第11回 旧JIL講演会
労働市場の変容と雇用管理
~プロ野球から考える企業と労働者の関係~
(2000年3月21日)

慶應義塾大学商学部教授
樋口 美雄

目次

講師略歴

樋口 美雄(ひぐち・よしお)
 1952年生まれ。80年に慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程を修了し、91年から慶應義塾大学商学部教授。専門は労働経済学、計量経済学。現在、中央職業安定審議会・雇用保険部会長などを務める。主な著書に『日本経済と就業行動』(東洋経済新報社)、『プロ野球の経済学』(編著、日本評論社)、『パネルデータからみた現代女性』(共編著、東洋経済新報社)など。

日本的雇用慣行の変化

 まず、最近の労働市場でどのような変化が起きているのだろうかという点から、お話を始めたいと思います。
このところ、世論の風当たりが労働市場、特に雇用慣行に対して強く起こっています。例えば、日本の三種の神器と言われてきた長期雇用慣行、あるいは、人によっては終身雇用と呼ばれているもの。そして2番目に給与体系、あるいは処遇制度において年功賃金体系をとっているというようなこと。3番目に企業別の労働組合が特に強い意思決定を行っているということ。そういう三種の神器について、いろいろな批判が起こってきています。
3番目の問題は労働組合のことですので、きょうの主な話から外しておくことにします。長期雇用、あるいは年功処遇といったものに対して、なぜ問題が起こってきているのかというところから、少しお話しします。
日本の長期雇用制度を考える上で、ひとつは企業の立場から、もうひとつは働く側から、3番目にマクロ経済の視点から、問題を持っているのではないかという批判が、しばしば起こっているかと思います。
その議論の中で、日本の労働市場はもっと流動的になるべきだ、あるいは転職コストを引き下げるような制度を考えていく必要があるなどと言われています。
労働者の立場から考えたとき、いま勤めている企業では自分の考え方を実現できない、あるいはリストラで転職せざるを得ないということが起きている。にもかかわらず、日本では転職すると損になってしまう。だから、転職コストをもっと引き下げるような施策を考えるべきではないかという議論です。
企業の側から考えても、資金調達方法の変更によって、従来の雇用慣行が維持できなくなってきているという指摘があります。
今までのメーンバンク制度のように、銀行からお金を借りて資金調達を行っているような時代ではなくなってきています。もはや直接金融で、社債や株式を発行します。メーンバンク制度であれば、毎年いくらずつ返金してほしいというわけで、銀行は企業の安定的な成長を望んでいました。それが直接金融になりますと、そのときそのときの株価がどうなるのかということに人々の関心が集まってきます。そうなりますと、長期的に安定した経営よりも、その場その場で一定の利潤を上げるような経営に変えていくべきではないかということになり、リストラクチャリングの発想が起こってきているかと思います。
また、日本の法体系を考えますと、労働基準法というよりも、過去の判例、解雇権乱用法理といったものによって、解雇に対して非常に厳しい制約がなされています。いろいろな条件を重ねた上で、解雇せざるを得ない場合について整理解雇を行ってもよいというものですが、この制約が非常に厳しい。結果としてリストラクチャリングを推し進めようとしてもなかなかできないという問題点があると言われます。
問題点が特に明確になってきましたのが、一昨年8月のことだったかと思います。ムーディーズという企業の格付け会社が、トヨタ自動車の長期債の格下げを行いました。なぜ、格下げされたのか考えてみますと、トヨタ自動車自身の問題というよりも、日本の雇用慣行に対して世界的な警鐘が鳴らされたものだと受け止める向きが生じました。
従業員の雇用保障を重視すれば、リストラクチャリングがなかなか進まない。解雇して人員を削減すればすぐにでも利益を上げることができ、株価が上がる。にもかかわらず、これを先送りしている日本企業は、競争力で問題が起こってくるのではないかという受け止め方です。これが経営者の間にいろいろなうわさを呼び、「リストラクチャリングの計画を発表しないと企業の株価が下がってしまう」という話まで出るようになってきました。
マクロ経済の視点から考えても、例えばある企業において、過剰の雇用者を抱えているとします。この人たちが人手不足だと言っている企業に転職できれば、個々の労働者の能力、意欲を十分に発揮できるような労働資源の有効配分が可能になる。にもかかわらず、今のような制度のもとでは実現できない。これが日本のいろいろな意味での閉塞感を生み出しているのではないかということが、指摘されるようになってきたかと思います。

 

労働市場の流動化をめぐる議論

 議論としましては、「日本の労働市場はもっと流動的になるべきだ」という「べき」論が先行しています。果たしてそれでよいのかどうか。現実の社会はどうか考えてみますと、必ずしも労働市場は流動化していません。「べき」論と現実との間に大きな乖離が発生していると言わざるを得ないのではないかと思います。
 なぜでしょうか。まず、制度が従来のままなので、流動化していないという意見が強くあると思います。最近、労働法がいろいろ改正されました。職業紹介につきましても、今までのようにハローワークを中心とした公的職業紹介だけではなく、有料職業紹介事業について、もっと自由にすべきだという意見が出ています。例えば、転職先の企業から料金を受け取ることができるにもかかわらず、転職する本人から料金を受け取ることができない。十分なサービスをする以上は、実際に働く人たちからも料金が取れるような改正を行うべきではないかという意見などです。
 あるいは、転職のコストを高めている要因のひとつとして、企業における退職金・年金制度があるのではないかということで、日本でも401(k)の導入など企業年金のポータブル化を図っていくべきだという意見が強まっています。来年に401(k)の導入が決定していますが、現状としては、まだそこまでいっていません。
 企業としましても、従業員の高齢化が進展していく中で、今までのように多額な退職金制度、後払い賃金と言われる年功賃金制度を維持すれば、どうしても総額人件費が高まらざるを得ない。むしろ退職金制度をやめて、月々の給与に上乗せするような支払い方を選択できる方向に変えていくべきだということで、実際に変えていく企業もあらわれています。
 このような制度変更が徐々に行われているわけですが、一方でほんとうに労働市場が流動化してよいのかという意見も聞こえてきます。
 退職金制度を壊す、あるいは、もっと解雇できるようなレイオフ制度をとるといった意見も出ていますが、これまでの制度を壊す以上、新しいものをつくらないといけません。ところが現状では、新しいものをつくる上で、いったいどの点に着目し、気をつけるべきかというところまで、なかなか議論が及んでいないかと思います。

なぜプロ野球に注目したのか

 それでは何か手本になるものはないか考えてみますと、ひとつ出てきますのが、きょうのサブテーマにあげているプロ野球です。プロ野球界においては、どのような制度の変更があり、実態として何が起こっているのか。
 日本とアメリカのプロ野球では、野球とベースボールというように違います。制度においてもいろいろな違いがあります。
 私が『プロ野球の経済学』(日本評論社刊)を書こうと思った発端は、非常に単純なことでした。大学のゼミ生たちとソフトボールをやっていて、その学生の1人が大リーグを見てきました。すると、大リーグと日本のプロ野球とでは、ピッチャーの投げるスピードも違えば、走塁など個々のプレーも大きく違う。それだけではなく、入場料があまりにも違うと言います。
 東京ドームでプロ野球を見ようとすれば、巨人戦ですと6,000円、米ドルにして60ドルも払わなくてはなりません。あまりにも高いわけです。一方、ニューヨークのシェイスタジアムでメッツの試合を見れば、高いところでも20ドル、ダフ屋にいくらか払っても30ドルで済むわけです。
 これだけ日米で料金に違いがありますと、当然、日本のプロ野球選手の年俸も高いと予想されます。ところが、必ずしもそうではない。アメリカの一流選手のほうが日本の一軍選手より明らかに高い年俸をもらっています。こうした矛盾はいったいどこから生じているのか。
 確かにシェイスタジアムに比べて、東京ドームの地価が高いという事実があります。しかし、それだけでは説明できないこともあるのです。
 例えば日本のプロ野球界は、球団収入が多い。しかし、球団の利益がそれだけ上がっているのかと言うと、上がっている球団は一部にすぎない。パ・リーグの球団では、赤字が出ている現状にある。そうしますと、いったいお金はどこに消えているのかということになるわけです。
 その場合に注目しなければいけないのが、プロ野球界とはいったい何だろうか、どこまでを意味するのかという問題です。一軍、メジャーリーグの下には、二軍、マイナーリーグがあります。マイナーリーグの中にも、一番上に3A、次に2A、そして1Aがあって、一番下にルーキーリーグがある。どこまで含めてプロ野球界の年俸を比較するのか。私もプロ野球が好きでして、ゼミの学生たちと一緒に、そういった点について少しずつかじっていくことにしたわけです。
 こういう話をするときに、まず明確にしておかねばならないのは、私がどこのファンであるかということです。私はほんとうに巨人が好きです。こよなく長嶋監督を愛しています。しかし、いろいろ調べていくうちに、日本のプロ野球界にも問題があるということを痛感しております。そこで、学者としてこの問題を扱うときにはフェアな立場、そして1ファンとしてプロ野球を見るときには巨人ファンと割り切るようにしました。

