第3回 旧JIL講演会
政治に何を求めるか
~労組の政策・制度への取り組み~
(1998年4月15日)

日本労働組合総連合会(連合)会長
鷲尾 悦也

目次

講師略歴

鷲尾 悦也(わしお・えつや)
 1938年、東京生まれ。東京大学経済学部卒業後、八幡製鉄(株)に入社。新日鉄労連書記長、鉄鋼労連書記長、同労連委員長などを歴任。93年より連合事務局長を務め、97年連合会長に就任、現在に至る。
 財政制度審議会、税制調査会、経済審議会等で委員を務める。

プロローグ

 今回このような講演会で話をさせていただく機会を得まして、お顔を拝見いたしますと身内ばかりのような気もして、やりやすいのかやりにくいのかよくわかりませんが、1時間ほどお話をさせていただきます。一般公開の講演会ですので、皆様がどんなことにご関心がおありかわかりませんが、今回はタイトルにあるようなことに絞らせていただきます。質問の時間に、不明な点やご意見がある点についてご指摘いただくと同時に、本日触れなかったトピックについてのご質問もいただければ幸いです。

 本日お集まりの皆様は、労働運動や政治についてご関心の深い方ばかりなので、常識的なことだけを申し上げることになるかもしれません。
 なぜ今労働組合が政治活動に取り組むのか。一言で言えば、政策制度を実現する手法として、政治に求める部分が非常に大きいからです。議会制民主主義であり、間接民主主義の制度をとっているとなると、どうしても政治と選挙を通じて、私たちの考えている政策を実現させる手法が中心にならざるを得ない、ということです。私にとってみれば、これはごく常識的な労働運動の範囲です。
 まあ、そんなそっけない話で終わりというわけにもまいりませんから、現在連合をはじめとする労働組合が抱えている課題、あるいは勤労者、サラリーマンが持っている様々なニーズを反映するためにはどうしたら良いのかということについて、時代的認識を含めて少しお話しし、連合はそれにどう対応していくかということを申し上げることで、このテーマに対するお答えになるのではないかと考えます。

政策推進労組会議の結成

 私も連合の申し子、と自分では思っているのですが、思い起こせば連合結成以来8年、民間連合ができてから10年になります。1976年に政策推進労組会議というものができました。その後、政策推進労組会議が全民労協になり、民間連合になり、連合になった。1976年の政策推進労組会議の発足当時、私は鉄鋼労連の役員をしており、政推会議の非専従の事務局の一員でした。その時は、労働戦線の統一という問題と政策制度の取り組みが連動して動いていました。当時ぼちぼち盛り上がってきていた労働運動としての政策制度に対する関心が、労働戦線統一の組織的な動きとともに強まってきた。過去を振り返ってみると、そういう指摘ができるのではないかと思います。

 1976年の政策推進労組会議-――名前でおわかりのように、政策を推進する会議ですから、当然目的意識としては、労働運動が持っている政策制度についての課題を解決するための労働組合のグループで、旧4ナショナルセンターを超えた組織体として、別列車で走らすことになった。これには2つ理由があります。1つは、先ほども指摘したように労戦統一が4団体の統合方式ではなかなか進まなかったという歴史です。団体間協議では過去のいきさつがあって、なかなか労働戦線の統一はできないだろう。したがって、4団体方式を継続的に進めながら――これは随分配慮しましたが――いわば単産方式、単産の結合体として、労働戦線統一をやろうという意図が濃厚にありました。

 まず「労働戦線統一」という目的があり、4団体の連合方式ではなく「単産引っこ抜き方式で、しかも民間先行で」というのがあって、統一された推進母体をつくるためには何かテーマが必要だったんですね。単純に「労働組合は結束して大きくなったほうが良い、そうしないと社会的に影響力が発揮できない」ということで労働戦線統一をやらなければならないのなら、4団体の方式を追求することも決して間違いではない。しかし4団体方式は、様々な紆余曲折があってデッドロックに乗り上げたことが何度もあり、この方式ではなかなかできないと。で、まず構成組織同士が一緒に運動をすることで労働戦線統一の雰囲気と友好関係をつくろうじゃないかという意識があって、そこに登場したのが政策制度課題なんですね。

散発的だったかつての政策制度闘争

 私は鉄鋼労連出身で産別の役員や単組の役員を行ったり来たりしていたので、十分知っているというわけではないですが、過去の4団体の時の政策制度闘争は、例えば年金ストをやろうとかいうような、ごく限られたことでした。年金問題を取り扱うために「4団体で横断的にやろう」というような動きで、いろいろ重要な話をしていたと思います。

