JILPTリサーチアイ 第29回
日本の労働法政策の時代区分

著者写真

研究所長 濱口 桂一郎

2018年11月28日(水曜)掲載

1 『日本の労働法政策』

去る10月30日に、JILPTより『日本の労働法政策』を上梓した。これは、2004年以来東京大学公共政策大学院で、さらに2012年以来法政大学大学院公共政策研究科(及び連帯社会インスティテュート)で行ってきた講義テキストの最新版である。

労働法の教科書は汗牛充棟であるが、それらはすべて法解釈学としての労働法である。もちろん法解釈学は極めて重要であるが、社会の設計図としての法という観点から見れば、法は単に解釈されるべきものとしてだけではなく、作られるべきもの、あるいは作り変えられるべきものとしても存在する。さまざまな社会問題に対して、既存の法をどのように適用して問題を解決するかという司法的アプローチに対して、既存の法をどう変えるか、あるいは新たな法を作るかという立法的アプローチが存在する。そして社会の変化が激しければ激しいほど、立法的アプローチの重要性は高まってゆく。

東大で講義を開始してからの15年間で日本の労働法政策の姿はかなり変わった。とりわけ、開始当初の講義で将来像として描いていたいくつかの方向性が、今回の働き方改革推進法で実現に至った。たとえば、当初テキストでは労働時間法政策の章において「課題-法律上の時間外労働の上限の是非」という項を置き、「労働法政策として考えた場合に、今まで法律上の上限を設定してこなかったことの背景にある社会経済状況のどれだけがなお有効であり、どれだけが既に変わりつつあるのかを再考してみる必要はありそうである」と述べ、「ホワイトカラーの適用除外といった法政策が進展していくと、それ以外の通常の労働者の労働時間規制が本質的には同様に無制限であるということについても、再検討の必要が高まってくるであろう」と示唆していた。今回、時間外労働の法的上限規制が導入されたことは、その実現の第一歩と言える。また非正規労働についても、パートタイム、有期契約、派遣労働のそれぞれの節で、項を起こして均等待遇問題を「課題」として取り上げていた。これも今回、同一労働同一賃金というラベルの下で盛り込まれた。一方、労使協議制と労働者参加の章で「課題-労働者代表法制」として論じていた問題は、今日なお公的な法政策のアジェンダに載っていない。方向性自体は2013年7月のJILPT「様々な雇用形態にある者を含む労働者全体の意見集約のための集団的労使関係法制に関する研究会」(荒木尚志座長)報告で新たな従業員代表制の整備として示されている。

2 近代日本の時代区分

本稿では、1000ページを超える『日本の労働法政策』の各論に立ち入ることは不可能なので、総論に当たる第1章「近代日本労働法政策の諸段階」の内容を紹介しておきたい。これは過去100年以上にわたる日本の労働法政策の歴史を自分なりに時代区分した試案である。実は15年前、大学院で労働法政策を講義する必要上、膨大な史料を改めてじっくりと読み直してみた。これまでの社会政策学者や歴史学者が叙述する視点ではなく、自分自身が労働行政の実務家として培ってきた視点で原史料を読み直してみて、ある時代の労働政策にはその時代の刻印がくっきりと押されていることに気がついた。そんなことは当然ではないか、といわれるかも知れない。一般論としてはそうであろう。しかし、そこで浮かび上がってきた時代の刻印の印象は、これまでの主流の歴史学のそれとは大きく異なるものであった。

わたしはそれをほぼ20年ごとに時代区分してみた。1910年代半ばから1930年代半ばまでの20年間は、労働運動や社会主義運動が盛んに行われながら、政府全体の中では自由主義的経済政策が中心であった時代、労働政策は今なお主流に達しない時代であった。1930年代半ばから1950年代半ばまでの20年間は、右翼的社会主義や左翼的社会主義が全体社会を席巻する中で、労働政策が国家の政策の主流に躍り出た時代であった。1950年代半ばから1970年代半ばまでの20年間は、日本でもミクロレベルでフォーディズムが確立し、マクロレベルではケインジアン福祉国家が主流化した時代であり、「近代化」論が流行した時代であった。1970年代半ばから1990年代半ばまでの20年間は、それまで前近代的と批判されてきた日本的雇用慣行が「近代的」な雇用システムよりも効率的と評価されるようになった時代であり、企業レベルの共同性が労働政策の中心となった時代であった。そして1990年代半ばから2010年代半ばまでの20年間は、遅ればせながらネオリベラリズムが日本にも輸入され、構造改革というスローガンのもと、余計な規制は撤廃して市場に委ねるべきというイデオロギーが展開してきた時代である。

