2029年度までに物価上昇を年1%程度上回る賃上げのノルムを定着させる
――「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2025年改訂版」を閣議決定
賃上げに向けた政府の政策方針
政府は6月13日、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2025年改訂版」を閣議決定した。改訂版は、「賃上げこそが成長戦略の要」との考え方のもと、新たに、2029年度までの5年間で、「物価上昇を年1%程度上回る賃金上昇を賃上げのノルム(社会通念)として我が国に定着させる」ことを目標に掲げた。ノルム定着に向け、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の実行を通じた中小企業・小規模事業者の経営変革の後押しと賃上げ環境の整備などを打ち出している。
賃上げこそが成長戦略の要
「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」は、「成長と分配の好循環」と「コロナ後の新しい社会の開拓」をコンセプトとした新しい資本主義を実現していくために内閣に設置された「新しい資本主義実現本部」(首相が本部長)が開催する「新しい資本主義実現会議」でとりまとめ、閣議決定している。「グランドデザイン及び実行計画」が改定されるのは今回が3回目。
2025年改訂版は、「賃上げこそが成長戦略の要である」との考え方を明確に打ち出しているのが特徴だ。
春季労使交渉での賃上げが33年ぶりの高水準となった昨年をさらに上回って2年連続で5%超の水準となったことや、過去最高の水準となった設備投資、600兆円を超える名目GDPなどを例にあげ、「30年間の長きにわたるデフレ経済から完全脱却する歴史的チャンスを手にしている」と強調。
「我が国経済は、現在、『賃上げと投資が牽引する成長型経済』へと移行できるか否かの分岐点にあり、この成長型経済を実現するためには、現在の賃上げのすう勢が、我が国の雇用の7割を占める中小企業・小規模事業者、地方で働く皆様にも行き渡るように取り組むことで、賃上げを起点として、賃上げと投資の好循環を確実なものとし、さらにその好循環の拡大と加速を図ることが重要」だとした。
そのうえで改訂版は、「2029年度までの5年間で、日本経済全体で、実質賃金で年1%程度の上昇、すなわち、持続的・安定的な物価上昇の下で、物価上昇を年1%程度上回る賃金上昇を賃上げのノルム(社会通念)として我が国に定着させる」と宣言。
賃上げのノルムの定着のため、賃上げと投資がけん引する成長型経済の実現に向け、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の実行を通じた中小企業・小規模事業者の経営変革の後押しと賃上げ環境の整備、投資立国の実現、スタートアップ育成と科学技術・イノベーション力の強化、人への投資・多様な人材の活躍推進、資産運用立国の取り組みの深化、地方経済の高度化などに官民が連携して取り組むと表明した。
「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」などが政策の柱
各取り組みの内容を詳しくみると、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の実行では、①価格転嫁・取引適正化②生産性向上投資③事業承継・M&A④地域で活躍する人材の育成・処遇改善⑤最低賃金の引き上げ――の5項目が柱となっている。
①価格転嫁・取引適正化
自治体での最低制限価格制度の運用を徹底
このうち価格転嫁・取引適正化では、中小企業・小規模事業者の賃上げと経営変革の原資の確保のため、地方の中小企業・小規模事業者の需要の多くを占める自治体の官公需(17.4兆円:2023年度)と、国・独立行政法人等の官公需(11.0兆円)において、低入札価格調査制度・最低制限価格制度の導入・活用を進めるとともに、自治体における両制度の導入状況の可視化や重点支援地方交付金の徹底活用などを通じ、的確な発注手続の実施と徹底した価格転嫁を進めることを盛り込んでいる。
例えば、自治体の低入札価格調査制度・最低制限価格制度について、工事関係以外では、制度未導入の自治体が非常に多く、特に市町村においては約7割で未導入となっており、また、未導入の理由について「必要性を認識していない」と回答する自治体が多いことが大きな問題だと指摘する声もあることから、「特別な理由がない限り、発注に際しては最低制限価格制度等を付す運用を徹底する」などとしている。
「下請かけこみ寺」で苦情や相談を積極的に受け入れ
