくるわけです。

もう1つは、実は他の条件が一定じゃないわけですね。企業が個人に保障できる雇用期間は、どうしても短くなってこざるを得ない。国際的な競争が厳しくなってくる。国内的にも規制が緩和される。あるいは「ドッグイヤー」という形で技術の進歩が非常に速くなってくる。そうすると、どんなにいい会社でも、新入社員に向こう40年という長期雇用を保障することは、なかなか難しくなってくる。こういう状況で、もし向こう40年の定年まで雇用を保障しますよという企業があるとしたら、かえって無責任な企業ではないかと思います。むしろ長期の雇用は必ずしも保障できないと考え、保障できなくても従業員が困らないような仕組みをつくっていくというのが、ほんとうの責任ある雇い主の態度ではないかと思うわけです。

そうなってまいりますと、学校を出てから定年まで1つの会社で雇用が保障されるのではなくて、むしろ雇用を保障しきれなくなった企業から、人材を必要としている、あるいは雇用を増やそうとしている企業に、労働市場を通じて移っていくことが大切になってくるわけです。個人が労働市場を通じてみずからの雇用を保障していくという仕組みが、必要になってくるだろうと思います。

(4)年齢を基準としない雇用制度に

そのときに最大のネックになりかねないのが、さきほど言ったようなエイジズムです。一定の年齢までしか雇わないといったような、年齢とともに雇用可能性が低下してしまう構造です。その意味でも、雇用を守るために年齢差別を禁止していく必要があります。

定年がなくなると、年功賃金は維持できなくなるし、定年以外の雇用調整の手段が、雇い主にもうちょっと認められるようになるでしょう。しかし、いずれにしても年功賃金は崩れていく。そして、定年までの雇用保障もだんだん弱まっていく。労働組合の立場から見ても、定年だけそのままあったのでは、ただとられるだけです。むしろ年功賃金が崩れていくのは、市場がそういう形にするのだからしかたがない、定年まで雇用を保障できないのも、市場の圧力でしかたがないと考えて、そういう世の中になっても労働者ができるだけ困らないように、働く意思と能力のある人が年齢を理由に雇用を切られたり、中年になってから失業しても再就職を拒まれたりしないようなルールを勝ち取っていくことが、労働組合としても合理的な選択になってくるのではないかと思います。

過渡期には損をする人が出てきます。例えば今の中高年ですね。私も今ちょうど40代半ばですが、私ぐらいの年齢のサラリーマンは、今まで安い賃金で会社のために奉仕してきて、やっと給料が高くなるというとき、いきなり能力主義の賃金をと言われたのでは、過去債務の棒引きではないかという感じになると思います。どうしてくれるんだと。あるいはせっかく少し楽な、楽かどうか知りませんけれども、管理職のポジションにつきそうになったとき、いきなりそのポジションを3分の1に減らすとか言われても困ると。

今から20年以上前、私の友達はいろいろな会社に就職していきました。そのとき就職した学生は、例えばA銀行、B銀行、C銀行に入って、その中で同期の仲間と切磋琢磨しながら将来、支店長や部長などになっていこうというように、自分の職業生涯を描いていたはずです。ところが、最近見ますと、A銀行、B銀行、C銀行というのが一緒になるわけです。いきなり自分の同期生、ライバルが3倍ぐらいに増える。しかも支店や部の数がもっと減らされるかもしれない。路頭には迷わないにしても、個人の職業人生は相当大きく変わってくるわけです。

いずれにしても、賃金体系や処遇の仕組みを途中で変えられたら困るというのは、特に今の中年世代だろうと思います。そのあたりがかなり変革に抵抗することになる。しかし、抵抗しても変わるものは変わるわけですから、そうであれば、今の中年世代にとって1つの妥協は、少なくとも賃金がフラットになっても、生涯に受け取る賃金の総額があまり変わらないような形で、現役期間を延ばしていくことだと思います。

そういう意味で、年齢を基準としない雇用システムを、これから労使がどうつくっていくことができるのか。企業だけではなくて、働くほうもそれをある程度受け入れていかなければならないわけですが、年齢を基準としない仕組みをつくっていくことができるかどうかということが、重要なポイントになってくるだろうと思います。

選択と自己責任の仕組みに

(1)評価をめぐる諸問題

そのとき1つ問題になるのは、では何を基準にするのかということです。それは、その人の持っている仕事能力や業績、成果、貢献度などになるわけですが、問題はこれらをどのぐらい、きちんと評価できるかというところにあるわけです。それができませんと、能力主義、成果主義といっても、絵に描いた餅に終わってしまう。それどころか、かえって働く人々のやる気をなくしまうことになるわけです。