プロ野球界を一般社会にあてはめるには

 プロ野球界で起きていることを現実の社会に応用しよう、そこからインプリケーションを引き出そうと思ったとき、やはりプロ野球界と現実社会とでは大きな違いがあるということを最初に申し上げておかないといけません。
 個々の企業では、ポジションの数が決まっているわけではありません。優秀な人材が来れば来るほど、業績を伸ばすことができます。これに対してプロ野球界では、指名打者を入れても10のポジションしかありません。そういう数の上での限定があります。
 各球団からすばらしい1塁選手、4番バッターばかり集めても、残念ながらすべての選手を使うことはできません。それぞれのポジションでどの選手が優秀なのかを見きわめて使わないといけない。そういうところが、現実の社会と大きく違っている点のひとつです。
 2つ目は、個々の選手の業績を数字でとりやすいという点です。打率、あるいは塁打、ホームラン数などがバッターの業績になります。ピッチャーですと防御率、登板イニング数などで業績を把握しやすい。一方、現実の社会を考えたとき、多くの職種で査定の難しさというのがあって、業績を数字でとることが、必ずしもできるわけではありません。年俸制や業績給などを考える上で、基本的に違ってくるわけです。
 選手の成績を数字で表しやすいかどうかは、野球とサッカーでも違っています。このため数字で表しやすいプロ野球界は年俸交渉の際、監督が交渉の場にいる必要はありませんが、サッカーでは数字で成績を表せず、監督の指示通り動いたかどうかが重要になりますから、年俸交渉の場に監督がいなければならない。野球にしろ、フットボールにしろ、バスケットにしろ、アメリカの人気スポーツは数字で成績を表しやすいものが多い。これに比べヨーロッパのスポーツは必ずしもそうではない。ビジネス界においても仕事の内容によって数字で業績を表しやすいものとそうでないものとがあることは、認識しておかなければならない点だと思います。
 もっとも、プロ野球は業績を数字で表しやすいと言いましたが、問題がないわけではありません。プロ野球でもピッチャーが1試合完封した価値とバッターがホームランを2本、3本打った価値とではどちらが高いかと言うと、なかなか客観的に判断することができません。同じバッターにしても、3本のヒットと1本のホームランでは、どちらの評価が高いのかということになります。やはり、それぞれの業績について、ウエートをどう置くのかという問題になるかと思います。
 おとといNHKで放送していたことですが、戦前はかなりの数の4割バッターが生まれていました。しかし、最近のプロ野球界、メジャーリーグに4割バッターはほとんど出ていない。それは必ずしもバッターの能力が落ちたからではなく、昔は選手間の能力格差が非常に大きかったため、優秀なピッチャーが投げればなかなか打てなかったけれども、優秀ではないピッチャーが投げるときに、かなり打てたからではないかということでした。
 一方、ホームラン数を見ると、このところソーサやマグワイアなどによって、新記録が立て続けに出ています。はたしてこれを異変ということで片づけてよいのか。
 その背景には、球団の査定制度のウエートが、打率よりもホームランにだいぶ移ってきていることもあるのではないかと思います。お客を集めるためには、アベレージヒッターよりもホームランを打つ選手に高い年俸を与えて活用したほうがよい。選手の側も年俸を上げるため、3本のヒットよりは1本のホームランを模索するようになっているということではないかと思います。
 プロ野球界は数字をとりやすいと言っても、それぞれの選手が自分の年俸を発表しているわけではありません。選手は年俸交渉を終わった後、マスコミから「どれぐらいでしたか」という質問をされます。例えば「1億円より上か下か」と聞かれ、「上だ」と言うと、次は「1億1000万までいったのか」と聞かれる。こうしたやり取りで「推定年俸」がわかる形になっています。

球団収支の透明性

 もうひとつわからないことに、球団の収入があります。選手が球団にどれだけ貢献したのかは、あくまでもその選手が試合に出ることによって、どれだけ球団収入が増えたのかということで見ます。経済学の用語で限界収入と言いますが、その選手ひとりの力によって、どれだけ収入を増やせたのかということに注目するわけです。
 しかし、特に日本では球団収入についての数字をなかなか得られません。アメリカでも状況は同じなのですが、ひとつ違いますのは、まったく別の話のようですけれど、独占禁止法との関連からプロ野球の問題を議会で扱う場合がしばしばあるということです。
 アメリカではこのところ、新しい球団が幾つかできています。競争相手のチームが増えるということは、ほかの球団から見ますと、場合によっては収入の減少につながるわけです。ですから、他球団は新しい球団の創設になかなか同意せず、いろいろな条件を出す。そういうとき、議会でプロ野球界に独禁法を適用すべきかどうかという議論になります。
 日本でもドラフト制が独禁法違反ではないかという議論がありました。「江川問題」が起きたときのことです。ドラフト制では、球団がある選手と契約を結ぶことについて、独占権を持つことになります。そして、ほかの球団はこの選手と契約を結ぶ権利を放棄しなければならない。そのまま見ると独禁法が適用されるのではないかということで問題になったわけです。
 日本でこうした問題はあまり扱われませんが、アメリカではしばしば議会で議論されます。そこで球団は「収入は幾ら上がっているのか」といったことをマスコミの前で発表せざるを得ない。このため球団の収入、支出は幾らで、赤字なのか黒字なのかといったことを知ることができます。しかし、日本ではなかなかわからない。プロ野球界は数字がとりやすいと言いましても、こういう限界があるわけです。
 3番目としましてプロ野球界では、球団側が解雇権を持っています。球団から「自由契約選手」とされることによって、選手は初めてほかの球団と自由に契約することが認められます。あるいは、そのまま引退することもあります。一方、実業界では、解雇権乱用法理によって、社員を簡単に解雇できません。それだけプロ野球界は厳しい社会だと言えます。
 4番目は経営の問題かと思いますが、日本の場合、親企業があって、その下に球団がついている場合が多いわけです。電鉄会社や新聞社が球団を持っていて、個々の球団の独立性は必ずしも担保されていません。実業界にも親会社、子会社という関係はありますが、少なくともプロ野球界の球団経営に比べれば、独立して意思決定を行えると言えます。