また、中小企業が抱える取引上のトラブルを専門の相談員や弁護士が解決に向けてサポートする「下請かけこみ寺」において、中小企業・小規模事業者などからの官公需に関する苦情や相談を積極的に受け付けることや、個々の相談概要を総務省と共有して対応状況を確認する仕組みなどを設けることに加え、各自治体において適切に対応されるよう、的確な助言・指導を実施することを盛り込んだ。
労務費を含む価格転嫁の商習慣化を社会全体に定着させる
価格転嫁率が低い業種を中心に、中小受託取引適正化法の執行強化や、労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針の徹底などにより、原材料費やエネルギーコストの転嫁はもとより、労務費を含む価格転嫁の商習慣化を社会全体に定着させることも打ち出している。
具体的には、業種ごとにさまざまなサプライチェーンの形態が存在することをふまえ、労務費などの「価格転嫁の進捗を業種別にきめ細かに把握する」とともに、中小企業間、中小企業・小規模事業者間の取り引きへの対応を含めて、さらなる取引適正化を推進する取り組みとして、①中小受託取引適正化法の執行強化のための体制強化と対応厳格化②パートナーシップ構築宣言の更なる拡大と実効性確保③「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」のサプライチェーン全体への徹底④サプライチェーンの深い層まで労務費等の価格転嫁を浸透させるための労働基準監督署の活用⑤官民でのデフレマインドの払拭――の5点を掲げた。
1点目の「中小受託取引適正化法の執行強化のための体制強化と対応厳格化」では、価格転嫁率が平均よりも低い業種を中心に改善を図るため、「中小企業庁による下請Gメン、公正取引委員会による優越Gメンといった省庁横断的な執行体制の強化に加え、中小企業庁・公正取引委員会から具体的な執行・業務のノウハウの共有」を行う。また、中小企業の取引適正化の一層の推進に向け、「中小受託取引適正化法違反により勧告を受けた企業には、行為の内容や中小企業との取引への影響等の観点に留意しつつ、補助金交付や入札参加資格を停止する方策を検討し、措置していく」。
2点目の「パートナーシップ構築宣言の更なる拡大と実効性確保」では、「生産性向上関連の補助金における加点措置を拡充する」ことなどにより、宣言のさらなる拡大を図る。また、一部の企業では、「問題となり得る行為を受注先から指摘されている」ケースもあることから、宣言内容に違反する企業の宣言掲載を取りやめ、一定期間、生産性向上関連の補助金における加点措置や賃上げ促進税制の対象から除外するなどの対応により、宣言の実効性確保に取り組むことも提起した。
3点目に関しては、労務費の適切な転嫁において特に対応が必要な重点22業種について、「サプライチェーンの深い層まで労務費転嫁指針の遵守が徹底されているかを重点的に確認し、必要に応じ更なる改善策を検討するとともに、更なる周知徹底に取り組む」。4点目に関しては、労務費などの価格転嫁の必要性を中小企業・小規模事業者間の取引を含めてサプライチェーンの深い層の経営者にまで浸透させるため、新たに、労働基準監督署(全国で321カ所)が、企業への監督指導などの機会を捉え、「労務費転嫁指針の活用や公正取引委員会・中小企業庁等の窓口の活用も含め、中小企業・小規模事業者の賃上げの原資の確保に向けた働き掛けを実施する」ことも盛り込んだ。
5点目の「官民でのデフレマインドの払拭」では、「良い物・良いサービスには適正な良い値がつく」ということが社会全体の意識として受け入れられるよう、官民で消費者のデフレマインドを払拭していくため、消費者への周知・啓発を行う。
②生産性向上投資
生産性向上に向け、全国的なサポート体制を構築
生産性向上投資については、中小企業・小規模事業者において官民で実現するために、複数年度にわたる支援を行う。その際は、全国津々浦々で必要な投資が行われるよう、商工会・商工会議所、中小企業団体中央会、地域金融機関などによるきめ細やかな支援を行うなど、全国的なサポート体制を構築する。
また、特に人手不足が深刻である飲食業や生活関連サービス業などの12業種については、例えば飲食業における調理ロボット、宿泊業における自動チェックイン機、運輸業における無人フォークリフトといった優良事例のリストアップも含めた「省力化投資促進プラン」に基づき、官民で省力化投資を推進する。医療業界では、労働生産性の向上の取り組みによって、医師・看護師等の時間外労働の削減、合理的な配置基準の見直しを目指す。また、2020年代に最低賃金1,500円という政府目標はもとより、持続的な賃上げにつなげていくとしている。介護分野では、老人保健施設、介護老人福祉施設、特定施設入居者生活介護指定施設で、2029年までに8.1%、2040年までに33.2%の業務効率化を目指すなどとし、持続的な賃上げにつなげていくとしている。