評価をめぐる問題は非常に難しい。どこの会社も評価について頭を悩ましているわけですが、私は3つぐらいのポイントがあると思っています。

1つは評価技術の問題です。どのぐらい正確に能力や業績、貢献度を評価できるか。パフォーマンスをどれだけきちんと評価できるかという話です。これはもちろん、さまざまな評価技法を開発する。あるいは、上司が部下を評価することが多いわけですから、管理職の人たちに評価の技術を磨いてもらう、評価者研修や考課者研修をしっかりやるということだろうと思います。

ただ、こうした仕事能力等を評価する技術は完璧ということはないので、何らかの形でさまざまなチェックをする必要がある。自分の評価が妥当かどうかをチェックする1つの方法は、やはり市場価格だと思うんですね。つまり、自分と同じ仕事ができる人間をよそから雇うといくらかかるか、あるいは自分をよその会社に売り込むといくらで買ってもらえるか、そういう自分の市場価格です。もちろん市場価格だけが、企業内の賃金の基準になってよいわけではないのですが、市場価格と著しくかけ離れた賃金水準、企業内の評価というのは、やはりどこかおかしいのではないかということになります。

1人1人の市場価格を調べるのはたいへんですけれども、標準的な労働者の市場価格を調べてくれる会社というのが、最近たくさんあります。そういう会社に依頼して、このタイプの労働者はいくらぐらいでしょうかということをチェックして、あとは上下の幅を企業内で考えていくということは、1つありえるだろうと思います。

そういうことをやってくれる会社は、ヘッドハンティングやアウトプレースメントの会社であったりします。従来、そういう会社のお客さんは企業なんですが、最近は年俸制を導入された大企業の社員などから、自分の市場価値を調べてほしい、今すぐ転職するつもりはないけれども、自分はいくらで売れるのか値段だけ教えてほしいという注文が、ぼつぼつ出てきているそうです。

人材関係の会社の人に言わせると、そういう人はほんとうに転職するつもりはまだないわけですから、成功報酬ももらえないので、コストばかりかかってあまりいい客ではないそうですが、将来ほんとうに転職してくれるかもしれないので、比較的安い料金で調べているそうです。もしよかったら、調べてもらってもいいのかもしれません。

彼らの話をつけ加えますと、今までのところ大概の場合、その人が今の会社でもらっている給料のほうが、市場価格よりずっと高いことが多いそうなので、あまり気軽に調べてもらったりしないほうがいいかもしれないということです。いずれにしても、市場のチェックを入れるというのが1つの考え方だろうと思います。

(2)情報開示の重要性

もう1つは、評価の透明性を高める、あるいは評価の情報開示です。例えば、あなたの評価はこういう理由でBになりましたということを、評価する側の企業あるいは上司が、評価される側にきちんと説明する、情報を開示するということです。従来こういうことは、言うは易し行うは難しで、場合によっては、評価をあいまいにすることが、人事の腕の見せどころというところもあったわけですね。

大学時代の同級生に会ったりすると、会社における自分の将来は大体見えたという人が多いわけです。そうなるまでは、みんなもしかすると会社で偉くなるかもしれないと思って、結構忙しく働いていた。最近はあきらめて暇になったせいか、会おうなんて話がよく出てくる。私ぐらいの年になるまでは、もしかしたら偉くなるかもしれないと思わせて、一生懸命働かせるというのが、人事の要諦、企業の戦略という部分があったわけです。

しかし、ほんとうの意味で能力主義、成果主義ということになれば、そうはいかないわけです。一人前になった30歳前後ぐらいから、しっかりとその人の評価を開示していく、あるいはその理由も説明していく。場合によっては引導を渡すことも必要かもしれません。

これには2つぐらいメリットがあると思うんですね。1つは、評価を教えてもらうことによって、そうか、自分がこの会社でこれから生きていくとしたら、ここを伸ばしていけばいいんだ、あるいはここを直していけばいいんだということがわかる。あるいは、もう自分はこの会社にいてもしようがないから、よその会社に移ったほうがいいという判断が、比較的早くできるということです。

もう1つは、評価する側がまじめに、評価能力を磨くようになるだろうと思います。部下にきちんと評価を伝えないといけない、その理由も説明しなくてはいけないということになって初めて、評価する人間にとって、評価能力、評価技術を一生懸命磨かなければいけないという動機づけになるわけです。そういう意味でも、評価の情報開示は、大切なことではないかと思っております。

