第10回 旧JIL講演会
会社人間はどこへいく
~日本的経営の変化と揺らぐ従業員の帰属意識~
(2000年1月21日)

京都大学大学院経済学研究科教授
田尾 雅夫

目次

講師略歴

田尾 雅夫(たお・まさお)
 
1946年 香川県生まれ
1970年 京都大学文学部卒業
1975年 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
現   在 京都大学大学院経済学研究科教授 博士(経済学)
 
 
 
専   攻 経営管理論 組織心理学
 
 
 
主な著書 『行政サービスの組織と管理』(木鐸社、1990年)
『組織の心理学』(有斐閣、1991年)
『ヒューマン・サービスの組織』(法律文化社、1995年)
『脱・会社人間』(福村出版、1996年)
『企業小説に学ぶ組織論入門』(有斐閣、1996年)
『「会社人間」の研究』(編著、京都大学学術出版会、1997年)
『組織論』(共著、有斐閣、1998年)
『会社人間はどこへいく』(中央公論社、1998年)
『ボランタリー組織の経営管理』(有斐閣、1999年)

はじめに

 私は心理学の人間ですが、経済学部経営学科におりまして、組織の経営、理論を研究しています。最初に私の基本的スタンスを明確にしておきましょう。

 現在、会社に所属することがよろしくないかのような言い方が、世間で多分になされています。それをまちがいとは申しませんが、こういう時流に乗ってよいのかどうか非常に疑問を感じています。心理学の立場から申しますと、組織と人間との関係は切っても切れない。人間というものは、何かに所属していないとどうも不安なところがあります。

 今、社会はベンチャーやアントレプレナーといった形で非常に強い人間を求めています。自分で判断して何でもできるという、弱い人間から見ますと神様のような人間を世間は作りたがっている。確かにそれは必要だと思いますが、そういう人たちばかりで社会がもつものでしょうか。

 また、本心から帰属する人たちがいて、初めて組織は活性化するものです。そういうことを抜きにして、人を切ればよい、人員整理をすればよいというリストラの考え方でよいのか。私はそういうことを中公新書『会社人間はどこへいく』の中で言いたかったわけです。

 帰属している会社人間たちを活かせない組織は崩壊します。会社人間たちをいかにして活かすのかを経営者、管理者がきちんと理解していないと、組織はだめになります。確かに人件費は高いですし、いろいろな意味で人が余っています。余っている人たちに多くのコストをかけるのは、企業にとって大きな負担になります。それはそれとして、人を活かしながら経営を行うべきではないのか。

 経営学の方々は、人よりも制度を活かすという見方をします。しかし、組織、企業は人の世界です。だからこそ、人をいかに活かすかということが大事なのではないでしょうか。人を活かせるか、活かせないかは、組織経営にとって非常に大きな問題です。そこを全く無視して、余計な人を切ればよいとなると、組織にはたぶん、いわゆる忠誠心のない人たちだけが残ることもあるのではないか。忠誠心とは古い言葉ですが非常に大事であり、忠誠心があってこそ組織なのです。

 私は人によって組織が成り立つという視点に立っています。組織を人と見ればヒューマン・オーガニゼーション、仕事と見ればワーク・オーガニゼーションとなります。二つは車の両輪であり、いかにバランスをとるかということが、経営者や管理者の行うべき仕事ではないかと思います。

 最近、流行しているナレッジ・マネジメントも、人がいかに情報を共有するかという仕掛けです。ナレッジも人に乗せないと、全然意味を持ちません。人を活かすことが組織、あるいは経営の大きな仕事であり、義務であります。人を活かせない組織はやがてつぶれていく。

なぜ、今、会社人間か

 会社人間という言葉は、そう古いものではありません。古くて新しい言葉です。現在、会社人間という言葉の意味について、多少の誤解がなくはないと思います。そこで、会社人間について再び考えてみようというのが、きょうのテーマです。

 私の友人に向かって、あなたは会社人間だと言いますと、「自分はそうじゃない」とはっきり答えます。会社人間だと答える人も何人かいましたが、ほとんどの人は会社人間であることを非常に嫌がります。しかし、そういう友人たちを見ていますと、会社人間でないはずがない。

 私は昭和21年生まれでして、昭和22?23年あたりの友人がたくさんいます。昭和22?24年はベビーブームで、今になりますと人余りの世代です。そういう連中は会社人間として過ごしてきた人間であり、ずいぶん苦労しています。会社人間的に鍛えられ、企業に貢献してきた人たちです。