プロ野球選手は労働者か

 さらに、プロ野球界で起きていることを実業界に応用しようと思うとき、プロ野球選手は労働者か自営業主かどうかが問われなければなりません。
 この点について、日本とアメリカで扱い方は大きく違っています。「江川問題」が起きたとき、プロ野球選手は果たして労働者なのか、それとも独立した自営業主であるのかということが国会で問題になりました。公正取引委員会は、自営業主ではなく労働者であるというスタンスから、独禁法を適用する必要はないという判断を下しました。
 ドラフト制は、選手が他球団と契約することを阻害する効力を持っています。選手が自営業主であるとすれば、自由取引が妨害されることにもなり、独禁法違反になるわけです。しかし、労働者である場合には必ずしもそうならず、球団側が支配力を持つことになります。
 その後、プロ野球にできた選手会を労働組合として認めるかどうかが議論になりました。このときも選手は労働者か自営業主かということが問題になり、判断としまして、選手会は労働組合であると認められました。
 年金についても、プロ野球界で運営する年金制度が一定の資格を持つ選手に適用されています。オールスターの試合で上げた収入を年金の財源にすることにもなっていて、選手は労働者の扱いを受けていると考えられます。ですから、おおかたのところプロ野球選手は労働者であるという位置づけになっていて、この点ではアメリカと同じです。
 問題は税金です。所得税をかける場合、労働者であれば勤労所得が発生します。自営業主の扱いですと、いろいろな費用をそこから落とせます。日本のプロ野球選手は自営業主の扱いにされていて、バットやグローブなどいろいろものをコストとして落とせるのです。
 こういう話は何もプロ野球界だけにとどまりません。労働者性とはいったい何だろうかという問題であります。
 多くの企業がリストラクチャリングを進める上で、アウトソーシングを行っています。今まで社内で行っていた仕事を個人の事業主に、例えば従属契約者(デペンデント・コントラクター)、独立契約者という形で委託します。こういう人たちを見ますと、労働者なのか自営業主なのかはっきりしません。ですから、税制上どういう扱いにしたらよいのか、コストを認めるかどうかといったところが、大きな問題になってきています。
 さらに、従来は企業がほとんど負担してくれていた情報のコスト、例えばパソコンや雑誌などを買う費用につきましても、個人負担がかなり多くなってきています。にもかかわらず、一定のコストが自動的に源泉徴収で引かれ、それを超えてコストがかかった場合、税制上の手当てが十分なされているかというとはっきりしない。
 自己の能力開発にかかったコストを認める制度はあるわけですが、実際に利用した人はほんのわずかです。労働者の場合、能力開発に伴う控除を受けるのは、制度上難しいという実態があるわけです。
 また、労働者である限り雇用保障をしないといけない。しかし、自営業主であれば、仕事がなくなれば発注をストップするという具合に、保障しなくても済む。労働者の保護を考えたとき、こういう問題も生まれてきているように思います。

日米プロ野球界の違い

(1)契約金

 日米のプロ野球界では、能力開発、自己選択、自己責任といった点で大きな違いがあるのではないかと思います。
 日本の場合、多額の契約金が入団前に支払われることがあります。1億円が上限になっていますが、現実にはそれ以上の契約金が支払われているのではないかと言われます。ドラフト制導入の背景を考えてみますと、各球団に戦力が均等に行き渡り、それぞれが弱点を補うような補強ができるという資源の有効活用からの視点とともに、契約金の高騰を阻止することが目標として掲げられました。しかし、いまだに契約金は高騰していると思います。
 アメリカのプロ野球界でも、トップクラスの選手にはかなり高い契約金が支払われています。しかし、おおかたの場合、契約金はないに等しい現実があります。
 契約金の役割を経済学的に考えてみますと、まだ実績のない選手の所得を保障するという側面があります。プロ野球界はリスクの高い社会だと言われていますが、日本はアメリカに比べると、かなりの所得保障が契約金によってなされていると言えるでしょう。

(2)年俸

 さらに、日米で一軍トップ選手の年俸を比較してみますと、明らかにアメリカのほうが高い。しかし、プロ野球界全体としてどちらが高いかと言えば、必ずしもはっきりしません。
 日本の一軍選手と二軍選手との年俸の格差は、1990年の段階で4.5倍ほどでした。二軍選手の最低年俸は450万円で、平均年俸は550万円。高校を出てプロ野球界に入った選手について見れば、一般の仕事につくよりは明らかに高い年俸をもらえるわけです。
 他方、アメリカで3Aの選手とメジャーリーグの選手との平均年俸を比較すると、90年の段階で24.5倍でした。3Aの選手の平均年俸を見ると、2万5000ドル、当時の円に換算して500万円ぐらいです。2Aになりますと8000ドルですから、160万円足らず。日本の高卒初任給より安い。1Aともなりますと4800ドルですから、100万円を割る金額で年俸契約がなされる。ルーキーリーグは2200ドルでして、これで生活できるかと思うほどの金額になっているわけです。
 2200ドルで生活をしろと言われても、できるものではありません。何かアルバイトをしなければいけない。そこで、ファストフードの店などでアルバイトしながら、プロ野球選手を勤めるというのが現状だろうと思います。
 つまり、アメリカでは、メジャーリーグになれば高い給与をもらえるわけですが、マイナーリーグのときには非常に安い年俸で、プロ野球選手としての能力を磨いていく。そのぶんだけ日本に比べてアメリカのほうが、プロ野球界のすそ野が広いと言えるのではないでしょうか。

(3)出場機会

 アメリカのメジャーリーグで、1打席でもバッターボックスに立ったり、1球でも投げたりする確率は、いったいどれぐらいあるかご存知でしょうか。メジャーリーグは現在30チームありますが、1年間に1500人から1700人ぐらいの選手がプロ野球界に入ってくると言われます。その中でメジャーリーグに出た経験を持つ選手は約10%に過ぎません。残りの90%はメジャーの試合をまったく経験することなく球界を去っています。
 一方、日本では最近人数が絞られてきまして、1球団に入る選手は年間8人ぐらいです。このうち40?50%ぐらいの選手は一軍の試合に出ています。残りの50?60%は一軍を経験せずに球界を去っているわけですが、アメリカに比べれば出場できないというリスクは低いと言えます。
 日本とアメリカのプロ野球界は、自己責任や自己選択ということについて、基本的に違っていると思います。アメリカでは容易に土俵に上がれるけれども、メジャーリーグの選手になる確率は低い。土俵に上がったからといって、何ら保障もない世界です。
 これに対して日本では契約金を払うし、最低年俸もかなり高い。しかし土俵に上がるのは非常に難しい。ただし、上がった後は一定の保障がある社会ということになろうかと思います。

資格制度と生活保障

 こうした日米の対比は、プロ野球の社会だけではなく、もっといろいろなことで言えるかと思います。ひとつは公認会計士や司法試験などいろいろな資格制度についてです。日本では合格者を何人出すか考えるとき、資格を取った人が生活していけるかどうかについて、必ず議論になります。ですから、資格ブームで司法試験や公認会計士試験の受験者が増えても、それに比例して合格者数が増えることにはならない。
 医者についても同じです。医師会が大学医学部の合格者数について議論するとき、医者の生活が保障できるのかどうかが考えられます。医者が多すぎるから、国立大学は医学部の合格者数をもっと絞るべきだというわけで、実際に削減したということも起きています。
 つまり、日本では資格を与えることが、生活を保障することと同義的な意味を持っています。それだけ職業カルテルの色彩が強いわけです。しかしアメリカでは必ずしもそうではない。ロースクールを卒業すれば、その州で司法活動を行う資格を多くの人がとれる。公認会計士試験でも、資格を取るのはそれほど難しくありません。
 しかし、資格を取ったからといって、何か保障が発生したのか、生活できるようになったのかというと、必ずしもそうではない。資格を取ったということは、あくまでも土俵に上がることが認められ、最低限の能力が保障されたというだけのことです。資格は最低限の能力保障にすぎない。そのぶん、資格を取ってからの競争が激しいわけです。
 企業でも類似したことが言えるのではないでしょうか。日本で大企業に就職するためには、難しい就職試験を突破しなければなりません。しかし、その企業に勤めることになれば、かなりの保障が発生します。雇用保障も所得保障も発生します。ところがアメリカでは、たとえ大企業に勤めたからといって、必ずしも保障はない。
 理工系のメーカー離れが叫ばれたとき、日本の科学技術庁が調査で東京大学、東京工業大学の工学部とアメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)の卒業生に対して、20年後、30年後に自分はどうなっていたいかをたずねました。
 アメリカでは「自分の企業を持ちたい」「企業の経営者になっていたい」という回答がかなりの数を占めました。これに対して、日本では「大企業の幹部役員になっていたい」というのもありました。結果を見たとき、アメリカは夢があっていい、日本はこぢんまりしているなと思いました。
 しかし、MITの先生方と話をしていると、「日本のほうがいいじゃないか」と言われます。なぜなのか考えてみますと、日本人であろうとアメリカ人であろうと、保障を嫌う人はいないわけです。
 アメリカでは大企業に入ってもレイオフされる。業績が悪ければいつでも解雇される。自分の雇用を守るのは自分以外にない。そういう社会の中では、究極的には会社を持つ、社長になることが、自分の行動に責任を持てる唯一の方法になるというわけです。
 日米のこうした違いが最近、ベンチャービジネスを起こす上で、開業率の違いという形で表れているのではないかと言われます。ただ、日本でも大企業に入ったからといって、いつまでも保障されるわけではないという現実が起こってきています。また、若い人たちの中で意識が、わずかながらですが変わってきています。大企業に勤めたいという声は今でも圧倒的に強いわけですが、ベンチャー企業を起こす勉強をしたいという学生も出てきています。日本の社会も少しずつ変わりつつあるのかなと思います。