(3)仕事と能力開発の自己選択

3つ目のポイントですが、実はこれが仕事能力の評価をめぐる一番深刻な問題だろうと思います。それは仕事の配分の問題です。

例えば40代半ばぐらいになった従業員に、きょうから年俸制を導入しますと言ったとします。そして、あなたの能力はあまり高くない、あるいは業績があまり上がっていないから、年俸のレベルはこのぐらいに抑えさせてもらいますよと言ったとしましょう。そうしたら、どんな反応が返ってくるか。

1つ考えられるのは、確かに私の能力が低いことは認めます、あるいは業績が上がっていないことは認めます、でも、それじゃあ、こんな私にだれがしたんですかという反応ですね。私は今まで会社の言われるとおり、いろいろな職場をぐるぐる回ってきた。しかし、そこにはろくな上司がいなかった。だから、自分は能力を磨こうにも磨けなかった。あるいは、私の業績が上がっていないといっても、それは今まで自分の能力を十全に生かせるような職場に配置してもらえなかったからですと。そういうことは、実際にあり得るわけですね。

したがって、ほんとうに能力主義や成果主義、業績本位や貢献度に応じた処遇、報酬ということになれば、やはりある程度は働くほうにも仕事の選択、あるいは能力開発についての選択を認めないと、なかなか納得を得られないと思います。

そういう意味で最近、幾つかの企業、労働省の研究会の調査によると、5000人以上の大企業では4割ぐらいが何らかの形で導入しているという、社内公募制があります。今度、新しく始めるプロジェクトに参加したい人、あるいは、課長の空きポジションに挑戦したい人はこの指とまれ、といった制度です。手を挙げたらだれでもなれるわけではありませんが、少なくとも手を挙げることを保障する。そういった社内公募制も必要になってくるだろうと思います。

ただ、その人の能力が十分に活かせる場所は、もう企業の中にはないという場合があるかもしれません。特に小さな企業の場合、企業内で公募といっても、その人の能力が十分に活かせる場はないかもしれない。また、企業がある部門から撤退することになると、ある種の技術を持っていた人たちは、その技術をまったく使えないようになってしまう。そういう人たちは、ひどい場合には窓際族という形で、まったく貢献ができないようないすに座らされてしまうことになると思います。

雇い主の解雇権が制限されているもとでは、なかなか解雇は難しい。会社の中でやる仕事がない人たちは、しようがないから窓際族のような形にならざるを得なかったわけです。よく考えてみれば、これは本人にとって不幸なことですし、会社にとってもすごくコストがかかることです。また、能力を全然活かせないような場所にその人がいるということは、経済全体の効率という観点からいっても望ましくないわけです。

やはり、窓際族的な人たちができるだけ出ないように、もしその企業で能力を活かせないのであれば、できるだけ別の職場に移って能力を活かす。場合によっては、自分自身でビジネスを始める。そういったことがきちんとできるような雇用調整のルールを、労使で工夫しながらつくっていく必要があるのではないかと思います。

雇用保障とのペアで自分のキャリアを選べないという不自由さが、日本の大企業にはあったと思います。とにかく雇用さえ守られればいい。その中では個人の能力は活かせなくてもいい。能力をまったく活かせないような職場に配置転換させられても、雇用さえ守られれば文句は言えない。そろそろそういった考え方を改める必要が出てきているのではないかと思います。

(4)労働市場を通じた雇用保障

これからは労働市場を通じて雇用保障をするという形に変わってまいりますので、そのための条件を整備していくことが、政府に求められるのだろうと思います。まず、労働市場の機能を強化していく。労働市場がうまく機能するかどうかのキーは雇用情報です。どこにどんないい人材がいるのか、どんないい仕事があるのかといった雇用情報ですね。

例えば、民間の職業紹介ビジネスがもっと自由に活動できるような形にしていく。職業紹介についての規制緩和は相当進んでいますけれども、まだ料金等についての規制が残っております。そういった規制をもう少し見直していく必要があります。

同時に、公共の職業紹介機関も機能を充実させていく。職業紹介機関の中にせっかく優秀な職員の方がいるのに、その人たちが必ずしも本来の職業紹介や雇用開発の仕事に従事できず、いろいろな補助金の事務などに忙殺されているケースがあると聞きます。公共部門においても、プロの職業紹介の担当者が本来の仕事に専念できるような仕組みにしていく必要がある。そういう面でも、いろいろな種類の補助金を、もうちょっと見直していく必要があるのではないかなという気がいたします。

もう1つ大切なのが、市場を通じた移動を妨げている制度的なバリア、年齢差別や性差別、障害者の差別、要するに個人の仕事能力以外による差別を禁止していくことも、これは逆に言うと規制の強化でございますが、必要になってくるだろうと思います。