 このような会社人間たちが今、カリカチュアライズされています。これはよろしくないということで、本を書いたわけです。会社人間という言葉をジャーナリスティックにではなく、もう一度アカデミックに考え直す。アカデミックに認識し、会社、組織という枠組みの中でとらえて、活かしていくということです。

企業経営と合理性

 20世紀は戦争の世紀、あるいは技術革新の世紀などと言われましたが、組織の時代、経営の時代とも言えると思います。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、大企業経営が始まりました。テイラーが科学的経営管理法という技法を発明し、あるいは、フォードがT型フォードをつくり出したわけです。そして、20世紀を通じて大企業、またそれを経営するための技法、手法、理論が花を咲かせました。

 企業経営や組織に対する管理という考え方の根幹を成しているのは、合理性であります。合理性を得ることが組織の経営です。合理性を追求せず、非合理な組織経営をしていると、会社はつぶれると言われてきました。

 合理性とは少ないコストでたくさんのベネフィット、成果を得るということです。言いかえると、目標達成に至るために、最短の道を見つける。そういうことに成功した組織が生き延びてきました。20世紀はその繰り返しです。

 成功は次の失敗を呼びます。簡単にいくわけはありません。目標達成に至る最短の道を見つけたにしても、状況が変われば道はいくらでも変わります。失敗はいくらでもあります。成功し過ぎると溺れてしまい、次の目標を見失ってしまう。最短の道が、最長の道になったりもします。それが企業経営です。その繰り返しの中で、合理性という言葉が定着してきました。

 現在、グローバル化や高度情報化などにより、今までの経営手法が通用するかどうかが問われています。日本の場合、情報に対する投資が非常に遅れています。状況の変化に議論が追いついていない。この点も会社人間をいかに活かすかということに関係していると思います。

高齢社会と会社人間の活用

 グローバル化、情報化の中で新しい合理性を追求するため、経営手法が変容しかけています。さまざまの手法、技法を工夫する中で、一番邪魔になる存在が団塊の世代だと言われています。団塊の世代は企業のスラック(余剰資源)をつくる邪魔をしている、あるいは彼らが新しい経営技法になじもうとせず、工夫もしないと。

 企業経営について悲観論が横行しています。我々の世代が65歳を超える今から15年くらい後、日本は超高齢社会になります。これから、会社人間たちをどのように処遇していくのかということと、超高齢社会をいかに乗り切るかということとは、たぶんどこかでつながっています。

 高齢化、少子化という二つの現象が同時並行していき、社会に活力低下を招くという不安がなくはありません。そういう今後の社会の怖さと、会社人間として尽くしてきた人たちの活用とをどうリンクするのか。それは政策的にも大事なことです。

 二つを断絶して、全く違うものとして議論すると、一方では団塊の世代が切り捨てられるわけですし、彼らが65歳を超えたとき、社会に非常に大きなコストをかけていくことになります。新しく合理性を追求するためのテクニック、理念の創出が必要です。会社人間をどう活かして、彼らの持っているノウハウをいかに伝えていくのか。私もまだ解決策をわかっていません。

日本的経営の変容

 日本的経営は今、大変容の時期にあります。終身雇用制が崩壊しかけ、年功序列、年功賃金制が意味を持たなくなってきつつあり、日本の経営を支えてきた基本システムが壊れかけているようです。しかし、日本的経営がグローバリゼーションに飲み込まれるような形で変化していくことが、本当によいことなのかどうか。

 終身雇用制は決して日本だけの制度ではありません。アメリカでも地域社会の中は結構、終身雇用的です。大企業は年功序列でなく実力主義であり、終身雇用的ではないかもしれません。しかし、地域を支える小さい企業は非常に終身雇用的、年功序列的なのです。

 ですから、終身雇用的、年功序列的でないようにすることがグローバリゼーションだというのは、大きな誤解だと思います。世間の風潮は極端なところを強調し過ぎる。あるいは、そういった議論に乗る人が多過ぎる気がいたします。

 学者にもファッションがあります。ファッションに乗ってしまうと、仕事がしやすい。世間の注目を浴びることも多い。しかし、学者は多少なりとも世間に背を向けたほうがよいところもあります。少し距離を置いて冷静に今の現象を見ますと、会社人間に対する考え方ですとか、グローバリゼーションの中で日本的経営を変えていかねばならないという議論に、すぐについてはいけません。

