持続的な賃上げに向け、価格転嫁や新規開業の環境整備、同一労働同一賃金を
 ――「2023年版労働経済白書」

スペシャルトピック

厚生労働省が10月に公表した2023年版労働経済白書(2023年10月公表)は、「持続的な賃上げに向けて」をメインテーマとして取り上げ、わが国の賃金が生産性の伸びほど増加していない状況や、賃金増加による好影響、また、今後、持続的に賃金を増加させていくための方向性などについて分析、論じた。白書は、わが国において賃金が伸び悩んだ背景について、企業の利益処分の変化や労使間の交渉力の変化、雇用者の構成の変化などが名目賃金に対する押し下げに寄与した可能性を指摘。持続的な賃上げに向け、価格転嫁、新規開業に向けた環境整備、非正規雇用労働者の正規転換や同一労働同一賃金などを求めた。

分析結果などを報告した第Ⅱ部「持続的な賃上げに向けて」に絞り、主な内容を紹介する。

<賃金の現状と課題>

わが国の賃金の動向

1990年代半ば頃から、名目労働生産性と名目賃金の伸びにかい離が

白書はまず、50年間にわたるわが国の生産性と賃金の動きについて概観した。物価の影響を考慮しない名目労働生産性・名目賃金は、1970年~1990年代前半まではほぼ一貫して増加したが、1990年代半ば頃から伸びが鈍化。それ以降、名目労働生産性と名目賃金の伸びにかい離がみられる(名目賃金が名目労働生産性に追いついていない)。

1996年以降の1人あたり名目労働生産性・名目賃金の伸びを国際比較した。イギリス、アメリカなどは名目労働生産性も名目賃金も伸びているなかで、日本はともに横ばいで推移。実質でみても、労働生産性は他国に準ずる程度に上昇しているが、実質賃金はほぼ横ばいの状況が確認できた。産業による差をみると、日本では、どの産業でも、他国ほど名目賃金は伸びていない。

賃金と労働生産性・失業率との関係をみると、名目生産性が1%上昇しても名目賃金は0.4%程度しか増加しておらず、また、失業率が1%ポイント上昇すると日本では名目賃金が約1.1%ポイント減少するなどとして、日本の賃金は労働生産性への感応度は低く、失業率への感応度は高いことを示した。

実質賃金増加率の押し下げ要因は、労働時間減少、労働分配率低下など

こうした1人あたり賃金の変動の背景を確認した。実質ベースでみると、日本も時間あたり実質生産性ではイギリスやフランス、ドイツ並みの20%程度の上昇を実現しており、その要因として物価の継続的な低下基調を指摘。実質賃金増加率の押し下げ要因として、労働時間の減少と労働分配率の低下、それに加えて交易条件の悪化をあげた。1人あたり賃金の下押し要因となっていた労働時間の状況や背景についても触れ、パートタイム労働者の比率の上昇が大きく寄与していると指摘した。

過去20年間の労働分配率の低下幅はOECD諸国と比べても大きい

労働分配率を「雇用者1人あたりの雇用者報酬を就業者1人あたりのGDPで除したもの」と定義したうえで、その動向を国際比較した。日本の労働分配率は一貫して低下傾向で、1996~2020年までの労働分配率の低下幅はOECD諸国のなかでも大きい。水準も、足元では他国と比べても低いものとなっている。

産業別でも労働分配率を眺め、日本では特に「金融・保険業」「宿泊・飲食サービス業等」「保健衛生および社会事業等」で低い水準で推移しているとした。

白書はこれらの分析をふまえ、わが国の賃金を引き上げていくためには、引き続き、生産性の上昇に取り組んでいくことが重要だと指摘した。

わが国で賃金が伸び悩んだ背景

不透明感の強さなどから企業の内部留保が増加

次に白書は、日本の賃金が伸び悩んだ背景について、①企業の利益処分の変化②労使間の交渉力の変化③雇用者の構成変化④日本型雇用慣行の変容⑤労働者のニーズの多様化――という5つの要因から分析した。

1つめの要因の「企業の利益処分の変化」では、付加価値額の増加などを背景に企業の内部留保が増加していることを指摘。そうした企業行動の背景として、不透明感の強さをあげた。

2つめの「労使間の交渉力の変化」では、労働組合の組織率の低下や、企業の集中度が高い労働市場の割合の上昇を指摘した。産業中分類と都道府県から日本の労働市場を約4,400に分けてみると、雇用者が特定の企業に集中している労働市場の割合が2012~2016年にかけて上昇しているという。企業の集中度が高い労働市場で賃金が低くなる傾向にあることなどの背景について白書は、「市場が集中的になると企業の交渉力が強くなり、賃金に対して下押し圧力が、労働組合加入率が高まると労働者の交渉力が強くなり、賃金に対して底上げ圧力が、それぞれ生じることが考えられる」などと述べた。