そのほか、地域で中小企業・小規模事業者の生産性向上を推進する人材を確保するため、都市部の経営人材が副業・兼業の形式で週に1回程度、地方の中小企業等の経営に関与する「週1副社長」の取り組みを進め、経営人材の副業・兼業などのマッチングを強化する
③事業承継・M&A
全国の事業承継・引継ぎ支援センターの支援体制を強化
事業承継・M&Aでは、336万人にのぼる中小企業・小規模事業者の経営者全員が、いつでも相談できる支援体制を構築する。具体的には、全国の事業承継・引継ぎ支援センターの支援体制を強化するとともに、地銀・信金・信組などの地域金融機関による経営者へのコンサルティングを促進する。
さらに、M&Aアドバイザーの専門知識や倫理観にバラつきがあることをふまえ、新たな資格制度を検討。また、雇用維持や経営者保証の解除など、売手企業としての重要な事項を遵守しない不適切な買手の問題への不安に対処するため、M&A後に同意事項に反した場合に買い戻しまたは解除を可能とする措置を検討する。
④地域で活躍する人材の育成・処遇改善
労働者個人が各地域で活躍できることが重要
地域で活躍する人材の育成と処遇改善については、「それぞれの地域で、労働者個人が、自らの意思に基づき、活躍できることが重要」だと主張。リ・スキリングなどによる能力向上や仕事について行った努力が、確実に賃金向上という形で報われる社会の実現のために、良質な雇用の提供や、地域で活躍する多様な人材の活躍を推進するための環境整備を進めるとした。
なかでも社会のさまざまな機能を現場で支えるエッセンシャルワーカーについて、「人手不足がより一層深刻化し、サービスの持続性自体が課題」と指摘し、人手不足の現場で、デジタル技術の活用を含めて、現場人材のスキルが正当に評価され、実際の処遇が改善されることが重要だと強調。
そのため、「既存の公的資格ではカバーできていない産業や職種におけるスキルの階層化・標準化のために、厚生労働大臣が外部労働市場にも通じる民間検定を認定する団体等検定制度の普及と活用を進めるべく、業所管省庁から、業界団体等を通じて同制度の積極的な活用に向けた働き掛けを強化し、そうした業種における現場人材の育成につなげる」などとした。
医療・福祉分野で価格転嫁ができていない
医療・福祉などの分野については、その現状について、「有業者のおよそ7人に1人である900万人の方々が働いており、地域を支える一大産業となっている」としたうえで、「こうした分野で働く方々の処遇については公的に価格が定まっており、近年の物価高騰や賃金上昇の中で、他産業のようにコストの増加分を価格に転嫁することができない」としたほか、「賃上げで先行する他産業との人材確保の競争が厳しくなる中、他産業と比較して有効求人倍率が高くなっている状況」などと指摘。
公定価格でサービスを提供する医療・介護・障害福祉等において、賃上げ、経営の安定、離職防止、人材確保がしっかり図られるよう、コストカット型からの転換を明確に図る必要があるとしている。
このため、これまでの歳出改革を通じた保険料負担の抑制努力を継続しつつも、次期報酬改定をはじめとした必要な対応策において、2025年春季労使交渉における力強い賃上げの実現や昨今の物価上昇による影響などについて、経営の安定や現場で働く幅広い職種の賃上げに確実につながるよう、的確な対応を行うとしている。
⑤最低賃金の引き上げ
2020年代全国平均1,500円の目標に向け、取り組みを5年間で集中実施
最低賃金の引き上げについては、適切な価格転嫁と生産性向上支援により、影響を受ける中小企業・小規模事業者の賃上げを後押しし、2020年代に全国平均1,500円という目標の達成に向け、官民で最大限の取り組みを5年間で集中的に実施するため、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」に定める施策パッケージを実行する。
EU指令においては、賃金の中央値の60%や平均値の50%が最低賃金設定に当たっての参照指標として加盟国に示されている。改訂版は、日本と欧州では制度・雇用慣行の一部に異なる点があることに留意が必要としつつ、日本の最低賃金が中央値の60%や平均値の50%よりも低い水準であることや施策パッケージもふまえ、「(①賃金②労働者の生計費③通常の事業の賃金支払能力の)法定3要素のデータに基づき、中央最低賃金審議会において議論いただく」としている。
目安を超える引き上げなら政府補助金などで「特別な対応」