これをもう少し個別労働法政策に触れつつ見ていこう。

3 社会主義の時代

日本はイギリスに100年遅れて産業化が始まり、ようやく1911年に19世紀的労働立法である工場法が成立した(施行は1916年)。しかし、1922年に設置された内務省社会局の官僚たちは、主としてワイマール共和国の立法を日本に導入する形で20世紀システムへの移行を試みた。その主眼は労働組合法の制定であったが、2回にわたって議会を通らず失敗した。職業紹介法制定や工場法改正は行われたが、総じて官僚機構の中の非主流派が社会問題に関心を寄せる知識人や穏健派組合と連携して進歩的な法案を出しては現実の壁に押し返されるという時代であった。

労働政策が主流化するのは、皮肉にも1930年代以降の国家主義運動の広がりの中であった。1938年職業紹介所が国営化され、1939年3年間の技能者養成が義務づけられ、1937年成人男子にも就業時間規制(残業含め12時間)を導入し、1938年安全衛生管理体制(安全管理者、安全委員、工場医)を確立し(産業医が復活するのは1972年安衛法)、1942年健康診断を義務づけられ、1940年最低賃金が導入され(最低賃金法は1959年)、1941年労働者年金が設けられた。労働者代表制は労働組合という形ではなく、産業報国会(労使懇談会)という形で実現した。これはホワイトカラーとブルーカラー双方を含む企業別組織であり、戦後の企業別組合の基盤となった。

19世紀的な体制の中で実現できなかった「進歩的」な政策が、軍国主義の下で続々と実現されていったのであり、アメリカのニューディールやフランスの人民戦線とまさに同時代的な課題を達成するものであった。歴史学は戦後改革からすべてが始まったと描きたがるが、日本の20世紀システムは1930年代に始まるのである。ただし、それは欧米諸国に比べてかなりの変異-強い内部労働市場への志向を持つものであった。

これは、必ずしも日本社会がもともと集団主義的であったとかイエ志向であったからではなく、システム形成期の環境の違いが反映したものである。『職工事情』が語るように、明治期の日本の労働者は欧米よりも移動性向が高かった。第一次大戦後、大企業は労働組合を排除して工場委員会を設置したが、これは同時期のアメリカ大企業の行動と同様であった。内務省社会局が繰り返し提案した労働組合法案は、産業別又は職業別組合を想定しており、企業別組合は想定していなかった。彼らはワイマール型の産業別組合と企業別労働者代表制の並立制を考えていたようである。しかし、それは失敗した。そして、国家総動員体制下で労働者代表制を構築しようとすれば、産業報国会という形をとらざるを得なかった。戦前の組合組織率が最大で6%に過ぎなかったこともあり、多くの労働者にとってこれが初めての労働組織の経験となったのであり、これがその後の経路に大きな影響を与えた。

ちなみに、アメリカもヨーロッパより若干遅れて1930年代にニューディールという形でシステム移行を行うが(ワグナー法、公正労働基準法、社会保障法)、その際(かなり広く行われていた)企業内労働者代表制を会社組合として禁止する法政策をとったことが、その後の経路を決定した。

しかし、いったん形成されたシステムは頑強な生命力を持つ。戦後アメリカの占領下で戦時立法は廃止され、新たな労働立法が行われたにもかかわらず、雇用・労働システムの基軸は1930年代に形成された仕組みが大枠で維持された。企業別組合自体がそうであるが、賃金制度にそれが顕著である。戦時中の賃金統制は、地域別、産業別、男女別、年齢階層別に賃金を定めたため、年齢に基づく年功賃金が強制された。また毎年1回昇給内規により昇給することや各種手当、月給制の導入などが求められた。戦後の労働運動は、これらを受け継ぎ、年齢と扶養家族数に基づくいわゆる電産型賃金体系を確立した。当時GHQや世界労連は年功制を痛烈に批判していたが、日本の労働運動はそれをむしろ強化する方向で闘った。労働基準法案に同一価値労働同一賃金条項が盛り込まれたときに、それでは生活賃金と矛盾するとして男女同一賃金に変えさせたのも労働側委員であった。