2012年以降は60歳以上雇用者の増加によるマイナス寄与が大きい

3つめの「雇用者の構成変化」では、雇用者の構成変化が賃金に与えた影響は期間によって異なると指摘した。雇用形態や年齢といった雇用者の構成の変化が、統計に表れる平均賃金に与えた影響をみると、1996~2019年はパートタイム労働者が増加したことが、賃金に対して一貫してマイナスに寄与。1996~2012年は60歳未満の雇用者の増加が賃金に大きくマイナスの影響を与えていたが、2012~2019年は60歳以上の雇用者の増加による賃金へのマイナス寄与が大きかった。

4つめの「日本型雇用慣行の変容」では「生え抜き正社員」に着目して、その賃金などを確認した。「若年期に入職し、そのまま同一の企業で勤め続ける正規雇用の雇用者」を「生え抜き正社員」と定義。まず、正社員に占める割合を時系列でみると、生え抜き正社員の割合は長期的に低下傾向にあるものの、2021年時点でも高卒等の正社員の約3割、大卒等の正社員の約6割を占めた。

生え抜き正社員の賃金プロファイルを学歴・企業規模別にみると、特に大企業の大卒等雇用者でフラット化が顕著になっている。その背景として、生え抜き正社員のうち大卒等では、勤続16年以上の者のなかで役職に就いている者の割合が低下し、特に部長・課長級の管理職割合が低下していることなどをあげた。「雇用者の高齢化が進む中で、これまでであれば部長や課長に就くことができた勤続年数が経過したとしても、ポストが限られ、結果として昇進の遅れが生じている」可能性があるという。

賃金が低い事務や運搬・清掃に女性・高齢者の希望が多く、下押し圧力に

5つめの要因としてあげた「労働者のニーズの多様化」では、まず、就業者の構成割合の変化をあげた。60歳未満の男性が就業者に占める割合が大きく低下し、60歳未満の女性や60歳以上の男女の割合が上昇している。しかし、女性や高齢者では求人賃金が比較的低い事務や運搬・清掃等の職業に希望者が多く、求人倍率の低下を通じて、こうした職業における賃金を押し下げる方向に寄与している可能性がある。

求職者の希望条件をみても、「賃金が依然最も重要な労働条件」でありつつも、休日、転勤の有無といった賃金以外の条件も併せて重視されるようになっているほか、希望する労働条件が多様化し、求職者が賃金よりもむしろ労働条件を重視するようになると、相対的に賃金の重要度が低下することから、その結果として、賃金に対して下押し圧力が生じている可能性が考えられると指摘した。

<賃金引き上げによる経済等への効果>

賃上げによる企業や労働者への好影響

最低賃金より5%以上高い賃金掲示で被紹介件数が10%程度増加

賃金が増加することによる影響を確認した。まず、賃金が求職者の応募状況に影響を与えることを指摘。例えば、最低賃金より5%以上高い求人賃金(下限)を掲示すると、フルタイム求人における3カ月以内の被紹介件数が10%程度増加すると紹介した。

賃上げは離職確率を低下させる効果も持つという。男女別・雇用形態別に前の勤め先を辞めた理由をみると、「個人的理由」のなかでは「その他の個人的理由」を除き、「収入が少ない」「労働条件が悪い」は「職場の人間関係」と並んで高い割合だった。また白書は、賃上げは働き続ける労働者のモチベーションや自己啓発にプラスの効果を持つ可能性があることを示した。

賃上げによる経済等への好影響

消費の増加率にはフルタイム労働者の定期給与が強く影響

経済などへの好影響については、マクロの消費にプラスの影響があることを指摘。賃金・労働者数の要素が1%増加した場合に見込まれる消費の増加率をみると、フルタイム労働者の定期給与が強く影響しているとの分析結果が出た。

賃金・俸給額が増加した場合の生産・雇用誘発効果も指摘し、全ての労働者の賃金が1%増加した場合、生産額を約2.2兆円、雇用を約16万人、雇用者報酬を約5,000億円増加させるとの推計を示した。

<持続的な賃上げに向けて>

企業と賃上げの状況

2022年は9割超の企業が賃上げを実施

賃上げを実際に行っている企業の特徴などをふまえたうえで、今後、持続的に賃金を引き上げていくための方向性や、賃金政策の効果を分析した。

労働政策研究・研修機構(JILPT)が実施した「企業の賃金決定に係る調査」(2022年)にもとづき、企業の経済見通しや価格転嫁の状況と賃上げの関係、企業の賃金決定を取り巻く状況を確認。まず、9割超の企業が賃上げを実施し、過半の企業が1人あたり定期給与・夏季賞与を増加させているとした。