 日本的経営をある程度残すべきだというのが、世間の本当の見方ではないでしょうか。日本的経営は、戦前からの流れもありますが、1960年代に完成した歴史的産物です。1973年前後に完成し、その後やや変容し、今は危機に瀕していると言われます。

 そういった歴史的な経緯があるわけでして、決して普遍的なものではありません。しかし、日本的経営を支えてきた帰属意識、あるいは忠誠心は普遍的にある現象です。これを捨てるような言い方はよくありません。

 忠誠心、あるいは企業に対する貢献を醸成したものが、終身雇用であり、年功賃金という日本的経営でした。また、日本的経営があることで、人は企業への忠誠心を高めていきました。そういう意味で、日本的経営のよさは絶対にあったはずです。

 企業に忠誠心を持たない人がたくさんいると、その組織は絶対にもちません。忠誠心を持つ人がたくさんいて、組織はもつものなのです。そういう点を大事にしないと、人間は働こうという意欲を持たず、企業は業績を上げることができません。

人は資源

 バブルがはじけてこの約10年間の状況を見ますと、日本的経営が変容し、さまざまな経営手法が工夫されてきました。それらはある程度グローバルな基準に合致して、企業経営の合理性追求に役立つ手法であり、取り入れるべきものだとは思いますが、無機質な感じがしないでもありません。

 マネジメント手法に関する本がいくつも出ていますが、どうも無機質な感じがします。人間というわけのわからない存在が、どう位置づけられているのかわからない。人間を単なる機械の一要素、部品、歯車の一つであるように位置づけているところが、なくはないのです。私はそれを決してよいとは思いません。

 情報にしても、人に乗せて初めて活きるわけです。機械から機械に情報が流れるわけではありません。機械と機械の間には必ず人間が介在して、その情報を読み取って認知、評価し、伝えていきます。介在する人間は、組織に忠誠心を持っていないと、いいかげんに処理するものです。

 人的資源論は単なる人事管理、労務管理ではなく、人を人とみなします。人は資源だと考えます。人はものを考え、認識し、その枠組みをとらえ、何であるかを判断して、その結果を自分の行動に表わし、評価します。そういったものの集合体が、組織の成果になります。

ですから、人は部品でもなければ歯車でもありません。人間なのです。人間というのは本来、そういうわけのわからないものです。わけのわからない人間を、いかにわけのわかるようにしていくのか。

長期的な視点で人材の育成を

 人を扱うのは非常に難しいわけですけれども、あいまいさを減らして、人を活用していくのが組織です。このためには、非常に長期的な視点が必要になります。

 リストラやアウトソーシング、中途採用などの議論では、そういう視点が少し抜けているような気がします。人材は育成すべきものです。人材は磨かれるべきものであり、磨かなければ単なる石ころです。磨いて初めて玉になります。企業は今、人材を玉にする努力をしているのかどうか。ほかに任せてしまい、自ら行おうとしていないのではないでしょうか。

 本来、人はつまらない石ころです。鍛えて、磨いて玉にしていく努力をしないと、絶対に使いものになりません。人は1日、2日で鍛えられるものではありません。10年かけて初めてものになるという、非常に長期的ななかで考えなければならない素材なのです。

 学者にしてもそうです。若いころ冴えたことを言っても、大体ものになりません。地道な努力をして、10年、20年かけて学者らしくなります。若いころ論文をたくさん書き、30歳代後半から40歳にかけてようやくよい仕事ができるようになります。ましてや、会社のような厳しい社会の中ではどうでしょうか。

 才能が今はない、しかし、磨けば使えるようになるかもしれない人をほうっておくのは、会社にとって大きな損失です。ですから、じっくり時間をかけて育成していく。これが会社人間をつくる過程です。そういった意味で、会社人間というのは、「つくられる人」です。

 人材は長期にわたってつくり上げるものです。石ころに磨きをかけて光らせる。もしかして石ころが、ルビーや翡翠、水晶になる可能性もある。そういうことが社内教育、あるいはこの社会をあげて行う教育ではないでしょうか。