4 近代主義の時代

こうした日本型20世紀システムの内部労働市場への強い変異を批判的にとらえ、欧米型モデルへのシフトを唱道したのは政府と使用者側であった。当時、それは「近代的」という言葉で呼ばれた。1950年代から1970年代初めまでがこの時期に属する。

当時の日経連は、同一労働同一賃金原則に基づき職務給に移行すべきとの論陣を張っていた。政府も1960年の国民所得倍増計画で、終身雇用制と年功賃金制を解消し、同一労働同一賃金原則に基づき労働力を流動化し、労働組合も産業別化すると展望していた。1967年に政府がILO100号条約を批准したときも、その趣旨を答弁している。

この時期の雇用・労働政策は、内部労働市場の閉鎖性を打破し、外部労働市場中心のシステムを確立することに焦点が置かれていた。1958年職業訓練法はその嚆矢である。それまで徒弟制を引き継ぐ技能者養成と失業対策としての職業補導に分かれていたものを「職業訓練」という新たな用語のもとに合体し、技能検定制度によって社会的な基準が設定される技能というものを、企業の内部と外部を貫く新たな労働市場の原理として提起した。企業横断的職種別労働市場が形成されることを目指したのである。

これを雇用政策のキャッチフレーズとして打ち出したのが1965年雇用審議会答申であり、「近代的労働市場の形成」「職業能力、職種を中心とした労働市場」が唱道された。これに基づいて制定されたのが1966年雇用対策法である。同法に基づく第1次雇用対策基本計画は、今後10年以内に能力と職種を中心に求人求職が結びつく体制が確立し、このために必要な技能程度別、職種別の雇用情報が求人・求職者に提供されている状態を達成することを目標とした。このため、計画期間中に、能力と職種を中心とする雇用賃金慣行の確立を広く国民に訴え、促進するとしている。

職種別労働市場の理念をそのまま法政策に投影したのが中高年齢者雇用率制度であり、中高年齢者の適職として選定された職種ごとに雇用率を設定し、雇入れの要請を行うという仕組みが設けられた。しかし、現実の雇用管理が職種別に行われていないのに、職種別雇用率を強制しても実効性はない。同制度はその後1976年に企業全体の高齢者雇用率制度(外部労働市場志向だが職種志向ではない)に変わり、1986年には廃止され、内部労働市場政策たる定年規制に取って代わられた。

興味深い点として、第1次雇対計画は臨時工、社外工等の不安定雇用問題に1項目割き、今後10年以内に不安定雇用がかなり減っているとともに、常用労働者に比べて賃金等の処遇で差別がなく、その就職経路が正常化している状態の達成を目標としている。この視点は、当時の労働行政がもっぱら外部労働市場から雇用問題を考えていたから自然にとられたのであろう。1970年代以降、こういう視点は希薄化していく。

労働側は、口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす」などといいながら、「職務給は中高年の賃金を引き下げるから断固反対」であった。もっとも、労働側なりに企業の枠を超えた賃金決定への試みとして春闘が行われた。

こういう動きを見ると、日本でも職務給が一般化し、同一労働同一賃金原則が確立する方向に動いていっても不思議でなかったように見えるが、事態はまったく逆の方向に進んだ。職務給を唱道していた日経連が、1969年の「能力主義管理」で「我々の先達の確立した年功制を高く評価する」と明言し、企業に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所を維持しつつ、画一的人事管理を改め、全従業員を職務遂行能力によって序列化した職能資格制度を導入すべきことを提示したのである。この背景には、企業の人事労務担当者にとって日経連のいう職務給が使いにくいこと、特に高度成長下で大規模な配転を遂行する際に、労働側が労働条件の維持を要求し、これに応えなければ配転が困難になるという事態が多発したことがある。属人給は配転や合理化をスムーズに進めるために不可欠であったのであり、高邁な理念でこれを否定することはできなかった。このさらに背景にあったのが、企業レベルの労使協議を唱道する生産性運動であり、その源流が終戦直後の経済同友会にあることを考えると、これを経営サイドの思想転換と見ることができる。

この時期には、労働経済学においても最新の理論として内部労働市場論が紹介され、理屈なき反発であった労働側の反職務給論に経済学的説明を与えた。いまや、同一労働同一賃金原則などは古くさいものになってしまったのである。

