(7)【採用】労働契約締結準備段階における過失

2.雇用関係の開始

1 ポイント

(1)労働契約の締結準備をしている過程においても、契約当事者は、相手方の利益を侵害するような行為はできる限り避けなければならない。たとえば、契約締結の準備をしている段階で、相手方が誤った認識をもち、労働契約が確実に成立すると信じて行動しようとし、その結果として過大な損害が生じそうになった場合には、一方当事者は相手方の誤解を解くように努力し、損害の発生を避ける協力をしなければならない。

(2)労働契約締結準備過程において要求される上記(1)の義務を怠り、相手方に損害を生じさせた場合には、義務を怠ったことによって生じた損害を賠償する責任が生じる。

2 モデル裁判例

かなざわ総本舗事件 東京高判昭61.10.14 金商767-21

(1)事件のあらまし

訴外Z(中小企業)の取締役・総務部長であったXは、Y(小規模の家族的企業)の代表であるAから、取締役もしくはそれと同等の重要な役職で採用したいとの誘いをうけた。Xは、Aから給与面等を含めた入社条件にも触れたうえで入社意思についての確認をうけ、Yとの雇用契約が確実に成立するものと信じて勤務していたZを退社した。ただし、Xが退社する前に、XとYとの間で採用に関する書面は交換されず、入社後にXが担当する業務の内容についても具体的な検討がなされた形跡はなかった。また、Yは新潟にあり、Xは転居してYでの勤務を開始する予定であったが、Zを退社した時点ではまだ、入社後の住居が決まっていなかった。

Aは、Xの採用に先立ち興信所にXの調査を依頼したが、その結果調査をみてXに不信を抱き最終的にはXの入社を断った。Xは、Aの行為に関してYの債務不履行責任又は不法行為責任を主張しYに対して損害賠償を求める訴訟を提起した。

(2)判決の内容

労働者側勝訴

「契約締結の準備段階であっても、その当事者は、信義則上互いに相手方と誠実に交渉しなければならず、相手方の財産上の利益や人格を毀損するようなことはできる限り避けるべきである。」「準備段階での一方の当事者の言動を相手方が誤解し、契約が成立し、もしくは確実に成立するとの誤った認識のもとに行動しようとし、その結果として過大な損害を負担する結果を招く可能性があるような場合には、一方の当事者としても相手方の誤解を是正し、損害の発生を防止することに協力すべき信義則上の義務があり、同義務を違背したときはこれによって相手方に加えた損害を賠償すべき責任がある。」

本件についてみると、Yの代表者であるAは、Xが会社に辞表をだして一旦は受理されなかったものの、再度辞表を提出して退社することが決まった等の一連の経緯を認識していたのであるから、Yには、Xに対して、雇傭問題が現在いかなる方針となっているか的確な情報を提供し、Xに自己の行動を再検討する契機を与えるべき義務があった。しかし、AはXに「現状のままでいい」との言葉しかかけず、契約締結準備過程において要求される上記の信義則上の義務を果たさなかったのであり、Yはその結果としてXに生じた損害を賠償すべき責任がある。ただし、Xは、契約準備段階で会社を退社せずにYと書面で契約内容を確認し合うとか、Aの言葉の正確な意味を確かめてから退社してもよかったのであるから、退社による損害についてはXの過失が大きく、その過失の割合はXが約7割、Yが約3割とするのが相当である(Xの退職による逸失利益668万円強のうち、Yの分担を200万円とした)。また、Yの信義則違反によるXの精神的苦痛に対する慰謝料は、100万円が相当である。