さらに、各都道府県の地方最低賃金審議会において中央最低賃金審議会の目安を超える最低賃金の引き上げが行われた場合は、持続的な形で売上拡大や生産性向上を図るための「特別な対応」として、政府の補助金による重点的な支援や、交付金などを活用した都道府県のさまざまな取り組みを十分に後押しするとしている。
こうした取り組みにより、地域別最低賃金の最高額に対する最低額の比率を引き上げるなど、地域間格差の是正を図るとした。
人への投資・活躍推進や投資立国の実現なども柱に
「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の実行以外では、「投資立国の実現」「『スタートアップ育成5か年計画』の強化」「科学技術・イノベーション力の強化」「人への投資・多様な人材の活躍推進」などが事業分野の柱。
このうち、「人への投資・多様な人材の活躍推進」では、生成AIなどのデジタル技術の台頭により、賃金が高い産業・企業へ「労働者が移動していくという流れが生まれつつある」一方、年功賃金制度などの雇用制度の維持により「賃金市場における価格決定シグナルが成立しない、賃金の価格メカニズムの機能不全に陥っている」ことや、「人手不足により成長産業・企業の成長が阻害される」課題があることを指摘。
そのため改訂版は、「働く人の選択肢の拡大と継続的な賃金向上という観点からは言うまでもなく、労働供給制約社会における企業の継続的な成長の観点からも、リ・スキリングによる能力向上支援、ジョブ型人事の導入、労働移動の円滑化から成る三位一体の労働市場改革を加速して実行する」と強調するとともに、「労働供給制約社会の中で、働く人が自らの意思に基づき、多様な選択肢を得られるよう、働き方改革の総点検や副業・兼業の一層の推進を行う」と言及した。
リ・スキリングによる能力向上支援については、「地方の労働者にとっては、対面に加え、オンラインの活用により質の高い多様なキャリアコンサルティングやリ・スキリング講座へのアクセスが可能になる」として、教育訓練給付、高齢・障害・求職者雇用支援機構を活用した非正規雇用労働者等向けの職業訓練等のリ・スキリング支援策についても、オンライン対応講座を拡充するほか、ハローワークでの申請手続・キャリアコンサルティングのオンライン化を図るとしている。
官民の求人・求職・キャリアアップ情報を共有化し、コンサルタント・求職者に発信
労働移動の円滑化に向けては、労働者個人が社内外の職種の需給動向やリ・スキリングで身に付けるべきスキル・賃金水準を具体的に把握できるように、「官民の求人・求職・キャリアアップ情報を共有化し、キャリアコンサルタントや求職者等に分かりやすく発信する取組を加速する」とし、まず、「昨年度から着手した厚生労働省の求人情報の収集・分析事業について、その対象地域・職種を拡大するとともに、経験や資格の有無と賃金との関係を分析し、これらの結果を、職業情報提供サイト(job tag)等を通じて発信する」などとしている。
幹部候補人材の育成の仕組みの構築も盛り込んでいる。CEO(最高経営責任者)、COO(最高執行責任者)、CFO(最高財務責任者)などの企業の幹部の候補人材の選抜・育成のための仕組みとして、CEO以下の社内者を中心とする人材育成委員会などを設置し、人事部門・事業部門などと連携しながら幹部候補人材の選抜・育成を担うことについて、企業向けのガイダンスを通じて働きかけていくとしている。
今後、①DXによるサービス化等で高付加価値化する「製造業X(エックス)」化②情報通信業・専門サービス業の成長産業化③省力化投資を活用して高付加価値化する「アドバンスト・エッセンシャルサービス」化――といった産業構造の変化に応じた就業構造の変化をふまえた人材育成が求められるようになることから、こうした転換を「国家戦略」として捉え、「地域の産業構造の特色を踏まえて、アドバンスト・エッセンシャルワーカー(デジタル技術等も活用して現在よりも高い賃金を得るエッセンシャルワーカー)を含む産業人材のニーズを分析した上で、必要な教育プログラムの整備を進めるとともに、産業界から教育機関への資金提供や共同での教育プログラム作りなどの流れを作り、加速させていくため、ここに『産業人材育成プラン』を策定し、関係省庁が連携して取り組んでいく」ことも提起した。
(調査部)
2025年8・9月号 賃上げに向けた政府の政策方針の記事一覧
- 2029年度までに物価上昇を年1%程度上回る賃上げのノルムを定着させる ――「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2025年改訂版」を閣議決定
- 賃上げを起点とした成長型経済の実現が柱 ――「経済財政運営と改革の基本方針2025」(骨太方針2025)