5 企業主義の時代

最後に取り残された政府が身を翻すきっかけとなったのが1973年の石油ショックであった。1974年雇用保険法が導入した雇用調整給付金は、経営状況が厳しい中でも失業を出さずに雇用を維持することを政策目標とするという意味で、まさに内部労働市場志向政策のシンボルである。同制度のもとになったドイツでは、これは解雇規制立法と組み合わされたものであったが、日本ではその代わりに判例法理として整理解雇法理が形成され、両者相俟って社会全体としての失業予防政策が形成された。この政策は1976年の第3次雇対計画以来、1995年の第8次雇対計画で「失業なき労働移動」が打ち出されるまで、ずっと日本の雇用政策の中心であり続けた。

もっとも、この政策転換は雇用対策法には書き込まれず(従って、同法は雇対計画の根拠法に過ぎなくなった)、1977年特定不況業種離職者臨時措置法に、事業主の責務として「失業の予防に努めること」が明記された。同法は「再就職援助計画」を規定していたが、1988年改正でこれが「雇用維持等計画」に変えられた。

職業訓練法も、1978年改正で企業内教育訓練を強調する方向に舵が切られた。1969年職業訓練法は、企業内訓練をあくまでも職種と能力を中心とする近代的労働市場形成のための公共職業訓練の一環であり、そこで修得されるべきものは社会的通用性のある技能であって、企業特殊的技能ではないという立場から、これを「職業訓練の認定」と呼んでいたのであるが、この時期には企業内の熟練形成を重視する労働経済学の新潮流を反映する形で、別に終身雇用を前提とする企業特殊的訓練を促進するための助成(生涯職業訓練促進助成金)が政策の中心となった。さらに1985年の職業能力開発促進法への改正で、オンザジョブトレーニングも企業内能力開発として位置づけた。

高齢者対策も雇用率という外部労働市場政策から定年延長という内部労働市場政策に軸足を移していった。1973年に雇用対策法に宣言的規定が設けられるとともに、定年延長奨励金が設けられた。そして、紆余曲折を経て、1986年に雇用率制度が廃止され、60歳定年の努力義務が設けられた。これは1994年に義務化されたが、一方で65歳までの継続雇用制度の努力義務が設けられ、これが2004年に義務化された。

賃金制度自体は法規制の対象ではないが、年功賃金を前提とする法制はそれを促進する効果を持つ。1974年雇用保険法は年齢に基づいて給付日数を定めたし、1986年の改正労災保険法は年功カーブを前提とする給付額設定を導入した。未払い賃金の立替払い制度も1988年に年齢階層別上限が導入された。

興味深いのは定年延長指導に伴う賃金制度改革である。もはやかつてのような近代的労働市場形成のためではなく、雇用を維持するためにその障害となる年功的昇給を一定年齢以上ではストップするというロジックになっている。この指導を受けて55歳定年を60歳に延長するとともに55歳以降の賃金を引き下げた事例(第四銀行事件)は、もっぱら労働条件の不利益変更という観点からのみ論じられ、そもそも年功賃金制を同一労働同一賃金原則から規範的に評価するといった観点は見られない。

この時期に世界共通の課題として1985年に男女雇用機会均等法(努力義務)が導入されたが、外部労働市場の同一労働同一賃金原則ではなく、企業内で女性労働者を男性労働者と平等に終身雇用慣行の中に組み込んでいく雇用管理政策という形をとった。いわば「コースの平等」であり、企業側は当初これに実質的に男女別である「コース別雇用管理」で対応したが、1997年に義務化される前後から雇用形態別雇用管理に移行した。

この時期は政策関心がもっぱら内部労働市場の正規労働者に向けられたため、非正規労働者への関心は希薄化した。1970年の婦少局通達は「パートタイマーは労働時間以外の点においては、フルタイムの労働者となんら異なるものではないことを広く周知徹底する」と述べていたが、1984年の労基法研究会報告は「パートタイム労働者の労働市場が通常の労働者のそれとは別に形成され、そこでの労働力の需給関係により労働条件が決定されている」のだから「行政的に介入するのは適当ではない」と述べている。

労働時間短縮もこの時期の労働法政策の中心課題であったが、「時間外・休日労働の弾力的運用が我が国の労使慣行の下で雇用維持の機能を果たしている」ことを理由に、時間外労働の上限設定は政策アジェンダに載せられることはなく、もっぱら法定労働時間の短縮と年休付与日数の増加という形で進められた。