 しかし本格的な経済政策や税制をどうするか、といった国の政策に対して、労働組合が4団体の中で共通の認識を持ち提言をすることは、旧団体の時にはあまりなかったんですね。例えば税制改正をする際に、政府税調や自民党の税調でいろいろな議論があって、様々な税制の問題が出てくる。自分たちに関係のある、例えば退職手当引当金の課税限度額の問題について、「どうも政府税調でいろんな議論があるようだ」とか、会社からも「こんなことだと退職金が払えなくなる」というささやきを聞いたりすると、各労組が一生懸命、大蔵省や党に対しても、当時の社会党や民社党を通じて運動を行ったり要請書を持ち込んだりする。場合によっては1月、2月段階で、国会周辺で請願活動を行うというような政策制度の取り組みがあったんですが、「日本の税はどうあるべきか」というような本格的な政策問題については議論は十分とは言えなかった。

 私の目から見ると、過去の4団体の時の政策制度の取り組みというのは、非常に個別的、散発的だったと思います。もちろん、労働者にとって関係のある政策問題については、関心を持って国会闘争等をやっていましたが、例えば、自分たちの支持している社会党や民社党を支援するのは、労働者にとって必要な政策を実現するためだ、という認識はやや希薄でした。労働者の権利をきっちりと守るというような意識の方が強かったのではないかと思います。これも大事なことなのですが。

 したがって、本格的な意味で、政策問題を議論するという方は非常に少なかった。当時、私は駆け出しの組合役員で、親分衆は賃金の問題とかストライキのやり方はよく知っているけれど、政策は全然わかってないなという気持ちが若手幹部の中にもあり、「政策を勉強しなければいけない」という機運も、当時の若手幹部の中に生まれていました。そういう意味から言うと、たまたま労働戦線統一という時に、4団体方式ではなくて単産方式で戦線統一を行うテーマとして、しかも時代的なニーズとして、政策制度は非常に重要だという認識が少しずつ広まったところで、政策推進労組会議なり全民労協が、政策を中心にして4団体を乗り越えた結集体をつくり、運動体としてだんだん発展したという経過があると私は思います。

労使の所得配分から社会的配分へ

 時代的なニーズはというと、昭和50年から60年代の初めぐらいで国民も勤労者も高度経済成長がまだまだ右肩上がりが続くだろうという意識でしたが、徐々に、単なる労使間における所得の配分ということだけでは国民生活、あるいは勤労者の生活条件の改善は難しいというような社会情勢になってきた。

 私は昨年の運動方針でも、また3年前の運動方針でも、言葉の使い方は未成熟でしたが「成熟化への挑戦」というようなテーマで問題提起をして、非常に誤解されました。私は今でも、3年前の議論の私に対する連合内部のご批判は的を射ていないと思っています。

 背景にあるのは、労使がある程度配分を決めることによって、これまでの、国全体の資源配分におおむね準じた付加価値配分ができたという仕組みから、もっと社会的な配分というものへ転換することを意識しなければいけない。所得の再配分機構についても基本的に労働組合が意識して問題提起をしなければならない時代になってきたというのが、私は成熟化時代の1つの特徴だと思うわけです。

 それは春闘のメカニズムにもかなり影響しています。極論すれば、かつては労使の付加価値配分が日本全体の付加価値配分を決めていた、ということが春闘方式に如実に現れていると思うんです。まだ高齢化社会が進んでいない、現役を引退して余命がそれほど長くないというような人口構成のもとでは、勤労者の所得配分さえある程度決めればすべての所得配分が決まる、というメカニズムが春闘によって完成するわけですね。

 今でもその現象は続いていますが、金属労協を中心とする集中決戦日にほぼ相場が決まると――集中決戦の時にJCが回答を引き出して決まるJCの賃上げ率と、最終的に4月末や5月末に集計した賃上げ率が、どうして全く変わらないのか。それぞれの産業別や単組では随分違った回答が出ているにもかかわらず、結局は、率で言うとほとんど0.1とか0.2ぐらいしか違いがない。誰かがJCの賃上げ率に合わせろと命令しているわけでもないのに、結果的にそうなってしまう。そうすると、民間の賃金はすべてその相場制で決まってくる、極言すればそういうことになるんですね。

 そして中労委の仲裁裁定も、公務員の人事院勧告も、すべて民間準拠で決まるからそれに連動する。そしてさらには、直接連動はしていないけれど、例えば公共料金とか米価とか、あるいは年金の水準(年金はもちろん物価連動も加わりますが)、そうしたようなものもある程度賃上げ率というものを頭に置いて値段が決定づけられる。これまた所得配分を規定づけるわけで、それで済んでいたんですね。