 ほかの会社で見事に仕上げた人を引き抜き、即戦力として使うとします。その即戦力はいったいどこでつくられたものなのか。大学ではとてもつくれません。しかし、会社の中では、つくっています。けれども、即戦力という議論が出てきますと、会社でそういう訓練を行わなくなる可能性があります。即戦力というよりも、その会社で鍛えていくことが大事なのです。結局、どこかで石を磨いて、玉にしないといけない。そのコストをどこかが払わねばなりません。

 大学でも今、そのコストを払えというわけで、アメリカのようにビジネススクールや大学院教育で、即戦力になる人を育てるという話があります。しかし、もっと社会全体で人材育成のコストを払っていかないといけません。この社会をあげての社会化、ソーシャリゼーションです。そして、その一部を企業も負うべきです。帰属意識を持って組織に貢献する会社人間を否定して、すぐに即戦力をということでは、人材育成のコストを払うことについての責任、義務を放棄していることにはならないでしょうか。

 社会全体で人材育成のコストを払うという形で、会社に対して非常に貢献する人を長期的な視点でつくっていく。それをできるかどうかが、今後の社会の活力にとって、非常に大きな意味を持つのではないでしょうか。そして、組織に貢献する人をつくっていくことこそが、経営なのではないでしょうか。

会社組織と忠誠心

 忠誠心、いわゆるロイヤリティーについてお話します。本来、組織と人間の関係は非常に情緒的です。だれもが組織の外に顔を向けていると、それは組織ですかと言いたくなります。愛着、アタッチメントのようなものがあって、人は組織の中にいるわけです。ですから、愛着心をつくることが大切なのです。

 人の目をいかに中へと向かせるか。初めから組織の中に顔を向けている人が多ければ多いほど、社会化の初期段階のコストが少なくて済みます。そこを節約するのが忠誠心、ロイヤリティーです。逆に、外に顔を向けている人がたくさんいると、非常に大きなコストがかかります。顔を中に向かせるため、強制的にあれやれ、これやれと言ってもなかなか向いてくれない、大変です。

 人の目を自然に中へと向かせるような仕掛けをつくるべきです。それに成功すれば、組織は管理コストを少なくできます。バーナードという経営学者が無関心域、ゾーン・オブ・インディファレンスということを言っています。経営者なり管理者が命令、指示を発しても、受ける側はそれを命令、指示とは思わない。そのようにとらえる受け手が多ければ多いほど、命令する人の権威は大きいというものです。命令されている、嫌なことを言われていると部下に感じさせているようでは、まだまだ管理コストがかかっているわけです。

人はなぜ働くのか

 なぜ人は働くのか、あるいは働かせられるのか。人を働せる二大条件が誘因と動因です。両者がそろわないと、人は働く意欲を持ちません。

 例えて言うと、誘因は食べ物、動因は空腹感です。外に食べ物、中に空腹感がないと、食事という行動は起きません。つまり、給料が欲しい、お金が欲しい。そして、それを得るためのよい仕事がある。だから働くのです。そうでないと人は働こうとしません。動因を起こして、誘因を提供する。そういうユニットをそろえる必要があります。

 友人に「会社に対して何かやっていこうという気持ちになった時期はいつごろか」とたずねてみました。まずは、結婚したころだと言います。逃げられない感じになったと言います。二つ目が、子供ができたころ。三つ目は、課長になったころという具合に段階があるようです。

 これらはいずれも動因です。生きていくためには、何かをやらなければならないという気持ちになる。これにあわせて誘因があるとよいわけです。誘因と動因をそろえることによって、人は会社人間になっていくと思います。

 経営者、管理者は会社人間をつくっていかねばなりません。さきほど人は部品、歯車ではないと言いながら、滑らかに動くためには、そういう扱いも必要なわけで、自分の議論に少し矛盾を感じてはいます。しかし、そういう二つの面があることを承知しておいてください。企業経営につきまとう問題でありますから。

報酬と貢献のバランス

 組織には必ず報酬と貢献の均衡、バランスという話がつきまといます。経営学では、組織均衡という言葉で呼んでいます。均衡が崩れますと、人は組織から出ていこうとします。自分はこれだけ働いて貢献したけれども、報酬はこんなものかと思ってしまうといけません。あるいは、貢献のわりに報酬が多いとばかにします。均衡関係をうまく管理することが経営です。報酬の資源は限られている中で、均衡にあった報酬をきちんと用意できるようなシステムをつくる。それができないと、経営はどこかでぎくしゃくしてしまいます。