労使関係法制は(公共関係を除き)変化はなかったが、民間部門では労使協議制が深まった。石油ショック後の雇用調整過程では、労使協議は雇用調整給付金の支給要件でもあるし、整理解雇法理における正当化要件でもあった。

6 市場主義の時代

日本で内部労働市場志向の政策がとられていた時期は、世界的には新自由主義政策をとるアングロサクソン諸国と従来の福祉国家路線を守旧するヨーロッパ諸国が対立していた時代であるが、日本はいずれよりもパフォーマンスのすぐれたシステムとして自らを誇っていた。ところが、1990年代になってバブルが崩壊すると、日本型システムを全否定し、アングロサクソン型市場経済を唯一のモデルとする論調が一世を風靡するようになった。

しかしながら、この背景には80年代に全盛を極めた企業中心社会の在り方に対する国民の違和感-個人主義的反発があった。かつては政府、経営側主導の外部労働市場志向政策が労働者の反発から撤回されたが、政府、経営側が内部労働市場志向政策に傾きすぎることは、逆に労働者の側の違和感を醸成したのである。この個人主義的反発を市場原理主義が掬い上げる形で規制緩和政策が進められることになる。

80年代には体制批判勢力の中だけで使われていた「企業中心社会」とか「会社人間」という言葉が、90年代初め頃には経営者の発言や政府の公式文書にも否定的な意味合いで用いられるようになった。1992年の生活大国5カ年計画(宮沢内閣)は、個人の尊重や生活者の重視を掲げている。もっともそこでの「個人の尊重」とは労働時間短縮により企業活動の成果を個人に還元することを意味していたが、1993年の平岩レポート(細川内閣)は「経済的規制は原則自由・例外規制、社会的規制も不断に見直す」という原則を打ち出した。1995年の「構造改革のための経済社会計画」(村山内閣)では構造改革の必要性が説かれ、「自己責任の下、自由な個人・企業の創造力が十分に発揮できるようにすること」、「市場メカニズムが十分働くよう、規制緩和を進めること」が唱道された。

そして、1999年の「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」(小渕内閣)では、「自立した『個』を基盤とした経済社会」、「多様多角的な繋がりのある複属社会」というスローガンを掲げ、「日本式経営の一部である長期継続雇用や年功賃金体系を従来どおりに保つこともできないし、それを前提とした「会社人間」が大部分を占める社会構造も維持できない」とか、「各個人はそれぞれの個性を発揮し、好みに応じてすべてを選択する権利を持つ。従って、ここでの行為は原則として上下に結ばれた「縦」の関係ではなく、個人相互も企業も政府も平等な「横」の関係となる」といった姿が描かれた。

こうした思想の背景としては、労働者の利害の個別化が進んでいたにもかかわらずそれへの対応が遅れ、とりわけ性別や年齢による差別といった人権法的課題への労働関係者の反応が鈍かったことが指摘できる。同方針では「性別にとらわれない社会」「年齢にとらわれない社会」「職業生活と家庭生活が両立しうる社会」といった目標が設定された。80年代の企業中心主義の印象があまりにも強かったため、内部労働市場志向の雇用保障と個人の幸福追求とは矛盾するという印象を与えたといえよう。

こうした個人志向の言説と相伴って、明確に市場志向の言説も拡大してきた。1995年の「規制緩和の推進に関する意見」は「社会的規制といわれてもそれを鵜呑みにすることなく、その規制の目的とコストや便益を見極めて国民全体の立場から議論すべき」と述べ、1998年の規制緩和推進3カ年計画は「いわゆる事前規制型の行政から事後チェック型の行政に転換していく」ことを掲げた。2000年以降は、経済財政諮問会議が「構造改革」を旗印に掲げ、その下で規制改革会議があらゆる分野にわたって規制緩和を要求していくことになる。

こういう全体社会の流れを背景にして、雇用・労働政策もそれまでの内部労働市場志向政策から徐々に個人志向の政策にシフトしていく。早くも1991年の第5次職業能力開発基本計画は企業内職業能力開発に次ぐ政策目標として労働者の自己啓発を掲げ、1997年の法改正で自己啓発支援措置が明記され、1998年に教育訓練給付が設けられ、2001年改正ではキャリア形成支援が前面に出た。2003年に4省庁による「若者自立・挑戦プラン」が策定されてから若年者雇用が政策の中心課題となり、その中で日本版デュアルシステム、実践型人材養成システム、ジョブ・カード制度などが進められ、民主党政権による事業仕分けなどもあった。ジョブ・カード制度は雇用促進と共に職業能力証明ツールという意味があるが、この方向性が2009年の新成長戦略における日本版NVQ制度(キャリア段位)や、2013年の日本再興戦略における「職業能力の見える化」論を経て、かつて技能検定制度を導入したときのような外部労働市場志向政策に向かっている。

