(81)【退職】退職届の取下げなど

10.雇用関係の終了及び終了後

1 ポイント

(1)退職の意思の表明は、権限ある役職者が承諾するまでなら撤回できる。

(2)退職は、当事者の意思から合理的に推測される場合や客観的状況などから、法的に有効なものであるか否かが判断される。

(3)退職の意思の表明が本心ではない(心裡留保)か勘違い(錯誤)に当たる場合は無効であり、脅し(強迫)に当たる場合は取り消せる。

(4)退職の予告期間を民法627条の定める2週間を超えて延長することや、退職を会社の許可制とすることは、違法・無効である。

(5)退職に際して相手に不利益をもたらす取扱いは、損害賠償責任を生じさせる。

2 モデル裁判例

大隈鐵工所事件 最三小判昭62.9.18 労判504-6

(1)事件のあらまし

第一審原告の労働者Xは、同期入社のAと共に、鉄工業を営む被告Y社内で民青活動(共産党関連活動)を行っていた。Xは、Aが失踪したため、上司BらからAの失踪について事情聴取された。BらはAの部屋から発見した民青関連資料をもとに、Xに対してAの失踪について知らないか問いただしたところ、XはAの失踪と関係ないと述べ自ら退職を申し出た。人事管理の最高責任者である人事部長Cは退職する必要はないと引き留めたが、Xが聞き入れなかったため退職届をXに渡した。するとXは、その場で退職届に記入・署名・捺印したうえ、Cに提出した。しかし、提出の翌日、Xは退職届を撤回すると人事課長Dに申し出たが拒否された。そこでXは、退職届の提出は違法な解雇に当たるか、無効な退職合意であるなどと主張して、従業員としての地位があることの確認を求めて訴えを起こした。一審(名古屋地判昭52.11.14 労判294-60)は退職の意思の表明を無効としたが、二審(名古屋高判昭56.11.30 判時1045-130)は労働者の撤回により退職の意思の表明は法的効力を失ったとしてXの請求を認めた。それでYが上告したのがこの事件である。

(2)判決の内容

労働者側敗訴

CがXの退職届を受理したことで即時に会社が退職を承諾したことになり、退職は有効である。労働者の退職届に対する承認について、入社に際して行われる筆記試験や役員面接試験とは異なり、採用後の労働者の能力・人物・実績などについて掌握しうる立場にある人事部長に退職の承認についての判断をさせ、単独でこれを決定する権限を与えることは何ら不合理ではない。人事部長に退職届に対する承認の決定権限があるならば、人事部長が労働者の退職届を受理したことで、労働契約の解約(退職)申込みに対する会社の即時の承認の意思が示されたというべきである。そして、これによって、労働契約の解約の合意が成立した。

3 解説

(1)退職に関する労使間の合意

労働者が会社との合意により退職する合意解約は、通常、労働者の会社を辞めるという意思表明と、権限ある者の承諾により成立する。しかし例えば、職員の常務理事就任(大阪工大摂南大学事件 最一小判平5.12.16 労判648-27)、出向先の経営権が譲渡されるのを知りつつ出向元に復帰せず出向先で就労したこと(アイ・ビイ・アイ事件 東京地判平2.10.26 労判574-41)、元の会社の経営者が派遣会社を設立し、今後はその派遣会社と雇用契約を結んで働くのを合意したこと(日建設計事件 大阪地判平17.2.18 労判897-91など)でも合意解約の成立が認められる。

反対に、配転を拒否するなら退職するしかない旨の会社側職制の発言に対する「グッド・アイデアだ」との返答は退職の合意ではない(株式会社朋栄事件 東京地判平9.2.4 労判713-62)。また、退職を前提に転職活動をしつつ業務の引き継ぎをしていても、退職に係る正式な書面が交わされていないなどの状況では、退職の合意は成立しているとはいえない(フリービット事件 東京地判平19.2.28 労判948-90)。

