贈る言葉

主任研究員  西澤 弘

◆春、旅立ちと新たな出会いの季節。少子化が進行しているとはいえ、毎年この時期には 100 万人以上の若者が職業生活の第一歩を踏み出している。全国各地の卒業式の会場では、社会人になる卒業生に対して期待や励ましの熱い思いのこもった言葉が贈られたことだろう。それを受け取った人は、期待と不安の入り交じった気持ちを抱きながらも新たな生活に胸を高鳴らせて入社の日を待っていることだろう。一方、新社会人を受け入れる職場では、その準備に余念がないことと思う。

アンケート調査をみると、例年、新社会人に対して手厳しい評価がなされている。期待が大きいゆえにかえって評価が厳しくなりやすいのかもしれない。多くの人は、新人をめぐる期待と現実との間には溝があることを知っている。新社会人はこの問題をどのように考え、そして如何に対処すべきであろうか。現実の自分を高め期待に応えられるように努めることがひとつの道であろう。だからといってビジネスマナーやコミュニケーション力の研修を受ければ、自然に仕事ができるようになるというものでもない。

社会人としての成長は仕事を通して促されるともいえる。そうであれば仕事に対する心構えが成長の源泉と考えることができる。この点で筆者の思いは「現在やっていることをよくやる」[1]という言葉に尽きる。これを新社会人に贈りたいと思う。あまりに平凡すぎて改めて意識する必要すら感じないと違和感を抱く人がいるかもしれない。しかし、敢えてこの言葉を贈るのは、与えられた仕事を切磋琢磨して「よくやる」ことが職業生活の基本であるからである。配属された職場の先輩、上司に「後生おそるべし」[2]と言わしめるような新社会人が続出することを期待する。

ちょっと脇道に逸れるが、「後生おそるべし」の後段をご存じだろうか。そこには次の言葉が記されている。

四十五十ニシテ聞コユルナクンバ、コレマタ畏ルルニ足ラザルノミ。

この言葉は、現在やっていることの積み重ねこそが将来のその人をつくると断言している点で小池和男教授の知的熟練論と一脈通じるものがあると考えている。諸賢ならばこの言葉をどのように解釈するだろうか。

外来語と職業

◆この春、新たな職業生活を迎えるのは新卒者だけではない。転職者も同じである。転職活動では、自分の経験・希望と求人情報との擦り合わせが中心になる。人はえてして自分を過大あるいは過小に評価するきらいがある。偏った自己評価では求人情報とのミスマッチにつながりやすい。では、自己認識が正確になるほど、求人情報との精度の高いマッチングに結びつくかというと、そういうわけでもない。それは求人情報に対する理解度が関係するからである。

求人情報は、インターネットや印刷物などを通して大量に提供されている。関心のある分野の求人情報をひとつひとつ丁寧に見る人は少数派であろう。大量の情報を短時間にかつ効率的に探索するときには、社名・職種・勤務地などいくつかの情報に絞って見て行かざるをえない。そのとき名称から仕事内容を判断しにくい職種名では、求職者の関心を引くのは難しいかもしれない。

わかりにくい職業名のひとつは片仮名表記の外来語である。たとえば次の名称で表される仕事の内容がわかるだろうか。

ショッピングパートナー、フットコーディネーター、カーライフアドバイザー

これらは、実際にインターネットの求人情報サイトや企業のホームページに掲載されていた職種名である。いずれも販売の仕事である。

外来語の使用については、明治時代以降、賛否が分かれているが、現在ではあまりにも安易に使われすぎている。職種名も例外ではない。哲学者の九鬼周造[3]のように外来語の排撃に奮闘するほどではないが、筆者も外来語の片仮名職業名を快く思わないひとりである。

職業名を表記するとき外来語の使用はやむを得ない場合以外は避けるべきであろう。外来語では、その言葉の意味を知らないと仕事内容を連想できないことがあり、また、求職者と認識を共有しやすい既存の名称がある場合には外来語を使用する必要性は乏しいといえよう。求職者の立場に立つと、職種名は仕事内容を直感的に把握しやすい名称であることが望ましい。

(2008年 3月 14日掲載)


[脚注]

  1. ^ マルクス・アウレーリウス『自省録』第 6 章 2
  2. ^ 後生可畏。『論語』子罕第九
  3. ^ 菅野昭正編『九鬼周造随筆集』岩波文庫、 pp.22-32.