JILPTリサーチアイ 第8回
60年を迎える春闘

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調査・解析部 政策課題担当部長 荻野 登

2015年5月15日(金曜)掲載

3度目の転換点を迎えた「春闘」──60年の節目で考える

わが国における賃金決定に大きな影響力を持ついわゆる「春闘」が今年で60年を迎えた。

「経済の好循環実現に向けた政労使会議」の合意などを受け、昨年、今年と2年連続で賃上げが拡大してきたことで、しばらく存在感が薄かった「春闘」に対する関心が高まっている。調査・解析部では国内労働情報収集の一環として、昨年と今年はとくに春闘に関する情報収集に力点を置いた[注1]。本稿では春闘が60年の節目ということもあり、その軌跡をたどりつつ、3度目の大きな転換点にある「春闘」の意義について考えたい。

スタートについては諸説あるものの、1955年(昭和30年)の8単産共闘(合化労連、私鉄総連、電産、炭労、紙パ労連、全国金属、化学同盟、電機労連)による共同行動を基点とすると今年がちょうどその節目の年となる。この年は、政治的には保守合同による自民党結成・左右社会党の統一によるいわゆる「55年体制」が確立、日本経済が戦前水準に回復、日本生産性本部が発足するなど、戦後復興から経済拡大期に入ろうとしていた。

春闘の発案者である太田薫・合化労連委員長は、その闘争方式を「暗い夜道を一人で歩くのは不安だ。みんなでお手々つないで進めば安心」と表現した。企業別ではなく産別統一闘争を軸とすることで、労働組合の交渉力を高めることに狙いがあった。

当初、春闘方式は旧総評系の組合を中心にストライキを背景に回答を迫ったこともあり、「経済要求に名を借りた政治闘争、あるいは階級闘争といわざるを得ない」(日経連)、「春闘は日本の経済社会を混乱、マヒさせ、みずからの政治的野心と革命的闘争の野望を満たそうとする暴挙」(自民党)と手厳しい批判を浴びた。

しかし、春闘は60年代に入ると高度経済成長の波にのり、池田内閣による所得倍増計画の追い風もあり、63年から労働側は「ヨーロッパ並み賃金」の実現をスローガンに掲げ、大幅賃上げ路線を突き進んだ。その結果、64年から12年連続で、毎年10%以上の賃上げを獲得する。

第一次石油危機で高度成長にピリオド──「春闘終焉」が宣告される

その春闘に一度目の大きな転換点が訪れる。1973年の第一次オイルショックにより、高度経済成長は破たんする。買いだめ、売り惜しみなどにより卸売・消費者物価が20%以上アップする「狂乱物価」の様相を呈し、74年の実質GDPは戦後初めてマイナスを記録した。74年春闘は、この高いインフレ率のもと展開された結果、主要企業平均で32.9%の大幅賃上げで決着。しかし、このままの賃上げを続ければハイパーインフレを引き起こしかねないことから、政府・経営側が15%のガイドラインを主張。片や労働側も前年度実績プラスアルファという要求パターンを見直し、75年春闘では国民経済との整合性を重視した自制的賃金要求である「経済整合性論」に基づく要求スタンスに転換した。その結果、75年の賃上げは13.1%に低下し、これ以降、10%超の2桁賃上げは影を潜める。

この結果について、労働界の評価は真二つに分かれた。整合性論を主唱した鉄鋼労連は「安定経済への移行過程期としての賃上げとしては、少なくとも国民経済論的見地からすればまずまずの状況」と評価、一方、春闘スタート時からの主軸産別である合化労連は「75春闘は完全に敗北したとみとめなければならない」と総括した。

いずれにしても、これにより「大幅賃上げ路線」にピリオドが打たれた。そして、春闘の発案者である太田薫氏は自らの著書で『春闘終焉』(1975年)を宣告する。

国際競争力の危機、デフレ長期化で「ベア中心春闘」が終焉へ

労働側がこうした自制的な賃上げ要求にシフトしたこともあり、わが国は欧米諸国が陥った景気後退とインフレが同時進行するスタグフレーションからいち早く脱し、安定成長期に移行する。欧米先進国はインフレに対応するため、政府が賃金決定に介入する「所得政策」を実施したが、わが国の場合、労使自治を前提にした交渉をベースに、この難局を乗り切ったことになる。