失業率は今4.6%まで下がってきておりますが、労働白書によりますと、ことし1?3月期の失業率のうち、いわゆる需要不足の失業、不況による失業が1.2%ぐらい、残りの3.4%ぐらいはいわゆる構造的な失業、つまり仮に景気がよくなってもそれ以下には下がらないという性格のものでございます。だんだん日本でも構造的な失業率が高まってきています。これからちょっと景気が悪くなったりすると、失業率が5%を超えるようなことが、常態化してくるおそれもあると思っております。

オイルショックの前、日本の失業率は大体1%だったわけです。オイルショックを挟んで2%にジャンプして、その後70年代後半から90年代前半まで、円高不況のとき3%に近づいたことがありましたけれども、大体2%台で推移してきています。それが1995年に3%の大台を超えてからグッととシフトしまして、特に98年の1年間では、1ポイントぐらい上昇しています。20年かかって2%から2.9%まで上昇した失業率が、98年の1年間だけで1ポイント上昇したわけです。後から見ると、90年代の後半に、オイルショックのときと同じように、失業率の構造的な上方シフトがあったということになるのではないかと思います。

失業率5%の時代とはどういう時代かと言うと、失業者が20人に1人ですから、失業もそんなに特別な状態ではないということです。だれもがとは言いませんが、大企業に勤めている人でも、失業者になる可能性があるということだろうと思います。

(5)失業者のための雇用政策を

私はそろそろ日本の雇用政策のスタンスを、失業者のための雇用政策に変えていく必要があると思います。失業者の利益と、雇われている雇用者の利益とは、しばしば相反することがあります。例えば失業者にとっては、失業保険をできるだけ長い期間、しかも十分にもらえるほうがいいに決まっています。しかし、そういう潤沢な失業給付を実現するためには、雇用保険の保険料を上げざるを得ません。これは雇われている人間にとってあまりうれしいことではない。

あるいは失業者にとっては、できるだけ企業が人を気安く雇ってくれるほうがいいわけです。労働者派遣の規制を撤廃するなどして、企業が気軽に人を雇えるようにしてくれたほうが、次の仕事は見つかりやすい。でも、派遣労働の範囲を拡大したりすると、雇われているほうにとっては、自分の仕事が派遣労働者にとって代わられるかもしれませんから、あまりうれしいことではない。

もうちょっと抽象的な議論で言えば、雇ったからには絶対解雇できないとなると、企業は人の採用にものすごく慎重になるわけです。しかし、仮に雇ってみて、あまり使えなかったら辞めてもらえばいいやと思えば、気軽に人を雇うわけですね。そうすると、失業者にとっては、気軽に人を雇ってくれる状況のほうが望ましい。そのためには雇われている人の雇用保障を緩めざるを得ないという部分が出てくるわけです。

もちろんこれはトレードオフの問題ですから、バランスの問題ですけれども、私はもう少し日本の雇用政策を、雇われている人のための雇用政策から、失業者の身になった雇用政策にシフトしていく必要があるのではないかと思います。

そのためには多少雇われている人の負担は重くなっても、失業給付を充実させていく。ただまんべんなく充実させる必要はないので、若い人があまり長く失業していたりとか、年金がもらえるような高齢者に対して失業給付をすることはないと思います。

しかし、中高年の失業者は、まだまだ年齢の差別などもあって、いったん失業すると次の仕事が見つかるまで相当長い時間がかかる。IT化などによって技術変化も激しくなるので、いったん失業した人が新しい技術を身につけるための時間は、もっとかかるようになるかもしれない。そういう意味では、働いている現役労働者の負担が多少重くなっても、失業給付をもうちょっと充実していってもいいのではないかと思います。

また、企業が人を気軽く雇えるように、雇用調整のルールをもう少しつくっていく。雇い主の解雇権をあまり厳しく制限するのではなく、一定のルールのもとで、もう少し雇用調整をしやすくする。あるいは派遣労働についても、職種についてはネガティブリスト化されましたが、雇用期間などの制約はまだかなりきついわけです。もう少し雇い主が派遣労働という形で人を雇いやすくすることも、失業者の再就職を促進する視点からは、必要になってくるのではないかと思っております。

時間から自由な雇用制度

(1)これからの職業人生は「マラソン型」

少子高齢化時代の働き方を考えたとき、時間から自由な雇用システムというものが、必要になってくるのではないかと思います。10年以上前、経済企画庁の研究会が「1800労働時間社会の創造」という報告書を出しましたが、その中に1つおもしろいキャッチフレーズがありました。実は東工大の矢野先生が思いつかれたキャッチフレーズですが、「日本人の生活は三過ぎる」と言うんですね。三過ぎる人生。子供のときには勉強し過ぎる。大人になったら忙し過ぎる。年をとったら暇過ぎる。

