JILPTリサーチアイ 第28回
雇用システムの歴史的変遷について

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客員研究員 草野 隆彦

2018年3月29日(木曜)掲載

1 報告の経緯

今般、資料シリーズとして、「雇用システムの生成と変容―政策との関連」をまとめた。本調査報告は、平成26年度に立ち上げた「雇用システムと法」プロジエクトの取り組みの一環をなすものである。同プロジェクトは、菅野和夫理事長の主導により、平成26年度から3年間を集中期間として立ち上げたものであり、予定された内容は、①日本の雇用システムの近年の変化を「日本的雇用システム」を軸に多面的に把握・整理すること、②雇用システムと法政策の相互作用を観察し、雇用システムの実態との関係における法政策の機能と課題を抽出すること、③上記変化の状況を踏まえ、日本の雇用システムの課題と政策的含意を探ることである(詳細は、JILPTリサーチアイ第7回2015年1月参照)。

プロジェクトのうち、①については、昨年12月に『日本的雇用システムのゆくえ』(JILPT第3期研究プロジェクトシリーズ4)としてまとめられた。また、②のうち、バブル崩壊以降の労働政策の変遷について、昨年3月に一応のまとめがなされた(資料シリーズNo.183)。

今回のとりまとめは、②のうち、江戸時代からバブル崩壊前に至る雇用システムと法政策の変遷及びこれらの相互作用に該当する部分に当たり、既存の文献をもとにそれに関連する資料・情報を収集・整理したものである。現段階では、バブル崩壊前までにとどまり、本来予定していた現在に至るまでの変遷をたどり、③の「日本の雇用システムの課題と政策的含意を探る」ところまでに至っていないが、バブル崩壊前までの段階であっても、資料として参考に供する意味があると考え、資料シリーズとしてまとめることとした。

以下、本報告で叙述した、雇用システム生成の歴史と特徴、政策との関連及び社会に与えた影響について、そのポイントを簡単に紹介する。

2 雇用システム生成の経緯

我が国の大企業を中心とする雇用システムは、長期にわたる歴史的経緯のなかで段階的に発展し、1960年代後半から1970年代前半にかけ、「日本的雇用システム」として結実した。

その直接的な経緯を簡単に振り返ると、まず、第一次大戦後、大企業の一部において、労務管理体制の確立に伴う直用化と新たな技術の導入にあわせて、技能工の内部養成と雇用維持のための勤続奨励的諸手当の支給、昇給制度の実施、共済制度・福利施設などの導入が始まった。こうした仕組みは、昭和不況に伴い技能工の定着が進むなかで、一定程度大企業において普及した。戦時中には、急激なインフレに伴い再び労働力の流動化が進んだが、皇国勤労体制下にあって、企業を職・工一体の生産共同体と捉える考えにもとづき、全面的な定期昇給制度の適用と生活賃金の導入、労使の話し合いによる労使紛争防止と生産性向上を狙いとした産業報国会制度の導入などが強制され、短期間であったが、その経験は雇用システムに大きなインパクトをもたらした。

戦後になると、GHQによる民主化により、職場や企業をベースに成立した労働組合が急激に組織を拡大し、急激なインフレのなかで、解雇反対や賃金引上げ等を巡って生産管理を含む激しい闘争を展開し、電産型賃金に代表される生活賃金の導入等を目標とした。1950年代になると、雇用の長期化が進むと同時に、経営側優位のもとに、激しい労使紛争を経て、査定つき定期昇給などの長期的インセンティブを含んだ年功的処遇が進み、いわゆる「三種の神器」(企業別組合、終身雇用、年功制)といわれる仕組みはほぼ出来上がった。また、1955年には春闘が始まり、全国・産業レベルの労働組合活動は、それまでの政治的・闘争的性格が薄れ、企業内の労使関係を中心としつつ、それを経済的に克服・補完する賃金引上げに活動の重点が置かれた。1957年(日本版は1958年)には、アベグレンが「日本の経営」のなかで、欧米諸国とは異なる我が国独自の企業の終身雇用慣行とそれによる工業化の成功を指摘し、それまで後進的な仕組みとされた日本企業の雇用システムに関する固定観念を覆した。

