(9)賠償予定の禁止
~教育訓練・研修費用等の返還請求~
2.雇用関係の開始
1 ポイント
(1)労基法16条は、使用者に対して、「労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額の予定をする契約」を締結することを禁止している。この立法趣旨は、労働者の退職の自由が制約されるのを防ぐことであり、かつてこのような違約金を定めることにより、労働者を身分的に拘束するという弊害がみられたこと等から設けられた規定である。
(2)近年では、企業における海外研修派遣・海外留学に関する費用につき、労働者が研修・留学終了後に短期間で退職するような場合、その労働者に対して返還義務を定めた就業規則の規定や個別の合意などが、同様に労基法16条所定の違約金の定めや損害賠償額の予定に当たり、許されないのか否か等が問題となってきている。
(3)海外留学制度に基づく留学費用返還に係る契約等につき、労働者が労働契約とは別に留学費用返還債務を負っていて、ただ、帰国後一定期間勤務すればこの債務を免除されるが、特別な理由なく早期に退職する場合には留学費用を返還しなければならないという特約が付いているにすぎないと判断され得る場合には、労基法16条が禁止する違約金の定め、損害賠償額の予定には該当しない。
2 モデル裁判例
長谷工コーポレーション事件 東京地判平9.5.26 労判717-14
(1)事件のあらまし
建築工事請負等を業とする原告会社Xに勤務していた被告Yは、Xの社員留学制度(応募条件は「総合職、29歳以下、勤続2年以上」のみ)を利用して平成3年6月より同5年5月までの2年間アメリカの大学院に留学し、経営学博士の学位を取得した。しかし、Yは帰国後2年5ヵ月で退職した。この留学に先立つ平成3年6月、YはXに対して、「卒業後は、直ちに帰国し、会社の命じるところの業務に精励するとともにその業績目標達成に邁進すること」及び「帰国後、一定期間を経ず特別な理由なく[Xを]退職することとなった場合、会社が海外大学院留学に際し支払った一切の費用を返却すること」等と記載された誓約書を提出していた。そこでXは、この誓約書に基づき、Yに対し留学費用約847万円のうち学費分相当の約467万円の返還を求めて訴えを提起した。なお、Yはこの誓約書作成により金銭消費貸借契約が成立したとはいえない、また仮に成立していたとしても、それは労基法16条に違反し無効であると主張していた。
(2)判決の内容
労働者側敗訴
Xの社員留学制度は、大所高所から人材育成を目的としたものであり、留学生への応募も社員の自由意思に、また、留学先大学院や学部の選択も本人の自由意思に任せられており、「留学経験や留学先大学院での学位取得は、留学社員の担当業務に直接役立つというわけではない一方、Yら留学社員にとっては……有益な経験、資格となる」。従って、この「制度による留学を業務と見ることはできず、その留学費用をXが負担するかYが負担するかについては、労働契約とは別に、当事者間の契約によって定めることができる」。そして、YはXに前記のような誓約書を提出していること等が認められるから、XとYとの間で少なくとも学費については、「Yが一定期間Xに勤務した場合には返還債務を免除する旨の特約付きの金銭消費貸借契約が成立していると解するのが相当である」。
「YはXに対し、労働契約とは別に留学費用返還債務を負っており、ただ、一定期間Xに勤務すれば[この]債務を免除されるが特別な理由なく早期に退職する場合には留学費用を返還しなければならないという特約が付いているにすぎないから、留学費用返還債務は労働契約の不履行によって生じるものではなく、労基法16条が禁止する違約金の定め、損害賠償額の予定には該当せず、同条に違反しないというべきである。」
この事案においては、「Xは学費しか請求しておらず、また、Yは留学から帰国後2年5ヵ月しかXに勤務していない」こと等を踏まえると、Xの「請求を全額認容することが信義則に反するということはできない」。
3 解説
(1)立法趣旨
労基法16条に規定された「賠償予定の禁止」の立法趣旨は、労働者の退職の自由が制約されるのを防ぐことである。契約自由の原則の下、現在でも民法上は債務不履行に関する違約金の定めや賠償額の予定は認められている(民法420条)。しかし、労働関係の場面では、特に戦前においてそのような違約金の定め等が労働者を身分的に拘束して退職の自由をも奪い去るという弊害がみられたため、その反省等から、労基法16条の規定は、労基法5条(強制労働の禁止)や同17条(前借金相殺の禁止;東箱根開発事件 東京地判昭50.7.28 労判236-40、引越社関西事件 大阪地判平18.3.10 労経速1937-20等を参照)等とともに、前近代的な労働関係を払拭する趣旨で設けられた。もっとも、この賠償予定の禁止は、労働者の債務不履行や不法行為により現実に生じた損害について、使用者がその労働者に損害賠償を請求することを禁ずるものではない。