しかし、80年代後半からのバブル経済を経て、バブル崩壊後、日本経済が長期不況の深みにはまっていくなかで、「春闘」は新たな危機に直面する。景気低迷に加え、90年代後半からはデフレの進行が加わり、労働側の「定期昇給+過年度物価上昇分+生活向上分」というインフレを前提としたベースアップ中心の要求方式も有効性を失う。そして、賃上げ率は下落の一途をたどった。

2000年代に入ると、円高基調の定着などによる国際競争力の危機に直面、さらにITバブルの崩壊などにより、雇用の安定・確保が労使共通の最優先課題になる。こうした背景もあり、経団連は2003年の交渉に向け発表した『経営労働政策委員会報告』(02年12月)で、「労組が賃上げ要求を掲げ、実力行使を背景に社会的横断化を意図して『闘う』という『春闘』は終焉した」と宣告。さらに「企業の競争力の維持・強化のためには、名目賃金水準のこれ以上の引き上げは困難であり、ベースアップは論外である。さらに、賃金制度の改革による定期昇給の凍結・見直しも労使の話し合いの対象になりうる」として、ベアゼロだけでなく定昇のあり方を含めた賃金制度改革に踏み込むべきであると主張した。

労働側も03年春闘で、連合と相場形成役の金属労協が初めてベア統一要求を断念、それ以降、労働側は春闘の機能を「ベア中心からミニマム重視」に転換する。

ベア要求を中心にした春闘は、ここに至り、二度目の大きな転換点に直面する。

政労使対話が促した「春闘」機能の転換

人間で言えば「定年」を迎える「春闘」は、職業人生に似て順風満帆ではなかった。しかし、労使双方から二度の「終焉」宣告を受けつつも、新たな一歩を踏み出そうとしている。その「春闘」の再生を促した契機となったのが、安倍政権で設置された経済の好循環実現にむけた政労使会議だった。

ところが、過去を振り返ると、今回の会議だけでなく、春闘の転換期にあたり、政労使対話の「場」の存在が大きな意味合いを持っていた。

75年春闘で他産別に先駆けて「前年度実績マイナスα」方式への転換を提案し、経済整合性論を主張した宮田義二・鉄鋼労連委員長は、その下地を生んだのは「産労懇」だったと回顧している[注2]。産業労働懇話会(産労懇)は1970年に労働大臣の私的諮問機関として設置され、政労使のトップ及び学識者が産業・労働政策全般について定期的に懇談する場だった。首相や主要閣僚もゲストとして招かれ、政府からの報告などを基に情報交換が行われ、相互理解が深まった。

また、2000年に入ってからの雇用危機に当たっては、2002年3月に政労使で構成するワークシェアリング検討会議が、「日本型ワークシェアリング原則」を確認している。労働側は時短に伴う賃金抑制を容認しつつ、ワークシェアを活用した雇用維持・創出策に関する政策のフレームワークに合意した。

賃金・雇用のあり方について、最終的には個別企業における労使自治を前提とした交渉・協議で結論が導かれることになるが、日本経済が大きな危機に直面したこうした節目で、政労使対話の「場」が大きな意味を持ったことが分かる。

そして今回の政労使会議では、デフレ脱却に向けた経済の好循環を実現するために、継続的な賃金上昇が求められることを確認した。「春闘」については、先にみた労使からの「終焉」宣告だけでなく、メディア・学識者などから幾度となく、限界・行き詰まりを指摘され続けてきた。しかし、「春闘」は生き延びてきた。還暦を迎えた「春闘」だが、これまでとは異なる社会的な役割を担いつつ、新たな歴史を刻み始めたといえるのではないだろうか。

注1 ナショナルセンター、産別の動向などについては週2回発行の「メールマガジン労働情報」の記事として提供し、さらに2015年5月25日発行の『ビジネス・レーバー・トレンド』6月号で「2015年春季労使交渉の動向」を特集テーマとしているので、ご参照いただきたい。

注2 宮田義二著『組合主義に生きる』(2000年、日本労働研究機構、92ページ)。同著ではまた、ハイレベルの有識者および政労使による懇談の場についてのアイデアが生まれたのは、当機構の前身である日本労働協会の中山伊知郎会長と囲碁を指していた時との興味深いエピソードも語られている。