ナショナルセンターが社会的配分に関与する意味

 ところが最近のような状況ですと、労使の配分をどうするかということよりも、例えば高齢化が進むと、高齢者と現役世代の所得配分をどうするかということについては、財源の問題もあって労使の配分だけで決めるわけにいかない。社会保障制度が国際的に見てもまあ相対的に高い水準になりますと(私どもから言えばまだ不十分ですが)、社会保障制度の幾つかの、例えば年金と保険とか介護だとか、失業雇用保険だとかいうような社会保障制度の配分の問題についても、政策面で決定づけていかなければいけない。これは社会的な配分になるわけですね。企業の中の労使の配分から、社会適な配分によらなければならない事柄が圧倒的に増えてくるというのが、こうした成熟化社会の特徴ではないかという問題指摘を私はしてきたわけです。

 そうなると、これは男女の配分の問題もあるでしょうし、あるいは地域における社会的な配分の問題もあるでしょうし、公共事業等に対する様々な批判的な意見も、そうしたものに根差しているんだろうと思いますが、そうした社会的配分に大きくシフトしてくる。

最近は「連合の組織力が弱いから春闘が目立たないのではないか」というご指摘もあり、それも指摘として甘んじて受けなければいけない部分もありますが、春闘で所得配分が決まる経済的な比重はやはり下がってきている、と思います。例えば今年でも2・数%の賃上げというようなことで、定期昇給部分を引くと、たかだか1%か2%程度です(そんなことを連合幹部が言っちゃいけませんが)。ですからマクロに見て、日本経済全体の中で、賃上げが1%なのか、0.9%なのか、あるいは1.5%かという問題の影響は非常に小さくなってきています。

 もちろんミクロの世界では違いますよ。企業経営にとってはそういうものが非常に大きな影響を与えますから、真剣に労使が議論するのは当たり前ですが、マクロ経済という意味合いから言うと、年金をどうするか、社会保障をどうするかということの方が、比重として大きい時代になるのではないでしょうか。

 税制の問題を考えたらわかるように、例えばこの間の2兆円の特別減税を見ても、1度徴収されたものが戻ってきただけなので景気対策になるはずはないんですが、2兆円の特別減税で5万円強のお金が返ってくるとなると、月に4千円程度のベースアップに相当するわけです。しかし、財源をどこから求めるか、などいろいろあって言い出したらきりがないですが、表面的に見ると2兆円の減税は少なくとも4千円、5千円の賃上げに相当するということです。

 そうなると、今年のベア分は、それこそ千円、2千円ということですが、議論をしている労使のエネルギーという意味から言うと、100円、200円をどうしたという話なんですね。例えば昨年並みを確保するとか、実質賃金の確保というのが連合の目的ですが、減税が通ったからそれでカバーされた、という言い訳を私はしているのではありません。そのような減税は、財源をどこからかとってこなければいけないので、国民生活に影響がある。どこかから財源をとってきて2兆円の減税をするというのは、所得の再配分です。この所得の再配分にどの程度自分たちの意見が言えるかということを、もっと強く認識せざるを得ない状況になってきているということです。

 「社会的配分」というものに、連合が運動としていかに関与するか。連合800万に限らず未組織の労働者にも間接的に影響を与えるということになったら、春闘の相場形成だけでは、勤労者所得というものすべてを規定づけることはできない、その他の部分の方が非常に大きい。

 例えば、プラスの点で特別減税のことを言いましたが、マイナスで言えば、「消費税2%アップは、そのまま連動するわけではないが2%の賃下げだ」と言い切ってしまうと、2%の消費税引き上げでどのように所得が移動するかについて、我々は十分意見を述べなければいけない。

 そうした場合に私が1番問題にするのは、戦後50年、なぜ日本の労使関係が所得配分にあのように大きな影響を持ち得たのか。ある意味では徹底的な話し合いと合意形成が行われてきた。そして労組法や労働基準法等の労働3法、その他の労働諸法によって、自分たちが自主的に決めることが担保されていたからです。自分たちの世界で、労使、企業という世界で、お互いが合意を形成し、団体交渉する義務がある。

 団体交渉は有名無実化しているとか、労使協議がどうとかという話は、細かく言えばありますが、話し合いをする制度というのは基本的には労働諸法で担保されているんですね。少なくとも労働組合をつくりさえすれば、自分たちが話し合いをして自主判断をするということが担保されている。しかも労働協約上は、労組法でも労働基準法でもそうですが、主要な労働条件については労働組合が合意しなければ実施できないということになっている。もちろん契約ということを考えたら当然ですが、団体交渉が義務づけられ、自分たちの条件を決定することが担保される。これが、労使交渉における所得配分に自分たちが参画しているということのベースなんですね。

間接民主主義下での政策参加

 ところが、間接民主主義で、国民1人1人が議員を選び政策の決定に参加することは担保されていると言いますが、これは単なる原則にしかすぎない。しかし、それ以外の方法があるかというと、ないわけです。民主的なルールが決まっている先進諸国をみても、間接民主主義の制度ですから、例えばアメリカのように州法が優先し比較的分権が進んでいるところもあれば、国が中央集権的なルールをとっているとか、いろいろ性格の違いはあるけれど、間接民主主義という点は、どこも共通なんですね。