(2)労基法16条違反のケース
本条の典型的事案としてサロン・ド・リリー事件(浦和地判昭61.5.30 労判489-85)やアール企画事件(東京地判平15.3.28 労判850-48)がある。後者の事案では、美容師の就業報酬契約(労働契約とは別の特約)において、約3年2ヵ月間の継続就業が義務付けられるとともに、その継続就業に対しては一定の売上げを前提に200万円の就業報酬が支払われることや、この契約条項違反については相互に違約金500万円を支払うこと等が定められていた。この事件では、この特約の有効性に関して、違約金を定めた箇所につき、「原告[美容師のこと]が被告[使用者のこと]に対し負担する違約金を定めた部分は、労働契約に付随して合意された[この]特約の債務不履行について違約金を定めたものであるから」労基法16条に反し無効となるが、他方、「被告が原告に対し負担する違約金を定めた部分は、使用者が負担する違約金を定めたもので、不当な人身拘束や過大な負担から労働者を保護する同条の趣旨には何ら抵触しないから、同条には違反しない」と判断されている。
その他近年の事案に和幸会(看護学校修学資金貸与)事件(大阪地判平14.11.1 労判840-32)等があり、また、タクシー運転手の普通第2種免許取得のための研修費用につき、正規従業員として選任後に出勤率80%以上で2年間勤務を条件に返済義務免責を定めた返還条項につき、労基法16条に反しないと判断したコンドル馬込交通事件(東京地判平20.6.4 労判973-67)、及び、類似事案として東亜交通事件(大阪高判平22.4.22 労判1008-15)等がある。さらに、1年以内に自発的に退社した場合には、雇用開始直後に受領したサイニングボーナス200万円を返還する旨の規定が問題とされた日本ポラロイド(サイニングボーナス等)事件(東京地判平15.3.31 労判849-75)、及び、雇用期間終了前の退職に伴い、ヘッドハンティングにより雇用された労働者(ブローカー)が入社の際に受け取った金員約1,130万円の返還約定が争点とされた(貸金請求事件 東京地判平26.8.14 判時2252-66)があり、両事件とも問題となった返還約定等が労基法5条、16条に反し、同法13条、民法90条により無効であると結論付けられている。
(3)企業における海外研修派遣・海外留学費用の返還義務
モデル裁判例は、従業員の海外留学と退職に伴う費用の返還が争点となったものであり、この種の事案についてのリーディング・ケースたる意義を有している。企業の海外研修・留学制度等に基づき海外留学等を行った従業員に対して、帰国後一定期間を経ずに退職したときには留学費用等の全額または一部を返還することを約した就業規則の規定等が設けられる場合があるが、このような規定等は労基法16条に違反して無効となるのか否かが争点となってくる。
海外研修・留学が業務命令に基づくものとは考えられず、その応募および目的地・留学先等の選択もある程度労働者の自由意思に任されているような場合、海外留学等は労働者にとって個人的な能力を高め、有益な経験・資格になる一方、帰国後労働者が退職することにより、使用者にとっては投下資本が無駄になってしまうというリスクが存する。従って、このような場合には、費用等の返還義務を定めた約定や合意は、それが実質的に労働契約とは別個の金銭消費貸借契約と考えられるとき、かつ、帰国後の勤務いかんに関係なく労働者に返還義務が存するものの、一定期間勤務した者については返還義務を免除する趣旨のものであるときには、労基法16条違反とはならないと考えられる(野村證券(留学費用返還請求)事件 東京地判平14.4.16 労判827-40、明治生命保険(留学費用返還請求)事件 東京地判平16.1.26 労判872-46等参照)。
他方、企業における海外研修・留学が、業務命令として行われた場合、又は、海外留学等において実際には業務の遂行がなされていたような場合には、本来、企業がその費用等を負担すべきものであるから、前記のような約定や合意は労働者を不当に拘束して労働関係の継続を強要することになり、労基法16条違反になると考えられる(富士重工業(研修費用返還請求)事件 東京地判平10.3.17 労判734-15、新日本証券事件 東京地判平10.9.25 労判746-7)。