二軍の独立採算性

 日本とアメリカではファーム制度、二軍制度に違いがあります。日本の場合、二軍チームはたとえ巨人であっても、独立採算できていません。一軍で利益を上げて、二軍を補てんしているわけです。
 アメリカの場合は必ずしもそうではなく、3A以下の球団についてもそれぞれに独立採算を求めています。例えば、選手がマイナーリーグで能力を発揮してメジャーリーグに移るとします。すると、メジャーはマイナーに、選手の移ったコストを補てんすることになっています。そのぶん「二軍は独立で採算をとれ」というシステムになっていて、「選手に高い年俸を払うわけにはいかない」となるわけです。
 日本でも横浜ベイスターズが二軍の独立採算を考えるということで、二軍を「湘南シーレックス」という別チームにしました。二軍の球団経営に経費が15億円ほどかかっていて、どう採算をとっていくかが問題になっているということです。
 また、プロ野球選手とプロサッカー選手、プロゴルファーは基本的にどこが違うか申しますと、サッカーやゴルフでは、自分がプロの選手だと宣言すれば、その時点でプロになります。例えばサッカーチームは、「自分はプロだ」と宣言したサッカー選手を雇って、年俸を支払います。ところが野球の場合、「自分はプロ野球の選手だ」と宣言しても、プロ選手にはなれません。球団から雇うと言われて初めて、プロ野球選手になるのです。
 結果として、サッカー界はプロとアマチュアの垣根が非常に低い。J1リーグで活躍した選手が、次にはアマチュアのチームでプレーすることも許されるわけです。そういうことは、野球界で認められていませんでした。

貢献度と賃金の関係

 

図表1 年功賃金と従業員の純貢献度


出所:樋口美雄編『プロ野球の経済学』日本評論社・1993年、図表2・3も同じ


 球団と選手のかかわり方についてはどうでしょう。プロ野球の二軍には、ほとんど収入がありません。二軍の選手が球団に貢献している部分はほとんどない。それでは二軍のコストを負担しているのは誰なのかを考えてみますと、一軍の優秀な選手が低い年俸で我慢することによって、二軍の不足分を補てんしているわけです。日本ではかなりはっきりしていて、一軍は二軍選手の能力開発にかかるコストを負担する。そして能力を高めて一軍に上がった選手が、球団に恩返しする形態になっています。
 こういうことをグラフに表してみたのが図表1です。この図では一般企業も想定していますが、勤続年数と会社、球団に対する純貢献度、そして賃金との関係を示しています。プロ野球界で考えれば、選手の能力が高まることによって、球団に対する純貢献度とその選手の年俸がどのような関係になっていくのかを示しています。
 若いときを見ますと、Aで示されているように、球団に対する貢献よりも年俸のほうが高い。二軍選手のときは、最低でも450万円の年俸をもらえるのに対して、貢献はほとんどないわけですから、年俸のほうが高くて「持ち出し」になるわけです。
企業でも入社してすぐのときは、おそらく右も左もわからない人が多い。日本では能力開発について学校制度が十分に機能していないため、入社してから人材を育成するスタイルがとられています。Aの部分は、球団や企業が能力開発への投資、人的投資を行っていることを示しています。
 そして、企業や球団は若いときにお金をかけた分だけ、能力が高まってからお返しをしてもらうというわけで、Bの部分で企業や球団に対する貢献が年俸を上回ることになります。企業や球団は、Bの部分で年俸を上回る貢献を選手から得られることによって、Aでかけた投資費用を回収できるようになっています。
 この点も日本とアメリカとで違っています。アメリカではAの部分もBの部分も小さいのではないでしょうか。アメリカでは貢献と賃金が近似していて、日本は大きく乖離していると思います。
 実業界でも同じようなことが言えるでしょう。初任給は相対的に高いのに対して、能力を高めたからといって、能力に応じた給与がすべての人に支払われるわけではありません。
 ただし、貢献と賃金がもう一度クロスした後、D以降の部分について、プロ野球界と実業界では異なります。実業界では、貢献を上回る年俸を支払うことになるからといって、解雇はできません。Cの部分で、その人の能力以上の給与を支払っているわけです。高齢者が増えれば増えるほど、企業にとってCの部分が重荷になってのしかかってきます。ところがプロ野球界では、Cが発生する以前に自由契約という形で解雇できます。あるいは一定期間はCの部分が発生しても球団は我慢していますが、選手の能力に衰えが見えるようになると、自由契約選手にするということができます。
 もし選手が自由にほかの球団と契約できるとすれば、ある球団がAの部分のコストをかけて選手の能力を開発したとたん、別の球団に移られてしまうこともあります。このような見返りが期待できない投資は、成り立たちませんので、「ほかのチームと契約してはいけない」という保留条項があることによって、AやBが成り立ってきたわけです。
 FA(フリーエージェント)制度が導入され、選手に移動の自由が認められれば、このような関係はどう変わっていくのでしょうか。もし完全に選手の自由契約が認められるようになるとすれば、選手と球団との共同投資、共同回収といったものを分離、独立させることになりますので、これまでのような関係は成り立たないことになります。
 ただ、FA制度でも選手の移動が完全に自由になるわけではなく、球団側が一定年数について保留条項を設けています。例えば日本ですと、導入当初は一定の試合数を一軍で経験した選手について、10年間はほかの球団に移ってはならないという制約をつけていました。これが今では9年間に短縮されています。そして移籍先の球団が、選手を育成した球団に見返りとして、その選手の年俸の一定額を支払い、投資コストの部分を補てんする方向になってきたところです。