 社会、組織全体が今、こうしたバランスを欠きかけているような気が、しないでもないと思います。ストックオプションなどは、ほんとうに報酬なのかと言いたくなります。報酬の問題は全体的な枠組みの中で考えるべきことですから、不公平感を持たせるとバランスを壊してしまいます。きちんと均衡関係を維持しながら、何ができるかを考えていくべきではないでしょうか。

組織の発展と「過剰貢献」

 報酬と貢献のバランスをただとるだけでは、組織は発展しません。働いた分の報酬を得ただけでは、組織の単なる平衡、均衡の維持だけして、発展するわけがありません。むしろ、環境が変動する中では、縮小均衡になります。そんな組織経営を決してよいとは思いません。そこで過剰貢献が必要になるわけです。報酬以上に働く人がいないと、組織は発展しないのです。

 よい例が、いま伸び盛りのベンチャー企業です。あるいは、現在では大企業化したかつての中小企業です。小さな町工場から始まって中堅企業化したところに勤めている私の友人に聞きますと、昔はみんなで働いたものだと言います。日夜働かされたと。これは私の言葉を使うと、過剰貢献だろうと思います。

 会社人間には時代的な変遷があり、オイルショック以前と以後とで変化しているような気がします。会社人間のほかに企業戦士という言葉もありましたが、今では消えてしまいました。私自身、会社人間の時代に生きてきたわけでして、企業戦士という言葉には違和感があります。

 オイルショックまでは、企業戦士という言葉が非常に横行していました。我々より少し上の世代ですが、企業戦士として活躍された方々が、ずいぶん多いと思います。ところが、我々の世代以降になると、会社人間という言葉のほうが、通りがよい。1960年代から70年代前半のバイタリティを持っていた高度成長期のポジティブな意味での過剰貢献と、それ以降の成熟期でゆとりを持った社会の中での過剰貢献とは、少しニュアンスが違う気がいたします。

 いずれにせよ、戦後50年間、日本の経済社会が発展してきたのは、報酬以上に働いた人たちがいたことにあるのではないかと思います。語弊のある言い方をいたしますと、報酬以上に人に貢献させるシステムを持たないと、社会は発展しません。企業経営的に言うと、過剰貢献を引き出す仕掛けをつくらないといけない。過剰貢献する人たちをたくさんつくることが、組織の発展だと思います。

 報酬と貢献のバランスをとるだけでは、組織はスラック(余剰資源)を持てません。組織はスラックを持ち、それを有効に使うことによって発展していくわけです。スラックを高めるのは、会社人間の過剰な貢献です。非常に極端な、今の風潮に反する言い方をしていますが、私はそのように思っています。

 過剰貢献を強いますと、労働協約などさまざまな法的問題に抵触しますので、絶対にしてはいけません。強制的にではなく、無関心域を利用した仕掛けをつくっていくことが大事なのです。会社が命令するわけではないのに、仕事がおもしろいということで、人の過剰貢献を引き出す。そういうシステムをつくっていくことが、ほんとうの管理、経営なのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 ベンチャーやアントレプレナーの活躍している組織では、若い連中がほんとうに活き活きと働いています。安い給料で。だからこそ、組織はスラックを蓄えているのです。そういう仕掛けを高圧的、威圧的にではなく、どのようにつくっていくのか。これは健全な意味での会社人間をつくることになるのです。

会社人間のメンタリティー

 会社に過剰貢献するような人たちは、どのようなメンタリティーを持っているのでしょうか。

 組織への帰属意識には三種類あります。まずは情緒的関係。その会社が好きになる、思い入れを持つということです。ですから、会社に思い入れを持たないような社員は、過剰貢献してくれません。伸び盛りで世間から注目され、社会的に有意義なことをしているとなると、社員は会社への思い入れを強くします。一方、その会社にいると悪く思われるような場合だと、絶対に意欲がそがれます。愛着を持てる、情緒的な関係を維持できるようなものがあると、帰属意識が高まるわけです。

 二つ目が交換関係。さきほど述べました報酬と貢献のバランスです。交換関係というのは非常に奥が深いものです。組織に長い間いて、さまざまな貢献をしていくうちにやめられなくなる。やめてしまうと、勤務の交換関係の中で蓄えてきたノウハウやネットワークなどあらゆる関係が解消してしまうからです。ですから、帰属意識を強く持たせるためには、交換関係による蓄えを多くしておくことが大事になります。蓄えが多ければ多いほど、人は帰属意識を強く持たざるを得なくなるわけです。