 しかし、労使交渉のようにきめ細かく、お互いが状況を認識し、すべて理解した上で合意形成に参画する、場合によっては拒否する権利がある、ストライキやサボタージュで抵抗することができる。間接民主主義では、せめてもの抵抗権としてリコールがあるとか、いろいろありますが、非常にわずかな権利でしかなくても、政策で所得の再配分をすることの方が国民の生活に大きな影響があるということになれば、小さな権利と大きな影響という形でアンバランスが起きているんじゃないか。これは日本に限らず、すべての先進諸国で同じことが言えるのではないかと思います。

 これには幾つかの方法があると思うんです。直接民主主義的な手法を間接民主主義の仕組みの中に、制度として織り込む方法がある。それからもう1つは、最近は規制緩和論だとか、昔で言えば自主管理論などというものがあったんですが、広い意味での所得配分の機能を、政府に与えるのではなく自分たちが自主的にやるという方法。この2つの方法はいずれも、すべてそれでカバーできるとはなかなか思えないですね。

 そうなると、社会的な政策決定に対する参加を間接民主主義だけじゃなくて、別のルールで参加できるような仕組みをつくることができるか、ということになる。その仕組みをつくるためには、すべての人が同じように情報を得る権利を持っていないと交渉になりません。単純に情報が公開されなければいけないということだけではなく、国民が政策の決定や政治に対して参加するために、情報を平等に持っていなければならないという意味での情報公開なんです。

 企業の団体交渉はその点についての条件整備はできていて、戦後50年の日本の労使関係の中では、少なくとも自分たちが交渉に加わって物事を決定するために必要な情報を受けることができる。その上で、自分たちが要求することができ、なおかつその要求について相手側が検討した経緯についても説明義務がある。

 しかし政策制度については、全くないとは言えないけれどかなり希薄で、情報はなかなか提供されていない。労働組合だけじゃなく、財界でも農業団体でも、医師会あるいは健保連、さまざまな集団、すべてがその意味で情報を得ているとは言いがたい。なおかつ要求を提出するというメカニズムも労組法と違って保障されていません。

 余談になりますが、最近私たちは自民党にいじめられていて、「連合との政策協議はやらない」と言われる。なぜやらないかと聞くと「連合は健全な労働組合じゃない」と言うから、ああ、そうですかと帰ってきました。それで、今月13日にようやく政労会見をやりました。自民党からは官邸に「連合は健全な労働組合じゃないから、政労会見なんかやるべきではない」、こう言うんですね。確かに、断られても連合として担保する法律もないし、政府に連合と会見をする義務はないんです。例えば労働協約のルールから言うと、団体交渉は、労使合意ができなければ実施できない項目を話し合います。労使協議会とか経営協議会などの場では、組合は意見は言えるけれども決定権や実施権は会社にある、というものを取り扱う。それでも労使協議のシステムは労働協約で結んでいるから、会社には義務がある。そういうのは政府には全然ない。ましてや政党にはなおさらない。

連合の政策要求は陳情扱い

 6月になると概算要求があるので、私たちは政策問題をまとめていろいろな省庁に要請に行くんです。労働省、通産省、経済企画庁、厚生省――このうち幾つかはインフォーマルで別に法律に何も書いてないですが、例えば通産省で言えば、産業労使懇談会という名前で年に2回、と文書を取り交わしてやっています。これはいつでも破棄できる約束事ですが、大臣が出て来てくれるから、これは良いんです。

 ところが建設省や運輸省では、連合の政策要請ということで日程を組んでくれるんですが、「今日の何時から大臣がお会いします」、こう言うでしょう。それで、時間になるとどこかの地方議員みたいな人が書類を抱えて、どやどやと出てくる。「はい、お次。連合の陳情の方」と、こう言う。陳情と言われてガクッと来ますね。私たちは陳情のつもりはなくても、よく考えたら、陳情なんですね。

 はっきり言って、話し合いの場を設定するルールさえない。連合の政治活動がどうかという前に、国民参加の政策決定のメカニズムの問題です。日本全体で政策制度をつくる時に、合意形成で直接民主主義的なルールをつくろうといっても無理があることは承知しています。日本の政治経済社会において、利害集団が複雑に絡まって、市民運動なんかも多く出てくる。
 NPO法案の議論は、そういうものにも基本的にかかってくるんですね。法人格を持たせたら、どれだけの権利を持ってどういうふうに取り扱うかという問題が起きてくる。NPO法案の根っこにあるのは、NPOをどう社会の枠組みの中に入れていくかという基本的なルールづくりがなければ、あくまでも任意団体だと。法案で認定されても、「はい、お次の陳情の方」となると思うんです。先進諸国が、すべての国々がNPOを有効に活用しなければならないという時、社会的な枠組み、ルールづくりができるかどうかは、実はもっと議論しなければいけない。これが私の基本的な認識です。