「子供のときに勉強し過ぎる」というのは、最近あやしくなってきた面もありますが、この三過ぎる人生を何とかしないといけません。特に大切なのは、「大人になったら忙し過ぎる」と「年をとったら暇過ぎる」との間に、密接な関係があることです。

働き盛りのときに朝から晩まで働きづめだと身も心もくたびれてしまい、年をとるともう働けない。だから暇過ぎてしまう。あるいは朝から晩まで働きますと、自分をもう一度鍛え直す、新しい技術を身につける時間も、体を鍛え直す時間もない。だから、年をとったら働きたくても使える能力がない。

したがって、もう少し働き盛りの労働時間を短くして、アフターファイブに新しい知識や技術を身につけられるような時間的ゆとりをつくる。あるいはアスレチッククラブに通うのでもいいかもしれません。自分の健康状態を維持、向上させる時間的ゆとりを与えることによって、年をとっても元気に働ける状況をつくっていく必要があるのではないかということです。

55歳定年のように比較的短い職業生涯を、若いときに能力開発した後、定年まで突っ走るような短距離走型の雇用人生だとすれば、65歳や70歳まで働き続ける長い職業生涯というのは、途中で栄養ドリンクなどを補給しながら長丁場を走り抜くマラソン型です。

そういう意味では、例えば40代ぐらいの職業人生の折り返し地点に、1年ぐらいの長期間、能力再開発のための長期研修休暇みたいなものを設ける。そういう職業生涯の能力開発システムを充実させるためにも、労働時間の短縮が必要になってくるのではないかと思います。

(2)ホワイトカラーの生産性向上のために

特にホワイトカラーの人たちの働き方を考えた場合、時間から自由に解き放たれた働き方というのが、大切になってくるだろうと思います。

ホワイトカラーの生産性ということがしきりに言われていますが、それにはいろいろな理由があると思います。1つは、ホワイトカラーの数自体が増えてきた。もう1つは、ホワイトカラーの働き方と、例えば労働基準法といった規制法規とが、どうも矛盾するようになってきた。労働基準法はもともと工場の生産労働者を念頭に置いてつくられた法律ですから、オフィスで働く労働者を規制するには無理な部分があったわけです。そこで最近、まだまだ範囲は限られておりますが、いわゆる裁量労働制というのも出てきました。制度と働き方のミスマッチ、ギャップが顕在化してきたと言えます。

そして、何よりもホワイトカラーのつくる付加価値が、企業の命運を左右するようになった。つくるものがわかっている時代には、生産現場の生産性向上こそが競争力を決めていたわけですが、その生産現場で何をつくるかということが競争を規定するようになりますと、まさにホワイトカラーの生産性、能力が競争を規定するようになる。そんなこともあってホワイトカラーの生産性が、非常に重視されるようになってきたわけです。

ホワイトカラーの生産性を上げると言いますと、1時間に書類が10枚つくれていたのを、パソコンの導入によって、20枚つくれるようにすることという受けとめ方をする向きもありますが、それは違います。工場でものをつくる場合の生産性向上はそれでいいわけですが、ホワイトカラーの生産性向上というのは、むしろ今まで1時間に10枚書類をつくっていたんだけれども、ほんとうにその10枚の書類は必要なのか見直すことから始める。むしろその枚数を減らして残った時間を、知恵を絞る仕事、あるいは顧客に対して知的な専門サービスを提供する仕事に振り向けていくというのが、本来の意味でのホワイトカラーの生産性向上だろうと思います。

(3)年俸制は2つの時間軸から自由な制度

そういう意味で、年俸制というのは1つのアイデアだと思うんです。それは2つの時間軸から自由な報酬体系だと理解することができるからです。

1つは、労働時間という時間軸から自由です。何時間働いたかは関係ない。残業してもしなくても関係ない。その人の仕事能力、仕事の成果に応じて報酬を払いましょうという、労働時間という軸から自由な報酬体系です。これは結果で勝負するホワイトカラーの報酬体系として理にかなっていると思います。

もう1つ、過去、未来という時間軸からも自由です。あくまでも年俸はあなたの今年の能力、業績で決めます。会社のために過去にどれだけ貢献したかということは、そのときの年俸に反映されたはずである。将来どれだけ貢献してくれるかということも、そのときの年俸であらためて考える。あくまでも今年時点の能力や成果ではかるのです。そういう意味で、過去や未来という時間軸から比較的自由な報酬体系だと言えます。これもやはりプロフェッショナルな仕事をするホワイトカラーの評価としては正しいと思います。