1960年代には、三井三池の長期闘争を契機に、労使の雇用尊重の機運は一層高まり、高度成長が進行するなかで、好調な企業収益を背景に、所得向上と長期雇用が一段と進むとともに、企業内において技術革新に伴う職務の再編とブルーカラーの職制の確立、賃金・処遇面における職・工の区分の撤廃がなされ、一体的な従業員制度が確立した。さらに、1960年代後半に、学卒一括採用方式の形成、企業内における意識的な配置転換やOJTなどの能力開発手法の確立、労使コミュニケーションの活発化により、企業中心主義と組織の一体化が進んだ。1960年代から1970年代にかけて、裁判所は、解雇権濫用法理や広汎な人事権の裁量を認める法理を確立し、大企業に特有の雇用システムは、わが国の雇用システム一般としてルール化された。

その後、1970年代の石油危機を労使の緊密な協力と政策の支援により強制解雇をせずに乗り切ると、雇用政策は雇用システムの支援と活用に転じ、OECDに代表される国際的な称賛を得て、「日本的雇用システム」は、我が国の社会を支える確固たる基盤となった。1980年代には、プラザ合意を契機とする円高不況も乗り切り、労働力人口の高齢化や女性進出と均等要請への対応、非正規労働者の急増などの構造的問題を抱えながらも、バブル崩壊前まで表面的には絶頂期が続いた。

3 雇用システムの発展の特徴

こうして確立・発展したわが国の雇用システムは、バブル崩壊後、幾度もの改革論や無用論が唱えられながらも、骨格は、今日に至るまで労使の支持を得て持続している。その発展の特質として、次のような点が注目される。

労働市場と企業組織の起源

第一に、雇用システムの背景をなす社会的土壌、労働市場、組織のあり方は、明治期以前からの長い歴史のなかで醸成された。

例えば、江戸期において、幕府は仲間や組合などの職人や商人の横断的組織に対して、統制と特権の付与によるコントロールを行い、その自律的な発展を抑制した。特に、職人親方の集まりである「仲間」が、西欧のギルドのような厳格なクラフト規制力や一人前の職人の資格づけ能力を欠いたことによって、幕末の職人労働市場は雑業へと続く流動的で不定形な労働市場に飲み込まれた。明治期以後の労働市場は職種や職能別などの横断的秩序を欠くこととなったが、それには、明治期以前の労働市場の影響を無視できない。

また、組織の仕組みという点で、初期の官業企業が人事制度として身分的資格制(等級制)を採用し、それが財閥企業に引き継がれ、資格等級制度の形で人事制度の骨格として発展したこと、財閥企業において、江戸期の商家大店に由来する所有と経営の分離した総有制や内部昇進の仕組みを引き継いだことなど後世の企業組織や運営のあり方にかかわる重要な展開がみられた。

内部労働市場の発展・拡大とその要因

第二に、わが国の企業の雇用システムは、人材の企業組織への定着と長期雇用・内部育成・内部昇進方式の適用をもって特徴づけられるが、その対象は、概ね、年代が下るにつれ、経営層→技術者→ホワイトカラー→養成工→ブルーカラー全体へと拡大した。

その要因として、戦前では、①流動的な労働市場の中での定着促進的な勤続奨励的な処遇や経営家族主義の導入、②企業外の政治的活動の抑制と他方での工場委員会などによる企業内の労使協調の推進、③技術の変化に伴う直庸性への転換と養成工制度の導入、④驚異的な初等教育の普及と現場労働者の質の高さなどがあげられる。また、戦時中における従業員全体を対象とした、定期昇給や生活給などの処遇の適用や産業報国会での職場懇談の経験は、戦後の発展に大きな影響を与えた。

戦後になると、GHQによる民主化の方針のもとで、職・工両者を含む労働組合の設立と「身分制撤廃」を唱える組合運動が進展し、ホワイトカラーとブルーカラー間における労働協約や就業規則上の身分的差別はほぼ解消した。さらに、高度成長期における大量生産方式などの新技術の導入に伴い、高卒者の生産ラインへの配置による現場での中卒者と高卒者の混合、職長制度に代表されるブルーカラーのラインへの統合と昇進ルートの確保などの職務再編などによって両者の区分は崩壊し、配置転換・異動などの措置や完全月給制がブルーカラーにも適用され、一体的な従業員制度が確立するに至った。