 派遣など短期の雇用でも一時的な交換関係のバランスは成立します。しかし、長期にわたる蓄えがないと、ほんとうの意味での交換関係は成り立ちません。成り立つように仕掛ける工夫があれば、帰属意識は必ず増します。愛着など情緒的な関係がなくても、これだけの貢献をしてきたという蓄えがあり、ネットワークがたくさんでていて、仕事も覚えてきたとなりますと、会社にいることのメリットが大きくなるからです。

 三つ目が、規範的な関係です。今ではわりあい無視されている面があるのですが、組織との関係というのは、大体が規範的です。例えば、会社に入って仕事をしますと、会社に貢献しなければならないという義務を感じます。会社にいる以上、一宿一飯の義理はあるというわけです。古い言い方ですが、義理と人情は人の行動を制約するのです。

 帰属意識は、ほうっておいてできるものではありません。情緒的関係、交換関係、規範的関係の3つがそろうと、人は会社人間になり、過剰貢献するわけです。

三角錐の論理

 全員が全員、会社人間になるわけではありません。それは無理です。できるわけがない。人はさまざまです。玉石混淆、有象無象。いくら磨いても石ころでしかない人が結構います。そして、磨いて光る玉になる人を見つけるのが、管理、経営、組織の要諦です。

 組織の構造は基本的に三角錐です。ピラミッドと言ってもよいでしょう。将来トップになるエリートたちが中心線の下のほうにいて、らせん階段を登っていく。そして、周辺的な部分にさまざまな人がいるわけです。

 これら組織のメンバー全員に最大限の忠誠心、ロイヤリティー、帰属意識を備えることができると考えるのは、幻想です。中心と周辺、頂点と底辺という組織の構造の中で、とくに周辺や底辺にいる人たちは、十分にこれらを備えるものではありません。そのようなことがあるのは、よほど急成長期のベンチャー企業か小規模集団、やや宗教がかった組織だけです。一定規模のヒエラルキーを持ち、ビューロクラシー的なシステムを持った組織ではあり得ません。

 頂点と底辺、中心と周辺という広がりの中では、どうしても帰属心に濃淡があり、十分に過剰貢献する人もいれば、面従腹背、言われたことはやるけれども、言われないことは絶対やらないという人、あるいは言われたことさえやらないという人がいます。それが組織なわけですから仕方がない。経営では、そういった認識を持つべきです。  組織は大まかに2対6対2の構造を持っています。大体の組織が、ほうっておいても働く上の2割、全然働かない下の2割、そして、言われれば働く中間の6割という構造を持っているのです。

 リストラとは、たぶん下の2割を捨てることでしょう。しかし、その2割を捨たとしても、まちがいなくこの人たちに代わる2割が中間層から出てきます。よく言われることですが、働きバチだけ集めて巣をつくらせても、働かないハチがでてきます。組織には必ず3層構造があるのです。

 全員が全員、忠誠心、あるいは帰属心を持つような仕掛けをつくるなどというむだなことは考えないほうがよろしいでしょう。経営コストの浪費です。

人を活かすということ

 会社人間はもういらないとか、これからは個人の時代であり、個人が強くなっていかねばならないと言われます。私もそれは大事だと思っています。しかし、だれもがそういう強い人間になれるのかどうか。

 強い人間モデルだけだと絶対に破綻します。そういう人たちだけで社会がもつはずがありません。そうなると社会は混乱の極です。強い人と弱い人がいるから社会なのです。2対6対2というバランスがあるからこそ、社会はある程度安定を保っているのです。過剰貢献の好きな上の2割はよいでしょう。大事なのは、中間にいる弱い6割の層をいかに活用するかということです。6割の層うちどこまでを過剰に貢献させるのか、会社人間に仕立てるのかということです。この層にいる人たちを過剰貢献させればさせるほど、活力ある組織になっていくはずです。

 弱い人は、自分に自信がない、自分に力があるのかどうか疑問を持っている、あるいは仕事が合っていないと考える。人を活かすというのは、そういう弱い人たちをすくい上げ、過剰貢献させる仕組みをつくることではないかと思います。弱い人たちをほうっておくと、上の2割も疑問を持ち、「こんな組織にいてよいのだろうか」と思ってしまう可能性があります。