3 解説

(1)契約内容の理解促進・使用者の説明義務

労働契約は、労働者と使用者が対等な立場で自主的に交渉し、労働条件の具体的な内容を互いに確認・了承した上で締結されるべきものである。ただし、実際の場面では、労働者が契約の具体的な内容を使用者に尋ねにくい等の状況が生じやすい。そのため、労働契約の締結交渉をする際には、使用者は、労働者に、労働条件や労働契約の内容等について丁寧に説明し、労働者の理解が深まるように努力することが求められている(労契法4条)。また、賃金や労働時間等の重要な労働条件については、書面を取り交わして、お互いに内容を確認することが求められている(「労働条件明示義務」、労基法15条1項、労契法4条2項)。

労働契約の締結過程では、使用者は、労働者が労働契約の内容について誤解したままに契約を締結しないように、労働条件等について誠実に説明する必要があり、契約内容について誤解がある場合には、その誤解を解く努力が求められる。たとえば、日新火災海上保険事件(東京高判平12.4.19 労判787-35)では、中途採用を予定していた者に、同時期に入社する新卒定期採用者と同程度の給与待遇で入社できるものと誤解させるような説明をして労働契約を締結し、労働者に精神的損害を与えたとして信義則違反による不法行為の成立が認められている。

(2)労働者の契約成立に向けた期待と使用者の損害回避義務

近時、他社に勤務する労働者に対して入社の誘いをかける「引き抜き」の事案が増えている。引き抜きの場合、労働者の職務能力や経歴、労働時間や賃金等の労働契約における重要な労働条件が、労働者と使用者との間で折り合わなければ、契約交渉は打ち切りとなり、契約は不成立となる。しかし、入社を勧誘された側(労働者)は、勧誘先との労働契約の成立を期待して、契約が正式に締結される前に、契約締結に向けた準備を進めていることも多く、意に反して契約不成立となった場合には、不測の損害を被る可能性がある。そのため、判例法理では、契約締結過程において、勧誘した側(雇用主)が採用を断念する決定をした場合には、速やかに相手にその旨を伝えて、相手方に著しい損害が発生しないようにする信義則上の義務があり、この義務に反して、相手方に損害を与えた場合にはこれを賠償する責任があるとされている。労働者が、引き抜き交渉の途中で勤務先を退職し、後に契約不成立となって、引き抜き側の信義則違反が認められた例としては、モデル裁判例の他に、大阪大学事件(大阪地判昭54.3.30 判タ384-145)、ユタカ精工事件(大阪地判平17.9.9 労判906-60)がある。

また、わいわいランド(解雇)事件(大阪高判平13.3.6 労判818-73)では、保育園の開園を契約していた者が、他社で働く労働者2名に、労働契約の締結を持ち掛けたが、開園準備の途中で計画が頓挫し、保育士を採用することができなくなった。裁判所は、雇用主は、自らが提示した雇用条件をもって雇用を実現し、雇用継続できるように配慮する義務があるとし、また、本件では、雇用が困難となった時点で、労働者に雇用継続に関する客観的な説明を行う義務があったとして、引き抜き側(雇用主)に、労働契約締結における信義則違反による不法行為の成立を認めた。

(3)契約交渉における労働者の申告義務

契約締結の過程においては、使用者のみならず労働者の側も、契約の成立に向けて誠実に対応することが求められる。使用者は、労働者に対して、労働能力の評価に直接関わる事項や企業の秩序維持に関する事項について、必要かつ合理的な範囲で申告を求めることができるし、申告を求められた労働者は、採用に必要な情報を正確に相手方に伝える信義則上の義務がある。労働者の能力詐称が問題となったKPIソリューションズ事件(東京地判平27.6.2 労経速2257-3)では、採用選考において、自己の職歴、職業上の能力(日本語能力等)を詐称し、提示された賃金額に上乗せを要求して労働契約の締結に至ったが、後日、労働者の能力不足が判明し、経歴・能力の詐称を理由に解雇された。裁判所は、労働者の不誠実な能力申告が直ちに不法行為を構成すると解することは相当ではないが、労働者が詐称に基づき賃金を上乗せさせた行為は詐欺であり不法行為を構成し、上乗せ賃金が使用者側の損害と認められると判断した。