経営・生産システム及び教育システムとの関連

第三に、雇用システムは、経営・生産システムや教育システムとの相互関連のもとに発展した。

まず、経営システムとの関連では、戦後に、企業集団による株式相互持合いとメインバンクからの資金調達・関与のもとに株式市場から相対的に独立したガバナンス構造が成立し、内部昇進者からなる取締役会構造とあいまって、企業の長期的繁栄を追求する経営姿勢や雇用保蔵的行動を可能とした。その環境のもとで、企業内労使の自律と長期雇用をベースとした雇用システムが発展した。

また、生産システムでは、1960年代を中心に、日本流の全員参加型のTQCが発展し、現場労働者と技術者の一体性に基づく「工程で品質をつくり込む」ことや「ムダ」の排除の徹底がなされた。こうした日本的生産システムは、能力発展を意識した配置転換・OJTの普及や幅広い事項にわたる労使協議の積み重ねなどの従業員一体の雇用システムと相互に関連して生まれた。

さらに、教育システムとの関連では、高度成長期以後、大企業で新規学卒者の一括採用が普及し、「日本的雇用システム」とセットとなって、採用後の訓練受容能力としての「潜在的・一般的可能性」や業務の集団的遂行に必要な「協調的・同調的態度」を重視する「能力観」が発展した。そのため、企業において偏差値の序列上位の学校の新卒者を優先採用する傾向が強まり、雇用者の急増と進学率の向上を背景に、良好な就職先に繋がる大学の進学を巡る受験競争が激化した。それによって、雇用システムと教育の相互に関連し合った強固な「学歴社会」が構築された。

4 雇用システムと政策の関連

こうして形成された雇用システムは、雇用、労使関係、最低賃金、社会保障、教育の各分野にわたる近代国家の政策のあり方に強い影響を与え、企業内の雇用システムを中心に、それを支援・活用・補完する独自の政策体系が築かれた。

第一に、雇用政策においては、石油危機の発生に伴う大量の離職者発生の危機に直面し、それまでの手当の支給を中心とする失業保険法を雇用保険法に改め、企業の雇用維持努力の支援をはじめ企業の内部労働市場を活用して雇用の安定を図る政策に転換した。高齢者対策についても外部市場経由の雇用率による雇用促進対策から、企業内の定年延長政策に転換した。その後も、企業内の雇用維持、定年延長、能力開発措置の支援等の対策を強化し、内部市場支援政策を持続・発展させた。

第二に、労使関係政策においては、戦後の激しい企業労使の紛争に関し、労働委員会が調整機能を発揮して紛争解決に活躍した。また、1949年の労働組合法の改正により、政治的な産別の企業内組合への関与の排除や経営参加的な経営協議会から団体交渉中心の仕組みへ方向づけがなされ、労使関係は政治的色彩を払拭し企業内の労使関係中心に移行した。その後、企業の枠を超えることを狙いとした春季賃金共闘も産業別のテーブルを構築するに至らず、企業内中心の団体交渉と労使協議を二本柱とする安定した労使関係が築かれた。

第三に、賃金政策については、1959年に最低賃金法が制定され、1970年代に審議会方式による最低賃金制度普及の全国化が達成された。しかし、その性格は、一般最賃の性格を持った「大くくり」の業種賃金であり、単身者の低賃金をベースとする賃金制度の影響を受け、新規学卒者やパートタイマーなどの賃金に張りつく低水準であった。1980年代末に、職種に応じた一人前の賃金の実現の目的を持って、「小くくり」の「新産業最低賃金制度」への切り替えが図られたが、「大くくり」業種賃金からの移行が中心となり、狙いは実質的に挫折した。この頃には、企業の内部労働市場が深くなり、横断的な「一人前」の賃金を決めることは困難な状況となった。

第四に、社会保障政策では、高度成長期に急速に制度の整備が進み、1961年の段階で皆年金・皆保険を達成し、1973年に高齢者医療の無料化や「5万円年金」の実現等により実質的な内容を伴うに至った(「社会保障元年」)が、社会保障の対象は、年金、遺族関連、高齢者医療等の人生の後半期に集中し、現役世代の生活保障は主として雇用(雇用保障、年功的賃金・手当、社宅など手厚い福利厚生、退職金等)と家族(育児・介護)に委ねられ、その補填という性格が強かった。また、適格年金制度や厚生年金基金制度が設け、企業の退職金・年金制度の強化を図った。