一般雇用政策においても、1995年の第8次雇対計画は「失業なき労働移動」を掲げた。同年の特定不況業種関係労働者雇用安定法改正は、出向や再就職斡旋によって失業を経ずに労働者の送り出しを行う事業主、労働者の受け入れを行う事業主に、労働移動雇用安定助成金を支給した。これは雇用維持から再就職支援への転換点にあたる。2001年には雇用維持等計画を規定する同法が廃止され、代わって雇用対策法に再就職援助計画が規定された。助成金も労働移動支援助成金となった。雇用調整助成金も個別事業所に対する特例的な助成に変化し、重要性が下落した。ところが2008年のリーマンショックで雇用調整助成金の支給要件が緩和され、その支給額が激増した。これは独仏等大陸欧州諸国でも同様の傾向が見られたもので、むしろ制度本来の姿であったというべきであるが、2013年自公政権復帰後は批判を浴び、日本再興戦略では再び「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への転換」が掲げられ、雇用調整助成金から労働移動支援助成金に大幅にシフトさせるとしている。

高齢者対策は今日まで内部労働市場政策と外部労働市場政策がせめぎ合っている分野である。2001年の雇用対策法改正に、労働者の募集及び採用についてその年齢にかかわりなく均等な機会を与える努力義務が盛り込まれ、2004年には年齢制限の理由明示義務、2007年には年齢制限が原則的に禁止されるに至った。一方で年金政策との関係からの内部労働市場型の継続雇用政策も進められ、2004年には労使協定による例外付きの義務化が、2012年には例外なき65歳継続雇用の義務化が行われた。しかし、この手法がさらなる高年齢層への雇用促進にどこまで有効であるかは疑問である。

労働条件政策では、有期労働の拡大や裁量労働制が働き方の多様化という個人主義的正当化によって推進されたが、それが非正規雇用の拡大や過重労働につながるとする労働側の反発にあった。もっとも、実際の労働関係での大きな変化は賃金制度における成果主義賃金の拡大であろう。企業はもはや潜在能力ではなく成果に表れた顕在能力にのみ報酬を払うという思想である。裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプション、高度プロフェッショナル制度を求める声の背景にはこれがある。成果主義は評価をめぐる紛争を呼び起こす。

こうして、この時期には労使関係の個別化が注目され、一方で手続法として2001年に個別労使関係紛争解決促進法、2004年には労働審判法が成立するなど、紛争解決システムが整備されていくとともに、他方で実体法としての労働契約法制の必要性が議論されるようになり、2007年には労働契約法の成立に至った。これは、内部労働市場内部での雇用保障を担保にした紛争の抑止効果が弱まってきたことを示している。

こういう大きな流れの中で、労働組合の存在感はミクロ的にもマクロ的にも縮小してきた。ミクロ的には、労働者の個人的利害に適切に対応しきれないという面もあるが、最大の問題は非正規労働者などもっとも組合の助けを必要とする人々が加入できない仕組みになってしまっている点であろう。ここから新たな従業員代表制の導入を求める声が上がってくることになる。

この時期はまた、内部労働市場における雇用保障と引き替えに軽視されてきた職業生活と家庭生活の両立が法政策として樹立された時期である。1991年の育児休業法制定以来、累次にわたって改正されてきたが、それはいわば枠組み作りにとどまり、雇用保障と引き替えの時間外労働や配転等との関係をどう整理すべきかは未だ明確ではない。こういった拘束を受けない働き方がパートタイムを始めとする非正規労働であることから、この問題は非正規労働者の均等待遇問題としても現れる。1993年にパート労働法が制定され、国会修正で盛り込まれた「均衡処遇」をめぐって議論が続けられ、2007年には一部のパートについて差別を禁止する改正が行われ、2012年には労働契約法改正により有期契約労働者への不合理な待遇が禁止された。そして2016年からは官邸主導で同一労働同一賃金が政策課題となり、2018年には法制化に至った。