(2)退職届の取下げ

退職意思の撤回はどの時点・職制段階までなら許されるか。一般的には、退職を承認する権限のある者が承諾するまでなら退職意思を撤回できる(モデル裁判例。理事長:学校法人白頭学院事件 大阪地判平9.8.29 労判725-40、工場長:ネスレ日本(合意退職)事件 東京高判平13.9.12 労判817-51、理事長:学校法人大谷学園(中学校教諭・懲戒解雇)事件 横浜地判平23.7.26 労判1035-88)。特別優遇制度による合意解約は、募集受付方法欄記載の合意書が作成されるまでは成立せず、労働者の応募の撤回が認められる(ピー・アンド・ジー明石工場事件 大阪高決平16.3.30 労判872-24)。なお、一旦提出した退職届を撤回することは、相手方に不測の損害を与える場合、信義則(民法1条2項)に反し許されない(佐土原町土地改良区事件 宮崎地判昭61.2.24 労判492-109)。

(3)虚偽・誤解・脅しによる退職意思の表明

労働者が会社を辞めるとの意思表明は、真意でなければならない。法律的には、民法における心裡留保、錯誤、強迫の問題として扱われる。

心裡留保とは、例えば、会社を辞める意思がないのに労働者が退職届を提出したりするなどの場合で、会社側が、労働者は実は会社を辞める意思がないことを知っている場合である(昭和女子大学事件 東京地決平4.2.6 労判610-72)。このような意思表明は無効である(民法93条ただし書)。

錯誤とは、例えば、退職届の提出は自分が解雇されると誤って思い込みこれを避けるためだったが、実は解雇の可能性はなかった場合である(昭和電線電纜事件 横浜地川崎支判平16.5.28 労判878-40、[懲戒解雇が問題となった類似事案に]富士ゼロックス事件 東京地判平23.3.30 労判1028-5など)。この意思表示は無効となる(民法95条)。体調不良が私傷病によるものであると誤信して退職願を提出した助手(有期雇用契約で採用)による地位確認等請求に関して、実際には同助手の勤務場所に存在していた揮発性有機化合物等の化学物質により化学物質過敏状態が発症し、それに伴い自律神経機能障害等が生じたと推認でき、体調不良を起こしていたことから、同助手の退職の意思表示には要素の錯誤があり、その意思表示は無効であると判断された(慶應義塾(シックハウス)事件 東京高判平24.10.18 労判1065-24;ただし、雇用契約期間の終了のため同助手の地位確認請求は棄却されている)。

強迫とは、例えば、懲戒処分や不利益取扱いをほのめかして退職を申し込ませる場合である(ニシムラ事件 大阪地決昭61.10.17 労判486-83など)。このような意思表明は取り消せる(民法96条)。なお、懲戒解雇該当行為に関しては、該当行為がない場合は強迫として取消しが認められるが(前掲ニシムラ事件)、該当行為がある場合に懲戒解雇の可能性があることを述べても強迫ではない(ソニー(早期割増退職金)事件 東京地判平14.4.9 労判829-56)。

(4)退職予告期間延長と退職許可

会社が民法627条の定める2週間を超えて予告期間を延長することは、労基法の諸規定(例えば5条)に反し、また、退職の許可制も、労働者の退職の自由を制限するので法的効力を持たない(高野メリヤス事件 東京地判昭51.10.29 判時841-102など)。

(5)退職による損害賠償責任

退職は相手方に対する損害賠償責任を生じさせることがある。例えば、労働者の突然の退職(入社後4日)により被った損害(ケイズインターナショナル事件 東京地判平4.9.30 労判616-10:賠償額70万円)、会社の労働者負担分の社会保険料の立替金(すずらん介護サービス(森田ケアーズ)事件 東京地判平18.9.4 労判933-84:賠償額31万円)などがこれに当たる。

逆に労働者については、会社の退職に係る諸手続遅延により生じた、転職先で支払われるはずの給与と実際の給与との差額分(東京ゼネラル事件 東京地判平8.12.20 労判711-52)、会社都合退職とすべきところを自己都合と処理したことによる、退職金などに係る会社都合と自己都合との差額分(ゴムノイナキ(損害賠償等)事件 大阪地判平19.6.15 労判957-78)が、賠償すべき損害とされている。