国民が政策決定に関与する方法

 ですから、先進国のような成熟化した社会構造になった場合には、間接民主主義だけでは国民の声を吸収することは難しい。もちろん国によって国民の声を吸収するメカニズムにはいろいろなやり方があります。日本が1番欠けているのは、実は政党のメカニズムなんですね。個々人が政党に対してどう関与するかという時に、日本の政党との関わり合い方は、労働組合を通じて政党と関わるか、あるいは市民団体を通じて関わるか、あるいは政治家個人の後援会に入って政党に関わるかということなんです。

 少なくとも私たちがある程度知っている欧米、特にヨーロッパの政党組織と地域、個々の国民、市民の政党との関わり合い方というのは、もう少しすっきりしたものになっていますね。これは政党法で保障されている部分もありますが、政党の中央組織がかなり自由に、自主的に、それに参画するような仕組みができている。これは何も労働組合や市民団体、政治家の個人の後援会を通じてとかいうことではなく、政党の地方組織に窓口が開かれていて、そこに参加して意見を言う権利を得る。例えば、イギリスの小選挙区制における候補者の擁立のための予備投票というのは、政党の地方支部で党費を払って参加権を得て、その政党を通じて、政策実現に個々の国民がその声を反映していく。

 それから、もっと社会的な枠組みの中でということになれば、北欧型の協同組合のような考え方ですね。この考え方は、自主的に経済や社会を運営するということで実現するというやり方でしょう。労働組合の組織率が上がらないからうらやましがって言うわけじゃないですが、かつて社民党政権が続いた北欧の労働組合は、年金を労働組合が扱っているんですね。したがって、労組組織率が100%に近くなるのは当たり前です。企業年金というのは日本で言う厚生年金的な3階立て、上積みの部分は労働組合のルートでやっているので、労働組合に入らないと年金制度に加入できないという仕組みのところがあります。年金等の制度について言えば、労働組合に参画することで処理されるわけですから、特段その問題について政治に関わって意見を言わなくても、その中の枠組みで議論して、制度を決めるのに参加することができる、こういうようなところもあります。

 日本の場合はみんな中途半端で、国民1人1人が政策問題についての決定に関与する、良い意味で介入できるところが非常に希薄だと私は思います。

20世紀に行われた様々な試み

 そうなると、本来的にシステムをどう変えるかという議論の前に、直近の問題として、今ある仕組みを有効活用して自分たちの政治的な要求や主張を取り入れさせようということです。連合として自分たちの生活を守る、あるいは生活を向上させるために適正な配分をさせるということで、財政構造改革の下の財源不足の中で、財源の配分をいかに自分たちに有利にするか、もっと大義名分で言えば適正に配分をさせるかに取り組もうとすれば、政策制度の取り組みを強化する。そして、政策制度の取り組みを強化するためには、どうしても政治に関わっていく、政治に影響力を与えなければいけないということになるわけです。

 最近、自民党の方々からもよく言われる話ですが、かいつまんで言えば、「あなたたち、政策が実現すればいいんだろう。それなら全面的に自民党を支援したらどうか。そうしたら言うことを聞くよ」こういうことです。これは冗談ととっていただきたいのですが、私は、労働組合がもともと持っているレゾンデートル(存在意義)というか、基本的な理念はやはりあるし、なければいけないと思うんです。

 そこで、政策制度を決定する社会のフレームワークと具体的な政策ということから言うと、20世紀の間では、各国では社会の枠組みについては、いろいろな試みや実験が行われました。最も壮大な実験は、ソ連の共産主義社会だと思います。そして現在のところ、相対でいい選択ができる先進諸国の政治や経済や社会のフレームワークというのは何かと言うと、基本的には市場経済というのをベースにしなければいけないだろう、ここまではほとんどどこの国々も共通なんですね。

 ソ連の市場経済がうまくいっているかどうか、あるいは社会主義的市場経済──中国の人たちがどういうことを言っているのかはわかりません。社会的市場経済というのはドイツやイギリスの労働組合が言っているんですが、社会的市場経済と社会主義的市場経済はどう違うのかと。昔、民主社会主義と社会民主主義とはどう違うと、随分議論したことがあります。いずれにしろ、中国ですら共産党の1党独裁の国で、社会主義的と枕言葉はつくけれど、市場経済だと言っている以上、基本にしなければいけない社会全体のフレームワークは市場経済であるということは間違いないだろうと思うんですね。