一方、労災保険の認定基準において過労死、過労自殺問題が正面から取り上げられるようになるのと揆を一にして、労働安全衛生法政策の重点が過労死、過労自殺防止のための健康管理に置かれるようになっていった。特に注目すべきは、長時間労働が安全衛生上の問題としてとらえられるようになり、労災補償法政策、労働安全衛生法政策と労働時間法政策が再び交錯し始めたことである。そして、労働時間法政策においても、一方で裁量労働制やエグゼンプションのように弾力化が進められるとともに、これまで集団的労使自治に委ねられてきた時間外労働についても公的な規制の可能性が探られ始め、2017年には官邸主導で時間外労働の法的上限設定が政労使間で合意され、2018年には立法化に至った。この背景には、内部労働市場重視の時代には雇用維持のコストとしてある程度恒常的な時間外労働を容認する考え方が(建前としてはともかく本音としては)共有されていたが、外部労働市場重視に転換していくにつれ、それがもはや共有されなくなってきたという事情があろう。

7 労働法政策の大転換期?

20年周期説では、2010年代半ばから既に次の時代に入っているはずであるが、現時点ではなお市場主義の時代が終わって次の時代に移行したと明言することはできない。ただ、2015年に新・三本の矢が打ち出され、翌2016年に働き方改革が打ち出されるなど、2010年代半ば頃に労働法政策の方向性が大きく転換したのも事実である。

その労働法政策が包括的な形で示されたのが2017年3月の「働き方改革実行計画」であり、「働く人の視点に立った働き方改革」を掲げて、同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善、罰則付き時間外労働の上限規制の導入など、これまで極めて慎重な姿勢であった諸課題に大胆に取り組んでいる。そして2018年には働き方改革関連法が成立し、市場主義の時代の課題に決着を付けた。

一方、上記「働き方改革実行計画」では、柔軟な働き方として雇用型テレワークや自営型テレワークの推進が打ち出されており、これらは第4次産業革命といわれる世界同時的な技術革新により急速に進展している労働のあり方の大転換につながるものでもある。ここに着目するならば、今日始まりつつある時代は20世紀システム内部における政策方向の転換を超えた、21世紀システムともいうべき新たな時代であるのかも知れない。

今日第4次産業革命と呼ばれる技術革新とそれによる社会変動が世界中の諸国を揺るがし始めている。そのコアとなる技術革新は第1にIoTとビッグデータ、第2にAIである。前者により工場の機械から交通、個人の健康まで様々な情報がデータ化され、それらがネットワークでつながり、これを解析・利用することで付加価値を生む。後者によりコンピュータが自ら学習し、一定の判断を行うようになる。AIを使った自動運転は既に試行段階にある。さらに3Dプリンタにより、複雑な工作物の製造が誰でも可能となる。その中で近年世界的に急拡大しているのがシェアリングエコノミーであり、インターネットを通じてサービス利用者と提供者をマッチングさせることにより、個人の保有する遊休資産を他者に提供したり、空いた時間で役務を提供したりする。自動車運転サービスのUber、民泊サービスのAirbnbの他、特にクラウドワークと呼ばれる就業形態が注目されている。

第4次産業革命時代の就労形態は、大きな流れとして雇用契約の範囲内でも範囲外でも①時間的空間的制約が希薄化していく「いつでもどこでも労働」化、②長期継続的なまとまりのある明確な仕事(job)を単位とする契約から短期的間歇的な仕事(task)を単位とする契約へのシフトが予想されている。こうした社会変化に労働法がどのように対応していくべきかが、これからの大きな課題となるであろう。

労働者が工場や事務所という一定の場所で長期継続的なjobを遂行することを前提として構築されたこれまでの監督型労働条件法制は、「いつでもどこでも労働」化、「jobからtaskへ」に対応しきれず、その有効性が低下して行かざるを得ない。無理に適用しようとすれば、国家が労働者が就労する様々な時間空間や、個々のtaskの発注に至るまで監視するということになり、却って労働者の自由を奪うことになりかねない。その中で労働者の自由をできる限り保持しながら、その労働条件を保護するための仕組みとして、集団的労使関係システムに再び注目が集まっていく可能性がある。日本では戦後企業別組合が主流となり、第2次産業革命、第3次産業革命の時代に適合した企業単位の利益代表システム、労働条件決定システムを構築してきた。しかし、第4次産業革命時代が到来しつつある今、新たな考え方に立脚したシステムが求められているようにも思われる。