給与決定の役割

 このような問題を考える上で重要なことは、年俸制をどう設計していくのかという点です。個々の企業でも年功制をやめた後、それではどのような年俸制、あるいは給与体系をつくっていくのかということが、問題になってきています。
 給与体系の設計は、何を重視して労働者との関係を保っていくのかという考え方によって、それぞれの企業で大きく違ってきます。給与体系の制度設計を間違ったため、企業の中がめちゃめちゃになることもあるわけです。それではどういうことに気をつけて、給与制度を設計すべきか。
 給与決定の役割として、まず会社への貢献に対する報酬ということが言えるかと思います。働く側から見れば、苦労して企業に貢献してきたわけですから、その報酬を支払ってもらいたいというのは当たり前のことです。
 2番目が生活給という考え方です。プロ野球選手のような高い年俸の人たちにとって、生活給という考え方は議論になりません。経済がそんなに発展していない段階で、人々が自分の生活を守るために働いているような時代であれば、生活給ということが重視されます。しかし、高所得の人、あるいは経済が発展して生活が熟してきた段階になると、生活給のウエートが下がってくることも予想されます。
 そこで何が問題になってくるかと言いますと、給与体系によって、その人の就労インセンティブ、あるいは能力開発のインセンティブはどうなっていくかということです。例えばホームランを打つことに対して高い報酬が払われるのであれば、選手はそういう方向の能力開発に力を入れるようになってきます。
 それは企業でも同じことです。ほかのプロジェクトがどうなろうと、自分のプロジェクトさえよければいいということにもなってきます。すると、自分のプロジェクトで上げた業績に対応して給与が払われるようにしたとたん、隣のプロジェクトの電話が鳴っても出る人がいないという問題も起こってきます。どのような形でインセンティブを高めていくのかというメッセージを、給与体系の中に折り込まないといけないわけです。
 従来、わが国で賃金の後払い方式、すなわち年功制がとられてきたのは、それだけ長く勤めるインセンティブを高め、労使一体となって共存共栄することが労働者にとっても得になる制度を作り、定着率を高めてきたわけです。これがあまりにもうまく行き過ぎたことが今、問題になっている。歴史をひもといてみますと、戦前にこんなことはなかった。日本人は忠誠心が強くて企業定着率が高かったというのではなく、日本の報酬制度が今のような状況を作り出してきたのです。
 これまでは年功賃金のもと、他の企業に転職することが損になるから、あえて優秀な労働者を引きつける特別な対策を講じる必要がなかった。いや、年功制がその役割を演じてくれた。しかし、その年功制を崩そうとする以上、優秀な人に残りたいと思わせる特別な施策が必要になります。
 企業業績が悪いからといって一律給与を引き下げたのでは、優秀な人が逃げてしまい、残ったのは他の企業でも通用しない人ばかりになってしまう。今までのように企業業績が低いから我慢しろという方法は通用しなくなる。個々の労働者の市場価値が給与決定の際に重要性を増してくる。プロ野球界と違って保留条項の認められていない実業界においては、ますますそのようなことが言える。そしてこのことは、マクロ的にはその人に高い価値を見いだしている企業に転職することを意味しますから、給与決定が労働資源の有効配分のシグナルにもなってくると言えます。

リスクの分担と就労インセンティブ

 それでは、労働者と企業の間で所得保障や能力開発のリスクをどのように分担すればよいのでしょうか。コンビニエンスストアなどではフランチャイズ制がとられています。そこでは、それぞれのコンビニエンスストアで上げた収益を、本部と出資者の間でどう配分するのかといったことが問題になります。直接本部で出資しているコンビニエンスストアもありますが、個人が出資しているところもありますので、その場合の配分比率をどうするのか。
 リスクを何とか抑えたい出資者に対して、売り上げとは関係なく一定額を支払うという契約もあります。しかし、これでは個々のフランチャイズ店が売り上げを伸ばしていくインセンティブが十分に働きません。インセンティブを高めるためには、本部に一定の会費を払う、残りの売り上げは個々の経営者がとるという形になります。そのぶんリスクも高いわけですが、経営へのインセンティブが高まっていきます。どれをとるかはケース・バイ・ケース、力関係によって決まることが多いと思います。
 タクシー運転手の給与でも同じようなことが言えます。タクシー運転手の特徴のひとつは、日々の業績を売り上げ額で把握できるということです。しかし、どれだけの時間、一生懸命働いたのかをモニターすることは難しい。タクシー会社が運転手の働き具合をモニターする機械を個々のタクシーにつけて、一生懸命働いているかどうか監視できれば別ですが、それではあまりにも高いコストがかかります。
 つまりインプットの評価は難しいけれども、アウトプットの評価は容易であるのがタクシー運転手の特徴であると言えます。給与の支払い方法も当然、インプットよりもアウトプット、日々の売り上げに左右されるわけです。
 日本の一般企業の場合、今まではインプット、どれだけ一生懸命働いているのかということに基づいて、基本給が決められてきたかと思います。個々の従業員が企業にどれだけの貢献や売り上げ、利益をもたらしているかという計算はできない。しかし、その人が働いているかどうかは、上司が観察しているのですぐわかるからです。一方、アウトプット、業績についてはボーナスで考慮されるように考えられてきました。
 業績給の導入を考える以上、個人の貢献が手に取るようにわかるシステムに変えていかなければなりません。給与体系を変えるだけではなく、仕事の進め方も見直す必要があります。チームプレーの場合でも、チームの業績だけではなく、構成員一人一人がどれだけの業績をもたらしたのかについて、把握できるようにしなければならないわけです。給与体系の変更はそれだけ働き方の変更を求めるわけでして、はたしてそれだけの覚悟ができていますかということになろうかと思います。

大手と中小で異なるタクシー運転手の賃金

 タクシー運転手の場合でも、大手と中小では給与の決め方が違うと言われます。大手は固定給のウエートが高く、中小は日々の売り上げによって決まる部分が大きい。企業規模に関係なく、タクシー会社は一般の職場に比べると固定給のウエートは低いのですが、それでも規模によって差があるわけです。それはなぜでしょうか。
 一般に固定給のウエートが低ければ、従業員の数が多くても企業の総人件費にそんなに影響を与えません。運転手の数が増えたとしても、一人あたりの売り上げが落ちてしまえば、落ちた売り上げ額に応じた給与が支払われることになるので、ドライバーを何人雇うかは大きな問題にならないわけです。結果として、不況になるとタクシー会社は運転手を増やします。
 個々の企業で過剰雇用の問題が出てくる背景には、能力や業績に応じて給与を変えられないという点があります。売り上げが半減しても給与を半分に減らすことはできず、過剰雇用の問題が発生し、新しい人を採ることが難しくなるわけです。
 タクシーの場合、固定費用が少ないぶんだけ、企業側から見れば、過剰雇用は問題になりません。逆にドライバーから見ると、競争相手が増えるぶんだけ問題になるということです。
 大手のタクシー会社で固定費用が比較的高いのはなぜでしょうか。大手はチケットを利用する法人の固定客を多く持っていて、流しで運転してお客を拾う比率は低い。ドライバーが自分の業績を上げるため、危険を覚悟でスピード違反の運転をしてお客を送ったとすれば、一見のお客だけだとそれでも済んでしまいますが、固定客だと次回からそのタクシー会社に予約がこないこともあります。このため、大手のタクシー会社はその時点その時点の業績よりも、もう少し長期的な業績に注目して、会社全体のことを考え、給与の支払いをしているわけです。
 皆さんの企業でも、どういうことを大切に考えるのかによって、給与体系の設計自身が変わってくると言えるでしょう。