ある大手銀行の役員の方にインタビューしたことがあるのですが、昔はよく同期のトップ、あるいは10年に1人の逸材というのがいて、そういう人たちが20年ぐらいたつと、ほんとうに偉くなるという仕組みになっていたと言います。逆に言うと、どんな10年に1人の逸材も会社に入ってから20年ぐらいは、その人の能力にふさわしくない、場合によってはつまらない仕事をしながら、将来偉くなるのを楽しみに一生懸命我慢したわけです。

ところが、規制にがんじがらめだった金融業でも、規制緩和によって、ものすごく市場指向のビジネスが重要になってくると、それが変わってきたと言います。20年間、自分の能力に合わない、つまらない仕事ができるような人間は、もはや人材とは言えなくなってきた。自分の能力にふさわしくない仕事を3年もやらされたら、もうやめてしまうのが、ほんとうの人材だという感じになってきていると言うのです。

それは彼の担当分野の話だという限定をつけていましたけれども、過去、未来という長期で収支のバランスを合わせると言いますか、昔がんばってくれたから今ご褒美をあげましょう、あるいは将来の期待を含めて今こういう報酬をあげましょうということは、マーケットや技術の変化が激しい時代には、そぐわなくなってくるのかもしれません。

規制が緩和されるということは、よく消費者の選択が広がることを意味していると言われます。消費者の選択が広がるということは、それだけ生産者が選択される機会が増えるということですから、きょう売れていた商品が、あしたはもう売れなくなるかもしれない。消費者が違う商品を選択するかもしれないということになってくる。

つまり、消費者選択が広がるということは、ほとんどニヤリーイコールで生産者の不安定性が高まるということです。これからの社会がどんどん消費者選択の広がっていく社会だとすれば、今、有能な人が20年後にも有能かどうか、あるいは今いい会社が20年後もいい会社であり続けられるかどうかというと、今まで以上にその不確実性は高まっていくということだと思います。

いずれにしても、労働時間という軸、あるいは過去、未来という軸から自由な報酬体系というのは、もしかするとホワイトカラーの報酬体系にかなり合致したものになってくるのではないかと思います。

豊かな21世紀のために

(1)自分の職業人生は自分自身のもの

私が『定年破壊』(講談社、2000年)という本を書いた趣旨は、定年制度を何とかしないと、これからの日本のあるべき姿である生涯現役の仕組みをつくれないという問題意識であると同時に、やはり定年というものが、自分の職業人生を会社に預けてしまっていることの象徴ではないかと思うからなんです。

このところ「定年後の人生を考える」というような本が、結構売れています。そこで1つひっかかるのは、はなから定年というものを前提に、そこでもう自分の職業人生は終わるんだ、そして、その後どうするかという計画を立てようとしていることだと思います。ほんとうのプロフェッショナルにとって、いつ仕事をやめるかということは、会社が決めた定年ではなく、自分がほんとうに満足したとき、これでもう十分いい仕事をしたというとき、みずからが決めるべきものではないかと思います。

そういう面で、定年制度がある限り、なかなか自分の職業人生がほんとうに自分のものにはならない。自分の職業人生を自分の手に取り戻すためにも、定年制度をなくしていく必要があるのではないかと思います。

(2)人的資本の発想

いずれにしても日本では、人材がほとんど唯一の資源なわけです。経済資源として一番豊富にあって、一番良質な資源は人材なわけですから、その人材がこれからも高度になっていくかどうかが、日本の経済社会がこれからも豊かであり続けることができるかどうかのかぎであります。

そのためには、人間にもっと投資をしなきゃいけない。あるいは、1人1人が自分にもっと投資することを、促さなければいけないわけです。投資は必ず回収しないといけません。回収期間が短くなればなるほど、投資効果は小さくなってしまいます。人間に寿命があるのはしかたがないわけですが、定年退職制度をわざわざ設けて、せっかく能力開発をしても、それを使えるのは定年までとなりますと、当然、定年を前提に投資をだんだん減らすことになります。

ですから定年制度というものは、実はそれが存在することによって、それがない場合に比べて、個人や社会の人間に対する投資を減らすことにもなるわけです。やはり定年制度は、日本人個人の人的資本投資を促進する観点からも、見直していく必要があると思うわけです。

(3)個人、企業、社会のバランスのとれた活力を

豊かな21世紀というのは、企業の活力だけが高まるのでは困るわけです。地域社会の活力、あるいは家族といった社会の最小構成単位の活力も、もっと高まっていかなければならないだろうと思います。