 それでは、市場経済を前提にするという時にどんな考え方があるのか。先進諸国で見られるように、多少濃淡はあっても、市場経済にできるだけ任せるか、あるいは市場経済に介入してコントロールするか、あるいはコントロールをできるだけ避けるかというような対立軸ではないか、と思うんです。

 そうなりますと、私どものよって立つ基本的な考え方は、これまでの原始的な資本主義社会の運営、19世紀から20世紀にかけてたどってきた歴史のプロセスから言いますと、共産主義がその国の運営に対して非常に能率が悪い、それで市場経済が基本であるというふうに我々が学習したと同様に、市場経済といいますか、マーケットだけに委ねていたのではこれまた大きな問題があると、私たちのグループは思うわけです。

チャンスの平等か、結果の平等か

 しかし、2つの失敗がある。原始的な資本主義の運営の失敗をただすために、共産主義なり社会主義というものが出てきたが、これも失敗だった。それじゃ、元へ戻って、原始的なレッセフェールで運営するというような市場経済の運営が良いかというと、これも大きな間違いを犯した。市場経済の失敗は、経験則からいっても必ずあるわけで、これをどう修正するか、あるいは失敗をできるだけ少なくするようなフレームワークづくりはどうか。労働者、弱者、強者という意味から言うと、弱者の方に属するグループの主張としては、市場経済の失敗は社会的な弱者に影響が強く出るので、市場経済にいかにして介入して失敗を少なくするかという立場に立つ、これが2大対立軸だと思うんですね。

 よく言われるように、「チャンスの平等」だけ保障されれば良いのか、あるいは「結果の平等」も織り込まなければいけないのかという違いは、やはり対立軸としてある。個別政策を展開する場合には、どうしてもその点があるのではないかと思います。

 そうなると、ぐっと具体的な話ですが、選挙制度によって2大政党になるのか、3大政党になるのか、小党分立になるのかというのは、制度によっていろいろ変わりますから、あえて2大政党でなければいけないということではない。日本の政治制度は、現在のところ、小選挙区制と比例代表制とが組み合わされて回っており、3つか4つ対立軸があっても良いのですが、2大対立軸ということになると、市場経済により多く委ねるのか、市場経済をコントロールする仕組みをつくるのか、の2つに分かれるわけです。

 同じ市場経済に対する物の考え方、社会民主主義の考え方でも、ドイツ社民党が考えているのと、イギリス労働党のブレアが考えているのとでは少し違うようです。イギリスTUCと、ドイツのDGBの方針の中では、この市場経済に対する考え方は微妙に言葉が違っています。ドイツの場合には「市場経済の失敗を修正する」と明確に書いています。TUCの方針は、当事者が参画できるような仕組みであって、市場経済の失敗を修正とは書いてないですね。イギリス労働党の政策もそうらしいですが、修正するとは書いてない。しかし、市場経済の運営についてステークホルダー、当事者が参画できるようにする、こういうことが書いてあるんですが、これも同様に市場経済自体にすべて委ねるのではない、政策の中心に理念として提示した上で、個別政策に即して具体的に対応していると私には見てとれるわけです。

 しかも、国際的に見るとEU15カ国のうち12カ国が、連立政権も含めてですが、社会民主主義。市場経済の失敗を修正するということになるのか、その枠組みに参画するということで良しとするのか、ニュアンスの違いはありますが、12カ国、さらにドイツ社民党が今年の選挙で勝てば13カ国になるだろうと言われているんですね。

 そういう点から言うと、私どもは個々の政策の問題は別として、市場経済の失敗の修正をするための政策というのは何か、結果の平等を若干なりとも担保するということは何かということが1つのテーマになると思います。

労働側と公益側の認識のギャップ

 どうも審議会における労側の受け止め方は、私どもよりはるかに、政府の規制緩和政策について「押しつけられた」という意識が強く、これを受け入れることによって労働側の主張が敗れた、という受け取り方をされています。私は、この点について少し公益と労働の間に認識のギャップがあったのではないかと思いますが、正直に言うと、私は政府の規制緩和推進計画に従って審議会が何かやらなきゃならないとはあまり考えていませんでした──確かにそう言われればそうで、あるいは労働省の事務当局はそういう意識だったかもしれませんが、これについては、日本労働研究機構の高梨会長も派遣と職業紹介を扱う中央職業安定審議会をやっておられますが、やはり審議会の意向を無視して閣議で勝手に決めるのはおかしいんじゃないかということを、しきりに大きな声で言っておられて、私も全く同感でした。ですから、政府の規制緩和政策を審議会がそのまま鵜呑みにして──あるいは、閣議決定だからやらなきゃいけないのかもしれませんが――という意識は、あまり私どもにはなかったのです。むしろ規制緩和というのは、新しい基準法の全体の構想から見れば攪乱要因だったと私は受け止めています。