5 社会のあり方の変化

戦前から戦後の高度成長に至る時期は、農業社会から産業社会への移行期であり、その間、就業者に占める雇用者の比率は一貫して上昇した。1960年前後には、その比率は半数を超え、1970年前後に約3分の2となり、それに伴って、社会のあり方は大きく変化した。

まず、経済の高度成長によって雇用者を中心に所得の向上と格差の縮小がもたらされ、分厚い中間層が形成された。ブルーカラーを含めて「中流意識」が広まり、消費活動が活発となった。1980年頃には、所得が欧米並みとなり、キャッチアップの段階を終了し、人々の関心は生活関連社会資本の充実、交通難・住宅難の解消など生活の質の改善に向かった。

また、高度成長期以後、産業化に伴う雇用需要の拡大に応じて、若年層を中心に農村部から都市部への大量の人口移動が生じ、都市では過密に伴う住宅問題、通勤難・交通難が生ずる一方、農業の衰退による地方の人口減少など地域間格差が拡大し、全国開発計画が繰り返し打ち出された。他方、雇用者の増加に反比例して、自営・家族従業者は激減し、社会のあり方は、多様性が薄れ雇用者中心の単線的な性格を帯びるようになった。

さらに、人口面では、1950年代に入り少産少死傾向が明確となり、戦前から5人前後で一定していた家族人員は高度成長期に4人前後に縮小し、夫婦と子供からなる核家族が増加した。その後も減少が続き、1980年代後半には単身者世帯が増加し、家族の機能や紐帯の後退が始まった。

1970年代以後、平均寿命の伸長と少子化による人口の急激な高齢化が始まり、高齢者の介護問題の深刻化のほか、特殊出生率の顕著な低下も加わり、社会保障の持続可能性や経済の縮小など社会全体の負担に対する懸念が生じた。また、子供の数の減少や家事時間の短縮により、収入の拡大を求める主婦のパート就労の増加など共働き世帯が増加し、男女役割分担意識に変化が生じた。

教育では、高校進学率は1970年代前半には殆どの学生が進学するようになり(90%程度)、大学進学率も1975年には40%程度となった。この頃には、大企業への就職など良好な雇用機会へけた学歴と学校の選好意識が高まり受験競争は過熱気味となった。

全体として、我が国では、戦後の経済・産業の発展に伴い、企業における安定した雇用をベースに、豊かで安定した社会が築かれた。1980年代には、経済面におけるキャッチアップの段階を終了し、生活の質の改善などを含め独自のあり方を探る段階となった。他方、農業や自営業の衰退によって家族数の縮小・機能の後退とともに、地域の人口減少と共同体の衰退が生じた。元々、中間的団体や横断的組織の発達が十分でないなかで、社会のあり方は、企業が経済社会を牽引する単線的・一元的な姿に変化した。そこにバブル崩壊の激震が企業と企業中心の経済社会体制を直撃し、我が国の経済社会は、独自の歩みをする前に長きにわたる大きなダメージを受けることとなった。

6 今後の調査研究

以上が、江戸期からバブル崩壊前までに至る「雇用システムの生成と変容―政策との関連」の概要の紹介である。本報告においては、雇用システムの生成・変化を軸として、関連政策や社会の歴史的変遷を描出するよう努めた。また、雇用システム生成の背景として、明治期以前の社会や労働市場のあり方も無視できないと考え、その紹介も含めた。

雇用システムは、人々の労働上の実体験に根ざす面があり、横断的な仕組みを欠いた労働市場の性格や資格等級制に代表される企業組織の特性など政治的変革を超えて長期にわたり持続してきた。

ある意味では、政治・経済とは異なる論理が働いており、そこに社会労働政策の視点から経済社会の状況に光を当て、バランスのとれた経済社会のあり方を探る意味があるものと考える。今後、バブル崩壊後について、雇用システムの持続と変容という視点を中心に調査研究を行い、本プロジェクトの最終目標である政策的な含意を提示できることをめざしていきたい。