 組織は人からなっています。ですから、組織をヒューマン・オーガニゼーションとしてとらえてほしい。人を活かさない組織は組織ではないと思います。会社人間が消えることは絶対にありません。むしろ会社人間をつくることこそが、企業経営ではないでしょうか。

質疑応答

【質 問】 組織への過度の忠誠心、あるいは過剰貢献が過労死を引き起こしているケースを非常に多く見受けますが、先生はどのように思われているのでしょうか。
 それと、日本的雇用慣行の崩壊ということで、成果主義や業績主義を取り入れている企業が多いと思います。成果主義や業績主義は、ほんとうに忠誠心や過剰貢献を生み出すシステムなのでしょうか。

【回 答】 過労死には原因がいくらでもあります。例えば、きちんと社員の健康管理をしているかどうか。そういう方向で施策がきちんとしていれば、過労死はかなり防げるはずです。過労死を許す企業は、基本的に労務管理がなっていない。論外です。そのような企業は、私が今日話したことを考える資格はありません。そんな企業は忠誠心も養成していないし、人的資源管理の手法を全然持っていない組織ではないかと思います。過労死させないことを前提にした議論なのです。
 実際、過度に働かないといけない職場が、あるにはあります。その場合でも、過労死を起こさない仕組みを制度的につくらねばなりません。
 成果主義についてですが、2対6対2の原理で申しますと、上の2割への導入は当然でしょう。その下の6割に対して、どこまで当てはめていくのかということになるかと思います。全員に成果主義を導入するなど無理ではないでしょうか。ベンチャーや成長盛りの企業ならともかく、成熟した組織で全員に成果主義を導入したら、少し問題が起きるのではないかと思います。

【質 問】 大企業から放出された管理職は、世の中でなかなか通用しません。大企業という組織の中で仕事ができたのであって、そこから外れて個人になりますと、ほとんど能力がないということだと思います。会社は義務として、貢献度の高い社員に対して、会社から出た後でも生きていけるように、育成していく必要があるのではないでしょうか。

【回 答】 労働の流動化が進んでいますが、それを支えていく仕組みができていません。会社が人を単に追い出しているだけという感じがします。不幸にもマッチングができていないのです。これを支えていくためには、企業も努力すべきですが、社会でコストを負担しなければなりません。そういうシステムをつくるべきです。

【質 問】  まず、お願いがひとつあります。実務家にとって、組織で人が重要なのは重々わかっています。人をどのように磨いていくかということで、学校の先生方にはぜひともその枠組みを示していただきたいと思います。
 それから質問ですが、会社人間の定義についてお聞かせください。会社人間という言葉にはネガティブな感じがありますけれども、先生のお話しを聞いていると、人材ではないかと解釈したのですが。
 それから、先生は忠誠心という言葉をずいぶん使っておられましたが、専門性を持ったプロと、そうでないアマの人、あるいはエンプロイアビリティを持っている人と持っていないと人とに分けて考えるべきではないかと思います。忠誠心を持っていないプロと、持っているアマがいた場合、どちらに価値を見い出すかということを考えた次第です。スラックも、プロとアマとに分けないで、十把一からげにするのはどうかと思いました。

【回 答】 まず、会社人間の定義についてですが、組織に過剰に貢献する人たちという意味で、私は会社人間という言葉を使っています。
 それから、プロとアマの問題ですが、私は両者をあまり区別したくありません。プロとは非常に特殊な技能を持った人たちです。会社の中で言えば、プロ的な人はいますけれども、プロとアマとを区別するような意味でのプロはいませんし、アマもいないと思います。
 忠誠心につきましては、周辺にいる人たちと頂点に向かう人たちとでは違ってくるでしょう。スラックに関しては、また別に議論をしなければならないと思います。

【質 問】 モチベーションのことを考えますと、本人が過剰貢献していないと思わせるような仕組みで、ほんとうによろしいのでしょうか。会社から見れば過剰貢献ですが、本人はこんなに給料をもらっているのに申し訳ないと思う。これではモチベーション上、いけないのではないかと思うのですが。

【回 答】 社員に「自分は過剰貢献しているのだな」と思わせてしまうと、問題が多くなると思います。思い込ませないように過剰貢献させるのが、経営ではないでしょうか。過剰貢献を意図的に思わせる仕組みをつくってしまったら、もうおしまいだと思います。