しばらく前からでしょうか、定年離婚という寂しい言葉を聞くわけです。お父さんは家族が大変だったときも家にいてくれない人だった。そういう人は本来、家族の一員とは認められないんだけれども、さすがに定年までは1つだけ役に立っていたので、家に置いておいた。つまり、会社から給料を運んでくるので役に立った。しかし、定年になったらその役に立たなくなるので、もうあなたは家族の一員じゃありませんと。非常に寂しいわけです。

最近、お話しをしたある女性の評論家によりますと、定年離婚というのはさすがにむごい、会社と家族を一緒に失うんじゃちょっとかわいそう、そこで心ある妻は、定年のときではなく、お父さんが職業生涯のピークのときに離婚話を切り出すそうです。つまり、今度部長になったとか、あるいは役員に取り立てられたとか、そういうときを見計らって、「お父さん、家族を犠牲にして会社で偉くなってよかったわね。それでは別れましょう」と言うのが、せめてもの妻の情けだというそうです。いずれにしても、寂しいわけです。お父さんも家族の一員として活力を発揮できるような働き方というのが、これからは大切になってくるんだと思います。

マスコミュニケーション論の権威である岩男壽美子教授が、『The Japanese Women』、『日本の女性たち』という研究書を出しました。そこに書いてあることなんですけれど、昔から日本の奥様方は「亭主丈夫で留守がいい」と言っておられたわけですが、「亭主丈夫で留守番がいい」ということが、最近はやりだしたそうです。「亭主丈夫で留守」の間に、奥様方は地域の勉強会や文化サークルなどにいろいろ活躍の場をつくっていた。ところが、亭主が定年で家にいるようになると、そういう奥様の活躍の場に、「僕も連れていって」という感じでちょこちょこついてくる。これは邪魔でしようがない。だから、「亭主は丈夫で、家で留守番でもしていればいい」というのが新しいキャッチフレーズだそうです。

やはりこうなってしまっても寂しい。もう少しお父さん方も会社以外の場所でいろいろ活躍できるような、そういうバランスのとれた活力が必要になってくるのではないか。これからの雇用と処遇は、特に老後の人生が長い、少子高齢化社会において考える場合、もう少し個人と企業と社会のバランスのとれた活力が、発揮できるような体制にしていく必要があるのではないかと思います。

質疑応答

質問

1980年ごろから、定年制が55歳から60歳に延びるプロセスがございました。そのとき、金融機関を中心に、大企業の一部も加えまして、60歳に定年制を延ばすのと引きかえに、55歳からの賃金を半分、あるいは6割に下げたという実例があります。法律学者は盛んにその問題について発言しておりますが、経済、経営学者の発言は、私の調べたところ、まったくありません。

今後の定年制延長に関しても同じように、定年制の形骸化という問題が起きてくるのではないか。過去の5年間の定年延長について、それと引き換えの賃金引き下げ問題を、どのようにお考えになっていらっしゃるのか、お話しいただきたいと思います。

回答

私は賃金制度の調整なしで、定年延長というのは無理だと思います。ただ、55歳から60歳にするとき、私の知っている限りで言うと、年功賃金は抜本的には改めず、つまり55歳までの年功賃金制度はそのままで、そこから先だけをドラスティックに下げるという形で変えた部分が多いと思います。

しかし、これをさらに65歳まで延ばすとか、あるいは定年をなくてしまうことになれば、最後のところだけの調整では済まなくなります。むしろもっと根っこから賃金をフラットにしていくことが、必要になってくるのではないかと思います。

経済学者や経営学者は何も発言していないわけではありません。企業がやっていることを是認するわけじゃないですけれども、賃金調整なしに定年延長はあり得ないだろうということは、しばしばいろいろな人が言及していると思います。

ただ、それを何割まで下げるとか、それは違法だなどと言うのは、労働法学者や裁判官の範疇でしょう。経済学者的な説明をすれば、賃金を5割下げるというのには、下げる前の賃金が高過ぎたというのがあるかもしれない。あるいは下げた後が低過ぎるのかもしれない。もっと根っこからフラットにしておけば、下げる前の賃金もそんなに高くないし、逆に言えば、定年を延長しても、その後そんな極端に下げないでも済むのではないかと思います。

質問

60代の労働力率が日本では高くて、アメリカ、イギリス等では低いというお話ですが、その理由として、従来はたしか勤労意欲の面からご説明されてきた部分が多いように思うんですが、その点はどんなふうにお考えでしょうか。