公平な査定の重要性

 同時に重要なのは、どれだけ公平な査定がなされるのかということです。日本企業でも従業員間に競争がないわけではありません。日本は年功賃金で雇用保障があるという話をアメリカの学生にしますと、それではなぜサービス残業して働くほどインセンティブが高いのかと聞かれます。
 日本人は働くことが好きだから、まさにワークホリックだからという答えもあるかと思います。しかし私は信じません。自分の周りにいる学生たちを見ていると、ワークホリックだとは思えないのです。レジャーランドで毎日遊んでいる学生が、就職したとたんにサービス残業を行うようになるのはなぜか。
 それは文化的な問題ではなく、企業の働かせ方に何らかのインセンティブが隠されているからだと考えられます。ひとつが、出世に影響を及ぼすという点です。
 日本の大手企業ですと、入社して15?18年、課長職に就くぐらいから、出世に少しずつ差が出てきます。毎年の給与にそう大きな差はつかなくても、場合によっては課長や部長に早くなり、そして取締役になる。そういう内部昇進が、ひとつのインセンティブになっているわけです。
 昇進の機会が最初からなければ、一生懸命働こうなどという気持ちにならないのが実態だと思います。外部から人材を登用することも大切ですが、中で努力してきた人の貢献に対する見返りをどうするかも重要なわけです。もし、今の給与体系、年功賃金、雇用保障があるなかで、こうした見返りがなくなれば、働く意欲は失われてしまうのではないかと心配されます。
 昇進を通じた競争の中で、だれが査定をしていたのかを考えますと、複数の目を通じて行われてきたと言えます。上司と部下との関係は、それぞれ配置転換されるため2年に1度くらい変わります。結果として15年もたつと、その間に直属の上司7人くらいの目を通して、査定が行われることになるかと思います。
 業績給になると、その年その年の業績が、査定の結果として給与に跳ね返ります。今まで7人の目を通して、その平均値で査定結果を表してきたのが、その年その年の上司の査定した結果が、部下の給与や昇進、そして生涯所得に影響を及ぼすようになってきます。
 査定する側が7人もいれば複数の目を通じてかなり公平な査定が行われます。ところが、ひとりの上司の目を通じて査定するとなったとき、上司との相性が大きな問題になってきます。複数の人を通じた査定であれば、ごまをするわけにはいかないと思いますが、ひとりであれば、どれだけごまをするのか、お中元、お歳暮を贈るのかといったことまで問題になってきます。
 企業が業績給を導入する目的の多くは、あくまでも悪平等をなくし、人々の働く意欲を高めたいからです。にもかかわらず、給与が運、不運で決まるようになるとすればどうなるか。企業内部の活性化につながるとはとても思えません。
 査定は公平になされなければ、企業の損になってしまいます。ただし、それを行うには高いコストがかかることを覚悟しておかねばならないでしょう。多くの人が査定に苦情を持つようになれば、その処理をどうするかが問題になります。そして、査定する人たちの能力が問題になってきます。業績給の時代は、査定される側よりも、査定する側の能力が問われる時代だと言えましょう。それがあって初めて、査定制度が企業の活力につながっていくのだと思います。
 また、査定する段階で、あなたの点数はどういう理由で悪かったのか、あるいはよかったのかという情報を、本人に伝えていく必要があります。このことは能力開発においても重要な役割を演じます。理由が明確になることによって、悪かった点について来年がんばろうということになり、そういう方向で能力開発を考えることができるからです。

選手の査定と代理人制度

 プロ野球界では数字がとれるため、多くの場合は実業界よりも公平な査定がなされていると思います。しかし、活躍するチャンスが与えられなければ、どんなに能力を持っている選手でも結果を出せず、公平性を失する場合がしばしばあります。私の好きな某球団ですが、たくさんの優秀な1塁手、4番バッターが集まりました。それぞれ何をやったのか考えてみますと、公平な査定とはいいながら、実はいろいろなところで問題があるのだなということになります。
 もうひとつ問題なのは、査定交渉、年俸交渉するときのことです。プロ野球選手は、野球に関してはプロですが、年俸交渉になると子どもと同じだと思います。1塁にヘッドスライディングしてアウトになったプレーが後で査定されると思っても、選手はそこでポケットからノートを出して、「何月何日、1塁ヘッドスライディング」と書くわけにはいきません。ましてや法律や交渉の方法、他の人の査定についてはほとんど知りません。そこで、交渉の味方として第三者をつける代理人(エージェント)制度が出てくるわけです。
 実業界で考えても、いろいろなスペシャリスト、プロがいるかと思います。ある技術についてはプロですが、交渉事になると必ずしもプロではないという場合、交渉の相談役ということで、労働組合の力が必要になってきます。組合は今までのように平均給与の引き上げを要求するだけではなく、個々の従業員の相談に乗っていくような代理人の役割を演じ、きめ細かな、地に足のついた活動をしていかないとだめかと思います。それと同時に、企業も個別苦情処理のできる制度を設けていくことが、従業員ばかりではなく企業のためにも必要になってきます。
 集団的な雇用管理から個別の雇用管理へと移るのに伴って、「組合はいらない」という声が聞こえてきます。しかし、必ずしもそうではありません。組合の果たす役割が、企業環境の変化の中で徐々に変わりつつあるのだと思います。組合の役割が小さくなっているわけでは決してないというのが、私の考えです。

FA制導入の影響

(1)選手間の年俸格差の拡大

 プロ野球界で最近起きている大きな変化のひとつに、FA(フリーエージェント)制の導入があります。アメリカでは1976年に導入され、現在では1年間に100試合以上メジャーリーグの試合を経験した選手に対して、6年目から球団を自由に選ぶ権利を与えるようになりました。
 FA制は、さきほどの図表1で考えれば、Bで示された「見返り」の期間を減らすことになります。減らした結果として何が起きるのかと言いますと、今までなされてきた球団と選手の間の共同投資、共同回収がやりにくくなることを意味します。球団側の役割が薄れて、自分でコストを負担して能力開発を行う、あるいは能力を高めた人に対して、球団がそれだけ高い給与を払うシステムに変わっていきます。
 メジャーリーグと3Aとの年俸格差について、現在は24.5倍だと申しましたが、昔からこれほどの格差があったわけではありません。以前の格差は小さかったわけです。少し極端な数字ですが、1950年の段階で格差は3.37倍しかありませんでした。現在の日本の一軍と二軍の格差よりも小さかったわけです。
 選手の移動が認められると、球団は高い価値を見いだしている選手に対して、それだけ高い年俸を払わなければ、その選手に移籍されてしまいます。他球団でも能力が評価される選手に対して、貢献に見合った給与が払われるシステムになってくるわけです。そのかわり、二軍、マイナーリーグの選手に対しては、自分で生活を何とかしろという具合に、自己責任が追求されるようになります。

 

図表2 アメリカ大リーグにおける賃金の時系列推移(ドル)


資料出所)Major Leage Players Association(1991)
注1)実質賃金は1975年を基準年次としてCPIでデフレートしたものである。
注2)括弧内は対前年伸び率。


 その結果、どういう変化が起こってくるのでしょうか。図表2の「アメリカ大リーグにおける賃金の時系列推移」をご覧ください。1975年と76年の間に線が引いてありますが、ここでFA制が導入されました。
 大リーグ選手の最低年俸は91年の段階で10万ドルでした。物価の上昇を割り引いていない名目賃金(年俸)を見ますと、FA制の導入をきっかけにして、76年以降、大幅な年俸の引き上げがありました。80年代後半から少し落ちつきを見せましたが、90年代に入ってまた大幅な年俸の引き上げとなっています。FA制の導入は、大リーグ選手の平均年俸を全般的に引き上げるらしいということが言えるかと思います。

 

図表3 日本プロ野球における賃金の時系列推移(単位:万円)


(出所)報知新聞記事より作成
(注)実質賃金はFA導入年である1993年を基準年次としてCPIデフレートしたもの。
 樋口美雄研究会『プロ野球&Jリーグの経済学』1998年


 日本はどうなのか。図表3に「日本プロ野球界における賃金の時系列推移」があります。日本では93年からFA制が導入されましたが、やはり平均年俸が大きく伸びています。
FA制導入後、何が起こっているかを見ますと、一軍選手、とくにFA権を取得した選手、あるいは取得しそうな選手の年俸が、実際に移籍したかどうかは別にして上昇しています。
その一方、二軍選手の年俸は据え置かれている。その結果、一軍選手と二軍選手の年俸格差が拡大しています。
 アメリカでも類似したようなことがあり、FA制の導入によって相当大きな年俸格差が生まれてきています。例えば、今年の最高年俸額を受け取ったのは、ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーター選手で、1ドル=100円で換算すると、約17億8800万円です。そして、7年契約を結びましたので、7年間で総額約100億円の年俸契約になるわけです。日本に比べてはるかに高い年俸になっているかと思います。
 開幕投手に決まったデトロイト・タイガースの野茂英雄選手の年俸は4億7000万円(1年契約)で、日本のピッチャーの年俸に比べれば、やはりはるかに高い。しかし、大リーグにこの程度の年俸のピッチャーはたくさん存在します。