TUCのステークホルダーアプローチに学ぶ

 もう1つ、イギリスTUCのステークホルダー・アプローチというものは、政策制度決定にどのような参加のメカニズムをつくるかということに対しての主張なんですね。これを言うと、役所の方は「審議会でご意見を聞いています」と言うかもしれませんが、審議会程度ではだめなんです。

 連合は審議会へ出る時は、連合の機関である程度基本方針を議論し、それを持って審議会へ参加しています。しかし、いわゆる消費者代表と称する方々の中には、とてもそんなことはやっていられない、という方もおられますし、学者にしても、個人としての意見なのか、全体の世の中の現実を分析した上で発言されているのか、よくわからないケースがある。審議会がステークホルダー・アプローチだなんて、私は全然思いませんね。

 ですから、場合によっては「審議会は全廃」というのも、僕は良いと思うんです。ただし、ステークホルダーというような形で、政党、政治家や、官僚に任せるのでない仕組みをつくることができるかどうか。相当トライ・アンド・エラーを繰り返さないとできないと思うんですが、1番大事なのは「決定に参加をしよう」という人たちについて合意形成できるようなメカニズムがあるか、ということです。

 そこには民主的な討論がなければいけない。手を挙げた人だけが勝手なことを言うのではなく、当事者の意見が反映できる仕組みになっているかどうか。労働組合は民主的過ぎるほど民主的です。その意味で、労働組合の組織運営は完璧にステークホルダー・アプローチになっているんです。組合員の組合離れを防がなければ、と一生懸命いろいろなことをやるわけです。情報提供でも随分いろいろ工夫をしています。情報を提供した上で、ステークホルダーたり得るような機能を持とうとしているということですから、社会的な仕組みでそれをやるのは大変なことだと私は思います。

 したがって、その仕組みをつくるということと、それから自分たちの活動を通じて、修正させるための主張をするということになる。イデオロギーでレッテルを貼ると難しいんですが、いかにして市場経済を修正し、しかもその決定に参画できるかということについて問題提示するグループを育てることが、私たちの労働組合として、組合員の政策に対する関与を強めることになると思っています。

対決型から対話型へ

 そうした基本的な問題と、個別の短期的政策をどう考えるかということについて、連合の政策を実現するためには少なくとも、「陳情」扱いで「話し合い、協議だ」というのは限界があると思っています。私はかつての総評に所属していた鉄鋼労連の出身です。歴史的な経過があって鉄鋼労連は総評路線を批判しており、私自身も批判的でした。「対決型労働運動だ」、こう言っていたわけですね。(中へ入ってみたらそうでもない部分があったんですが。)

 それに対して、私たち鉄鋼労連は対話型だと。ストライキはできるだけ避けて、話し合い重視だ。労使関係においては、対決型から話し合い重視へと移るのは、ルールが決まっているので比較的中身を強めることはできるんです。ストライキをせずに実質的に自分たちの主張を通すことは、それなりにできます。その延長線で、反省もありますが、政策問題についても「対決型から対話型」と言っているんですね。

 この基本的な考え方は間違っていないと思います。かつての総評、同盟の政策制度の闘いというのは何かと言ったら、日比谷野音で決起集会をやって「年金改悪反対、消費税反対」と言って、国会の前へ行くと議員さんが手を振る、こういう話ですね。あるいは議員会館をぐるぐる回って、議員先生方に「これに賛成ですか、反対ですか」とマルをつけてもらうような大衆行動をやる。あるいはそれぞれ地域で大衆行動をやって盛り上げを図る。これだけなんですね。

 私は大衆行動というのは、実は身内向けだと思うんです。こういうことをやっている、と認識してもらうためには、大衆行動は絶対必要なんです。ところが、議員面会所で手を振っている議員には、そんなことで圧力をかけていることにならない。政党や議員に本当に圧力をかけるんだったら、選挙で当選させるか、落とすかしなければいけない。私は民間育ちで、対話型で労使関係を築いてきたという自負もありますし、今一緒にやっている僕の仲間たちも対話型でやろうとやってきたんです。

参加型のしくみづくりもまず選挙から

 政策推進労組会議がやったのは、政党との政策協議や各省庁との政策協議です。実はもう20年以上やっている。ところが、とどのつまりは、「はい、お次の陳情の方」ですから。これではだめだと。対話重視は常に持っておかなければいけない。自分たちの考え方を、対話を通じて、討論を通じて相手側に理解してもらう。自分たちの意見が100%取り入れられないまでも、人間は協議することで相手に影響を与えることができる。これは人間社会の基本的な枠組みですから、話し合いは依然としてやらなければいけない。