回答

労働力率を説明する要因は、経済学的に言うと幾つかあります。1つは、働かなくても得られる所得がどのぐらいあるかということと、働いた場合の賃金がどのぐらいかということ。もう1つは、余暇に対する選好がどのぐらい強いかということです。

働かなくても得られる所得、すなわち年金という形で言うと、アメリカでは、フル年金は65歳から、そして減額年金は62歳からですが、少なくとも今まで日本のサラリーマンは60歳から年金をもらえました。それだけ考えると、むしろ日本のほうが、労働力率は低くてもいいわけです。

賃金の問題は別にして、年金だけ見れば、日本のほうが早くもらえるわけです。それにもかかわらず労働力率が高いというのは、その他の条件ですね。すなわち経済学でいう余暇選好になりますけれども、余暇に対する選好がアメリカやヨーロッパよりも低い。逆に言うと、勤労意欲と言いますか、もっと積極的に働くことで自己実現を図りたいという人たちが多い。そういうことを反映していると解釈できます。

実際に意識調査みたいなものを見ますと、確かに日本では60代半ばぐらいまで働きたいと考えている人が多い。それを勤労意欲という言い方をしていいかどうかわかりませんが、少なくとも就労意識が高い。それは、その他の経済状態、年金などをコントロールしても、日本の高齢者の場合、少なくとも今までのところは有意に高いと言えます。

ただ、将来的には、例えば団塊の世代以降、余暇を楽しむノウハウを今の高齢世代より持っている人たちが、高齢者になってきます。そのときにはもしかすると、余暇選好が高まって、もう少し労働力率が下がってくる可能性はあると思います。

質問

質問というよりコメントですが、定年制の問題というのは、やはり雇用政策の問題で、法的な差別の問題であるかどうかということには、基本的に疑問があります。

年齢差別禁止法を持っているのは、主要国ではアメリカだけでありまして、ほかの国には今のところありません。特定のグループが自分で選べない属性によって差別されているということが、法的に禁止される差別の対象です。清家先生は、年をとりたくないのにとるんだから、差別の理由として成り立つとおっしゃっていましたが、人間はだれでも年をとるので、そういう意味では平等に年をとる。年齢差別というのは果たしてそうかどうか。それから、日本の高齢者は一般的に、グループとして差別されていると言えるかどうか。

定年制は雇用保障とコインの表裏になっています。ですから、定年制を廃止するということは、雇用保障をなくす、究極的にはそうならざるを得ないわけです。

そこで、差別の法理という点から言うと、若干問題があります。日本における解雇の差別法理というのは、非常に弱い均等法、それから基準法や憲法などを駆使して、裁判所が差別的解雇を法的に無効とする法理をつくっている。それは雇用保障に依存しているわけです。つまり正当な理由で解雇したということを裁判官に納得させない限りは、差別になるという考え方なんです。年齢差別の法理を認めることによって、雇用保障、解雇自由の原則をとると、今認められている差別法理の実効性が非常に難しくなるという問題が1つあります。

それからもう1つ、採用の差別についてですね。ここで非常に問題なのは、日本の裁判所、それから法律家の一般的な考え方では、採用の自由を非常に大幅に認めています。そうすると、年齢を理由に採用しないという募集は違法になるけれども、具体的な個々の決定を争うのは実際には非常に難しいわけで、差別法理を採用することの効果には、かなりいろいろな問題がある。

清家先生のお話は非常に説得的だったんですが、伺いながらちょっと感じたことを申し上げました。

回答

定年について、雇用保障とコインの裏腹というのは、まさにおっしゃるとおりです。問題は定年さえ維持すれば、雇用保障を担保できるのかということだと思います。

もし新たなルールをつくるとすれば、定年前の解雇や雇用調整は一切やらないと約束した企業だけに定年を設ける。そういう法理が可能かどうかわかりませんが、それはあり得るかもしれません。

定年までの解雇や雇用調整も場合によってはやりたい。しかし、定年も残しておきたいとなると、定年以前の雇用保障が実態としてだんだん守られなくなったとき、労働側としては、とられただけになってしまうのではないか。

それから採用についてですが、少なくとも形式要件ではねられないようにするためには、男女雇用機会均等法などと同じようなことが言えると思うんです。私は大学の就職部長を兼務しているんですけれども、非常にけしからんケースだと思うわけですが、もともと女子学生を採用しないつもりの会社というのがあるわけです。それだったら最初から「うちは採用しない」と言ってくれたほうがよかったというケースもあるわけです。確かにそういう問題があるとは思いますが、少なくとも法律で定められた定年の年齢までは、募集要件の中に年齢制限を設けてはいけないというルールを、入れてもいいのではないかと思います。