(2)即戦力の重視

 年俸格差の拡大によって、球団が即戦力を期待する傾向が、生まれてきているかと思います。二軍で育成すべき選手の数はなるべく抑制して、即戦力となる選手を採る球団が増えているのです。そして、ドラフトで指名する選手の数も減らしきています。現に日本でも二軍選手、三軍選手の数は減らされつつあります。
 アメリカでは、即戦力を重視することが、選手の人種構成に大きな影響を及ぼしつつあると言われるようになってきました。大学に進学する選手は、白人のほうが多い。そして、大学で練習を積んで、即戦力としてプロ野球界に入っていく。一方、黒人選手の場合、高校を卒業してプロ野球界に入ることが白人に比べると多い。即戦力を採った結果として、大卒の白人選手が増えているという報告があります。

自己責任、自己選択の社会

 

(1)能力開発の責任は企業から個人へ

 個人の選択肢が拡大する、転職コストが下がるということは、どんな意味を持つのでしょうか。これは流れとして、自己責任、自己選択の社会に近づいているということかと思います。結果、自己啓発による能力開発が求められます。今までのように企業がイニシアチブをとり、すべてのコストを負担し、能力開発を行っていく時代から、個人の投資、費用負担が高まっていく社会になる。これに対して、社会として制度をどのように変えていくのか考えなければいけないと思います。
 ひとつは税制についてです。本人がコストをかけようとかけまいと、控除額に変化がない社会でよいのか。また、経済的余力のない人が自己啓発を行うことに対して、社会的にどうバックアップしていけばよいのか。例えば、職業能力開発についての奨学金制度をつくることも考えられるのではないかと思います。
 それと、今までは企業の中で能力開発を行ってきたわけですが、時間的な制約が強く、残業させた上での自己啓発は期待できない。本人が自己啓発したいのであれば、企業は時間的なフレキシビリティーをその人に与えることも求められるのではないでしょうか。そのような社会と企業のバックアップがあって初めて、個人の能力開発が実現できる社会になっていくと思います。
 プロ野球界における最近の選手の扱いを見ていますと、各企業経営者の方にも非常に参考になることが起こってきていると思います。たとえば巨人。FA制度を利用して、徹底的に優秀な人材を外部から補強する。その一方で広島は若い選手の育成に力を注ぐ。実業界で考えれば、単に高い給与を払うだけではなく、自分の能力を高めたいと考える人材を引き付けて、その人たちに能力開発の場を提供することも、優秀な若い人材を集める上で重要な戦略になる。その一方、野村阪神を見ると、選手の再生工場と言われるように、他球団で自由契約になった選手に活躍の場を提供することによって、チームを活性化させようとしている。労働市場が流動化する中で、個々の経営者がどの戦略をとるのか、自分の置かれた環境を十分認識して、決めていかなければならない状況になってくるでしょう。

(2)資格の死角

 公認会計士や労務士など資格に対する人気が高まっています。確かに、自営業など資格がなければ始めることができない職業も多いわけです。こういう職業独占的な資格については別ですが、英語検定で準1級を取ったとか、TOEFLで何点取ったということが、再就職に結びついていかというと、必ずしもそうではない。不動産鑑定士の資格を持ち、自営として独立する場合などは別ですが、これで再就職しようと考えたとき、ほんとうに資格が役立っているかというと、必ずしもそうとも言えない。
 私は「資格の死角」が発生しているのだろうと思っています。資格を持つことによって安心したいと思う人たちが多いわけですが、現実としてどのような人たちが簡単に転職できているのか考えますと、前の企業でしっかりとした仕事を行ってきた人たちだと言えるでしょう。
 面接のとき、どんな資格を持っているかという質問に答えるよりも、前の企業で自分はこういうプロジェクトをこなしてきた、こういう役割を演じていたとはっきり言えることのほうが、就職にはそれなりに有利なようです。時流に流されることなく、日々の仕事を大切にして、「自分はこういう能力を持っています」と言える状況を作っていかなければならないと思います。
 日本の場合、再就職しようと思ったとき、スペシャリストではなくてジェネラリストだということで、「私はこういうことができます」とはなかなか言えない現状があります。ところが、あなたはこういう職業経験を経てきたから、こういう仕事ができるでしょうと質問しますと、「それはできます」という場合が多いわけです。
 入社してからの職歴を見ても、企業がアトランダムにいろいろな仕事を任せているわけではありません。むしろ大企業では、特定のフィールドで育った人の方が多い。経歴として必ずしもスペシャリストの道から外れているわけではない。にもかかわらず、「私はこういう仕事ができます」とはなかなか言えない。
 なぜなのか考えてみますと、自分が意図して、意識的に仕事を選んできたわけではない、能力開発してきたわけではないという点にどうもその理由がありそうです。企業に「次はこういう仕事、このプロジェクトに行きなさい」と言われ、配置転換の一環としていろいろな仕事を与えられてきた。そのため、いつも受け身になっていて、結果として自分が能力開発で何を選択し、何に重点を置いてきたのかが言えない。積極性が出てこないという問題があると思います。

(3)自己責任のとれる体制づくり

 転職に限らず、企業で年俸交渉を行っていく以上、自己の選択ということを高めざるを得ないでしょう。例えば、自分はこういう特技を持っていて、こういう特性から、この仕事だったら十分こなせると思っている。にもかかわらず、会社の都合によって、この仕事ではなく隣の仕事をやりなさいと言われ、そこで自己責任を追求されたらどうなるか。苦手と思っていた仕事をさせられ、結果として業績がダウンし、給与を下げられたということでは、その人にとって不幸であり、あきらめしか出てこないわけです。
 そこで、個人の声をどう大切にしていくか、自己選択できる状況をどうつくり出していくかということが、重要になってきます。そして、自分で選択したにもかかわらず、そこで十分な業績を上げられなければ、給与がダウンする、自己責任をとってもらうということにならざるを得ないと思います。こういった方向のひとつに内部公募制があり、あるいは職種別の新卒採用を行うということがあって、これらの実施が人々の意識に大きな影響を及ぼしていくと思います。そしてひいては、雇用保障をできなくなったときの再就職にもプラスになります。

システム間競争の時代へ

 もしそれぞれの国が、まったく独立して無関係に成立しているのだったら、日本は日本のやり方がある、アメリカはアメリカのやり方があるのだということが言えます。しかし、残念ながら世界は小さくなってきています。グローバリゼーションが進展している中、それぞれの国の制度で、いったいどれが効率的なのかということが、問われる時代になっています。
 プロ野球界も同じです。日本のプロ野球選手が、投手を中心にして、アメリカにどんどん流れています。日本では投手の評価が低く、打者の年俸が高いという特徴があります。結果として、投手が不平不満を持って、アメリカに流れる。これも人の移動に伴う国際化と言えます。
 あるいは、「何であの選手が日本で4番を打っているのか」というアメリカから来た選手がいっぱいいます。ここでもまた、選手の能力開発について、日本とアメリカでどちらのほうがよいのかというところが、問われている。
 今までは選手の移動だけだったわけですが、ニューヨーク・メッツとシカゴ・カブスが日本で開幕戦を行う時代になりました。日本のお客が日米どちらの野球に魅力を感じるのかということも、重要な問題になってきています。国際化が明らかに今までのやり方、システムに変更を求めているのです。
 いま雇用慣行の見直しを議論しているのは、日本だけではありません。アメリカはアメリカの中で、ヨーロッパはヨーロッパの中で雇用慣行の見直しが議論になっています。
 共通することは何かと言いますと、どのような雇用慣行を採れば競争力の強化、人材の効率的な活用、能力開発につながっていくのかということです。システムがそれぞれ別個にある時代ではなく、システム間の競争が始まっていると言うことができると思います。
 どのような雇用慣行をとることが能力開発に適しているかは、恐らく職種によって異なっているのではないでしょうか。それだけ国による違いが小さくなって、業種や仕事の内容による違いが拡大している。もはや典型的な日本型人材育成も、アメリカ型の人材育成もなくなり、それぞれの企業に適した人材育成が求められる時代になりつつあるのかもしれません。