また、3年前と比べて、売上総額、営業利益、経常利益、労働生産性のどれをみても、「減少」した企業よりも「増加」した企業で、ベースアップや一時金増額を実施している傾向があるとした。さらに、売上総額等が「増加」すると回答した企業のほうが、「減少」すると回答した企業よりも、ベースアップや一時金増額を実施した企業の割合が高いことを示した。

価格転嫁ができている企業ほど、ベースアップや一時金増額を実施

価格転嫁の重要性も指摘した。仕入れコストなどの上昇分を8割以上転嫁できている企業は1割強にとどまる一方、全く転嫁できていない企業が3割にのぼっているが、価格転嫁ができている企業ほど、ベースアップや一時金増額を実施した割合が高まっているとした。価格転嫁できない理由は、「価格を引き上げると販売量が減少する可能性がある」が約34%で最も高い。白書は「適正な価格による販売・購入が行われるよう、適切な価格転嫁を促し、社会全体で企業が賃上げを行いやすい風潮・環境を整えていくことが重要」と訴えた。

持続的な賃上げに向けて

開業率と賃金増加率の間に正の相関みられる

賃金を引き上げた企業の特徴なども分析した。スタートアップ企業等の新規開業と賃金の関係をみたところ、開業率と労働生産性上昇率の間に正の相関がみられた。また、開業率と賃金増加率の間にも正の相関がみられた。白書は「必ずしも因果関係を示すものではない」としつつも、「イノベーションの担い手となりうるスタートアップ企業が、活発に創業・発展できる環境を整備していくことは、我が国の生産性を高め、結果として、賃金を増加させる可能性がある」と述べた。

スタートアップ企業等では人材採用へのニーズが高いなかで、賃上げに積極的な傾向にあった。売上総額、営業利益、経常利益のうち少なくともどれか1つが3年前より上がっている企業に限ったうえで、1人あたり定期給与増加率をみたところ、創業15年未満のスタートアップ企業等は、増加率5%以上の割合がそれ以外の企業より高かった。

転職から2年後には、転職前企業より年収が大きく増加する確率が高まる

転職者の実態にも焦点をあてた。転職等希望者が増加するなかで、仮に転職した場合に、転職後の賃金がどのように変動するかを確認。転職後の長期的な賃金の増減について確認するため、同一の個人を追跡調査したパネル調査であるリクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」を用いて、転職が賃金増加に与える影響も分析し、転職直後は賃金が減少する確率が高くなるものの、転職から2年後には、転職前の企業で勤続するよりも年収が大きく増加する確率が高まることなどを明らかにした。

非正規雇用労働者の正規雇用転換が、年収増加につながることにも言及。転換は、労働者が成長を実感することを改善させるとも指摘した。

政策による賃金への影響

最低賃金引き上げは近傍のパートタイム労働者に大きな影響

政策による賃金への影響については、地域別最低賃金の引き上げと、働き方改革関連法による同一労働同一賃金の施行の2つの観点から分析した。

フルタイム・パートタイム労働者別に、各年・各地域の最低賃金近傍で働く労働者の分布をみると、フルタイム労働者は、最低賃金プラス50円近辺の労働者割合は上昇しているものの、その程度は小さく、賃金分布に大きな変化はみられない。一方、パートタイム労働者は、プラス100円以内の労働者の割合が長期的に上昇しており、特に2015年以降は、プラス20円以内の労働者割合が大きく上昇している。

こうした結果から、「最低賃金が引き上げられてきた中で、近年では、最低賃金近傍に位置するパートタイム労働者の割合が大きく上昇した結果、最低賃金の引上げは過去と比べて、特にパートタイム労働者の賃金に対して大きな影響を及ぼすようになっている」と述べた。

さらに、2012~2021年のデータを用いて、最低賃金の引き上げがパートタイム労働者の賃金分布に及ぼす影響について、シミュレーションを実施。今後の最低賃金の引き上げは、最低賃金プラス75円以内のパートタイム労働者の割合を上昇させる可能性があるとした。また、最低賃金の1%引き上げは、パートタイム労働者下位10%の賃金を0.8%程度引き上げる可能性があることを示したほか、中位層においても0.7%程度引き上げる可能性があるとした。

同一労働同一賃金の施行は正規・非正規の時給比を約10%縮小させた可能性

同一労働同一賃金の影響では、同一職業内で、正規雇用労働者と非正規雇用労働者の時給は、勤続年数が長くなると差が開く傾向にあることを統計から示したうえで、同一労働同一賃金の施行は、正規・非正規雇用労働者の時給比を約10%縮小させた可能性があるとする分析結果も示した。

さらに、非正規雇用労働者への賞与支給事業所割合を約5%上昇させた可能性があることも指摘した。

(調査部)