客観的で正確な情報の提供こそが使命

トヨタ自動車(株)人事部担当部長 荻野勝彦

年長者が「いまどきの若者は」と嘆くのは太古の昔からなのだそうで、なにも今に始まったことではないようですが、それにしても昨今のわが国ではこうした年長者の嘆きを耳にすることが多いように感じます。若年雇用問題が社会的に大きくクローズアップされる中、年長者の目からみると「選り好みをしなければ職はあるのに」とか「我々の若い頃は週休1日で、上司に無理難題を言われながらも歯を食いしばってがんばったものだ。それに較べると今の若い者は…」というふうに見えてしまうもののようです。もちろん、現実には「選り好みをしなければ」不安定で技能の伸張が期待しにくい職しか得ることができず、「歯を食いしばって頑張れば」いずれ熟練工、管理監督者への道が開けるような職を得ることが困難なのが実態なのですが…。

労働問題は、教育問題などと並んで、おそらくは国民にとってもっとも身近な問題の一つでしょう。かつて就労していて引退した高齢者や、学業の余暇にアルバイト就労している学生なども含めれば、国民の相当割合が就労の経験を有するでしょうし、自身は経験がなくても、ほとんどの人は家族をはじめ身近な人が就労するのを見ているはずです。それだけに、ほとんどの人は自分の経験や身近な見聞をもとに、労働問題に関してなんらかの意見を持ち、それを表明することができます。傾向としては、仕事経験の長い年齢の高い人や、人事管理にたずさわることの多い管理職(これは年齢の高い人が多い)などは経験や知識も多く、したがって多くの意見を述べることができるでしょう。

とはいえ、個人が得られる経験や知識は、どうしても限られたものにならざるを得ないことは間違いありません。それでも、かつてのように働き方や仕事が比較的容易にパターン化でき、あまり複雑ではない状況であれば、個人の経験を世の中全体に一般化してもさほど大きな違いはなかったでしょう。しかし、社会は変化します。近年ではその変化のスピードも速いですし、働き方も仕事もどんどん多様化し、専門化・複雑化しています。それにつれて、個人が自分の経験をもとに世の中全体を議論することも急速に難しくなりつつあるのではないでしょうか。年長者が過去の経験をもとに「いまどきの若者は」と嘆いてみたところで、その過去の経験とはまったく異なるような社会環境になっているこんにち、若者からしてみれば「そんな古いことを言われたってどうしようもない」という反発や無力感を覚えるだけになってしまうのも致し方ありません。

これはなにも若者だけの話ではなく、女性にしても高齢者にしても同じことでしょう。二十年前、あるいは十年前でも、土木技師としてトンネル工事に従事する女性や、定年後に中国に渡って現地で技術指導をする高齢者がそれなりの人数で出現するなどということはあまり考えられなかったのではないでしょうか。年長者が経験的に知っている若者、女性、年長者と、今現在現実に存在する彼ら彼女らとは、おそらく大きく異なっています。これは年齢や性別などといったカテゴリーにとどまらず、おそらくは個別の働く人たち、個人レベルでも急速に多様化しているのでしょう。当然ながら、労働政策は今現在の現実と、これから見込まれる将来に向かって立案・実行されなければならないわけですが、それが年長者の経験的知識と食い違ったものとなるのは、むしろ当然のことなのかもしれません。いっぽうで、政策決定に力を持つ有力者の多くは年長者です。となると、政策決定にあたる人たちは、みずからの経験を離れて、現状を客観的に理解して政策の検討にあたる必要があるでしょう。そのためには、現状を客観的かつなるべく事実どおりに把握するとともに、それに対する政策対応がどのような結果をもたらすのかを推測するための材料−典型的には諸外国における先行事例−の正確な情報が提供される必要があるでしょう。

労働政策研究の重要性、社会的使命というものは、おそらくはここにあるのではないでしょうか。もちろん、労働政策研究に取り組む研究機関、研究者は一定数存在します。しかし、労働政策は労使関係の当事者である労使の利害が鮮明になりやすいだけに、政策決定に資する研究には高い中立性を有するものが必ず必要となるでしょう。もちろん、それを公的な機関がやるのがいいのか、民間にゆだねるのがいいのかは議論があるでしょうし、結論は簡単には出ないだろうと思います。とはいえ、この分野で労働政策研究・研修機構が積み上げてきた実績は正当に評価される必要があるでしょう。当然ながら、公費を投じて運営されている機関については費用対効果は厳正に評価される必要がありますし、不断の効率化努力も必要でしょう。政策研究の目的に一致しないものは排除されるべきであり、何より研究者の良心に従い、政労使三者からの中立性が堅持されなければなりません。逆に、それらが確保されるのであれば、公的機関としての労働政策研究・研修機構の存在意義は正当化されうるのではないかと思います。今後の機構がそうした存在となり続けることを国民のひとりとして期待してやみません。

(平成19年11月9日 掲載)