質疑応答

【質 問】 昨今の就職内定率の低さという現象は、果たして単なる国内の不況という一過性の要因によるものなのか、もっと本質的なところで何か構造変化があるからなのかという点について、どのようにご覧になっているのでしょうか。

【回 答】 景気が悪いという問題が、基本的にはあると思います。これによって、企業が従業員を減らしたいと思っている。その一方で、中に入っている人たちの雇用を守らなくてはならず、これから中に入っていこうという人たちにとって、不利に働いているという事実があると思います。
 しかし、雇用保障は非常に重要だと思います。中にいる人たちと外にいる人たちの職に就けなかった場合のコストを比べて、どちらが大きいか考えますと、外にいる若い人たちのコストのほうが少なくて済むわけです。
 また、外から人をどんどん採ってきて、内部の人材が昇進できなくなれば、内部の意欲が失われてしまいます。そして技能開発していくインセンティブがなくなってしまう。法的にどうかというよりも、企業の立場、経済性から考えて、雇用保障は最重要課題であると思います。
 そのうえで、一過性の問題かどうかという点ですが、景気の動向とともに、長期的には少子・高齢化が進展して、労働力人口が減少していきます。1992年が18歳人口のピークでした。このとき18歳は200万人強いたわけですが、今年は150万人まで落ちています。50万人も減りながら、なおかつ就職難になっているわけです。しかし、こうした人口の減少以上に、企業が採用を半減させていることが、内定率を引き下げていると思います。
 私は「日本にとっては神風が吹いた」と申し上げたことがあります。もし今のような採用の削減が10年前に起こっていたら、内定率は今の半分ぐらいになっていたと思うわけです。採用の減少が8年ほど遅れたのは、日本にとってはまだ幸いでした。就職難は、少子化によって緩和されているという印象を持っています。
 企業の採用もだいぶ変わってきています。ひとつは、即戦力を求める動きが強まってきているということです。また、新卒であろうと、中途採用であろうと、同じレベルで競争させたいという意識が強まってきています。果たして新卒者がこの競争に耐えられるかどうか。
 昔ならば若いだけでよかったわけです。しかし今では、若いというだけでは採用してもらえない。即戦力になる技能ということではなく、別の基礎学力、あるいは社会に対する適応力などについて、自分は中途採用の人たちよりメリットを持っていると言えなければ、なかなか採用に結びつかないということがあると思います。
 もうひとつ大きな構造的問題として、日本経済が豊かになったということがあります。昔であれば就職が決まらないということで大騒ぎしたと思いますが、今はある意味では就職をせずに求職活動を続けるだけの経済的余力ができてきています。自分の気に入らない仕事だったらノーと言える状況になっていて、それだけ選択肢が広がってきているのかと思います。パラサイト世代などと言われるのもこうした現象でしょう。そして、その選択肢が必ずしも正社員という道ではなく、フリーター、アルバイトという形で広がりつつあります。
 選択肢の広がりは、保証書付きというわけではなく、自己責任になるという問題があります。その場合、いつでも乗りかえ自由な社会になっているかというと、必ずしもそうではない。例えばフリーターという形で、労働市場の二重構造的な言い方で「第二階層」のほうに行ってしまうと、なかなか常用労働者、正社員として就職することができない現状にあります。
 このような問題について、アメリカやイギリス、ドイツ、フランスでも同じような経験をしています。かつて、若い人たちの就職難は、経済が豊かになってノーと言える選択肢が備えられたために起きている現象であり、そう危惧することはないと言われていました。しかし、この人たちが、残念ながら30歳、40歳になっても、失業と就業を繰り返す傾向が見られています。そうなってきますと、若いから大丈夫だとは言っていられません。
 今の若年失業の問題が、後々、ボディーブローとしてじわじわと日本経済に影響を及ぼしてくる可能性は十分にあると思います。これにどう対応していくのかということが、今の課題ではないかと思います。

【質 問】 就職難にもかかわらず、就職した人の3人に1人が3年以内に離職していると言われます。このような事態について、どのように考えているのでしょうか。

【回 答】 かなり大きな問題だと思います。その根本的な理由は何か。就職難で苦労してやっと就職できたにもかかわらず、3年以内にやめる人が多い。大卒が3割、高卒では4割と言われています。それだけ多くの人がやめていく現状にあります。
 なぜやめたのか理由を聞きますと「何となく」だと言います。入ってみたら、何となくおもしろくなかった。だから、やめると。
 どうしてこうなるのか考えてみますと、何のために就職したのかという問題意識、職業意識が非常に薄いという問題があると思います。ブランド企業だから就職したという人も多いわけです。人気があるから応募した、そこに就職して何をするか考えずに、とにかく名前が売れているから就職した。すると、就職したら目的が達成されてしまわけです。これは大学でも同じだと思います。有名大学に入ったとたんに目的が達成され、そこで何を勉強するか問われない。
 今後の対策として考えるべきは、企業と大学、あるいは高校との間で、情報をどう密にしていくかということだと思います。教師側だけの情報ではなく、それを学生たちにどう広げていくのか。そして学生たちに、「働くということはどういうことなのか」、「何のために自分は社会に参加するのか」と考えるチャンスを与えていくことが、大人の役目ではないかと思っています。
 昨年、岩波書店から『大学に行くということ、働くということ』という高校生向けの本を出しました。その中で私が問いたかったのは、何のために大学に行くのか、何のために企業に就職するのか、何のために働くのかもう一度考えるということです。こうした問いは大学でも用意されてきませんでしたし、そういう授業もありませんでした。ただ知識を教えるだけで、ものごとを落ち着いて考えるチャンスがやはり減っているのではないかと思います。
 最近、分数がわからない大学生ですとか、TOEFLの点数がアジアの中で最低であるということなどが言われています。学力、知識が衰えても、考える力が伸びていればそれでよいと思うのですが、残念ながら両方とも衰えてきているのではないでしょうか。
 まず少子・高齢化によって、若い人たちの人数が減るという問題があります。しかし、それ以上に懸念すべきは、やはり質の低下だと思います。若い人たちが減ってきますと、希少価値が出てきて、その人たちを怒れない、しかれない。しかも、大学への合格率はどんどん上がっていく。いまや定員割れするような大学もあります。
 私の時代であろうと、今の学生と同じように、社会の中で自分の働き方について考える能力は、そんなに変わっていないと思います。職業意識が高かったなどとも言えません。しかし時代は変わった。変わったのは何かというと、周りの環境です。選択肢がそれだけ用意されてきたということです。働かない選択肢、企業を辞める選択肢。しかし、それらの選択肢に保証書はついていません。選択肢が増える中で、まさに自己責任が問われるようになってきました。
 そこで重要になってくるのは、「なぜそれをするのか」という内発的なモチベーションだと思います。内発的モチベーションがなく、強制力もないまま、社会が移行していくようなことになれば、問題が起きてくるのは当然のことだと思います。
 強制していたものを外していく。一方で内発的なモチベーションをどう高めていくのか。これは大学の問題でもあり、個々の企業の問題でもあり、さらには社会全体の問題であり、これらが協力しあってはじめて解決することのできる問題だと思います。インターンシップの機会などを用意して、自分の仕事について考えるチャンスを学生のうちから増やしていく。これも緊急にやらなければならない大人の責任だと思います。