 しかし本格的に相手にわかってもらう、労使関係で言えばストライキに近いような話は、あるいはストライキまでいかないでも、例えば私たちが労使交渉で言うのは、「世間に比べて低い回答を出したら、従業員や組合員の勤労意欲が失われて企業の活力がなくなる」、こういうブラフが一番強いですね。残念なことに、「貧しきを憂う」んじゃなくて、「等しからざるを憂う」という言い方しかできないところに労使交渉の瑕疵があるんです。本当は絶対的な意味で、貧しきを憂うことによって、絶対こうでなければいけないという決議ができれば良いんですが、よくわからないものだから、等しからざるを憂えている。「よそに比べて低いのは何だ」という文句は相当強い力で圧力がかかるんですが、絶対的な話ではないので、今年みたいに景気が悪いと賃上げがろくにとれないことになるんです。

 連合会長が春闘総括をここでやってはいけないのですが、各構成組織の組合の人たちが一生懸命やってもこれだけ景気が悪かったら、そんなにとれるわけないです。そうなると、これも政策制度でしょう。景気を良くするようなことをする方がずっと早道だと言う経営者もいる。「会社に一生懸命言うより、連合に入っているんだから政党に言ってちょうだいよ」と言った経営者がいるそうです、団体交渉で。それも1つの真理ですね。これも政策問題ということになってしまうということです。
 そうなると残念ながら、先ほど言った原則論で、社会的な枠組みとして、直接民主主義的なルールを取り入れて参加型のしくみをつくるのは、すぐには実現できない。その枠組みづくりだって、政党に問題提起してもらわなければ制度にならないわけですから、選挙で勝つしかない。

「自民党に代わり得る政治勢力」にこだわる理由

 私は最近とみに自民党に批判されておりますが、どうも誤解が多いんです。私が議員秘書を2年やったりしたので、政治好きだと思われている。まあ嫌いではないですが、嫌いとか好きの問題ではないんです。私の日ごろの行動やスタンス、顔つきを見て、「あいつは政治が好きに違いない、だからやっているんだ」と思われているんですね。けれども、私は基本的にまず、最近の先進国の全体的な対立軸の提示とグローバルスタンダードと言われるような国際的な枠組みの圧力と、それから日本が進めようとしている構造改革の進め方を見た場合に、やはり我々のよって立つ基盤で主張し、国民に選択してもらうことが大事だと思います。

 にもかかわらず、そのようなテーゼを提起できるような自民党以外の政党が全くないというところに私は問題意識を持ったんです。昨年は連合が一生懸命「減税しろ、減税しろ」と言ったのに、今の新しい政党の中には「構造改革が先だ」という政党が多いんです。その点については、私たちは必ずしも100%信頼をしているわけでもない。しかし自民党の中にもいろんな人がいるからレッテルを張っちゃいけないけれども、よって立つ基盤から言うと、自民党という政党は、最後の最後になったら市場経済に委ねるというスタンスをとる。皆さんもそういうご認識をお持ちだろうと私は思うんですね。その意味から言うと、もう一方の対立軸を提示した上で、多少違いがあっても、基本的な部分を提示した上で国民に選択してもらう、こういうことをやらないとだめだと私は強く思っています。

 「中央公論」の12月号で、タイトルはおどろおどろしく、連合は再び政治に挑戦すると書いて、中身はそんなことは少ししか書いてないんですが、私は問題提起しておきました。現在の政治状況を解決するために、やみくもに自民党に対立する政党をつくっても、十分な政策の討論はなされていないのも承知しています。集まっている人たちも同床異夢だということはわかっています。「非自民というのは政策にならない」という批判があることもわかっている。けれども、少なくとも自民党とニュアンスの違う政党が1つできることで、国民がそこに対して発言する、選挙で投票する、問題提起できるようなルートをつくることも大事だと思うんです。

 昨年暮れ、新進党が解散しました。その際、小沢一郎党首が「純化路線をとる。政策的な違和感のあるところが一緒にいるのは問題だ」とおっしゃいました。これは非常に的確な言葉だと思うんですね。ですから、この間お目にかかったとき、敬意を表しておきました。

 私はガラガラポン論者と言われているんですが、私が鉄鋼労連時代に言ったように、理想から言うと今の政党を全部解散して「この指とまれ」でこっちの軸とこっちの軸で集まって、最大公約数として2つの選択軸ができるのが1番良いと思うんですが、なかなかそうはいきません。政権を持っているという権力で集結している部分があって、新しい民主党は非自民ということだけが対立軸、自民党は政権があるということだけが対立軸、というようなことで現状には十分な満足は得られません。しかし第1歩として、そうした対立軸を提示した上で、どのようなやり方が良いか国民に選んでもらうために、こちら側の対立軸として、やはり自民党に代わり得る政治勢力の結集に血道を上げざるを得なかった、こういうことだと思うんですね。

 最後のところは少し言い足りなくて恐縮ですが、問題提起を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

―── 了 ──―