10.活力ある産業集積から学ぶもの
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今まで台湾を含めまして、幾つかの典型的な産業立地の状況を見てきたわけですけれども、そうした産業集積から何を学ぶことができるかということが、次の我々の課題であります。
成功、繁栄している産業立地は、たいへん分業の厚みが深い、あるいは技術蓄積の深度が深い、ということが言えます。これは歴史のある、例えば北イタリアなどの場合は特にそうなのですけれども、分業の厚みは、地域共同体意識によって支えられているのです。台湾の新竹園区のような、どちらかといえば一見ドライな環境であっても、働く人たちの結束した意識をどうやって維持、促進できるかにかなりの関心を持っている。ともすれば忘れてしまうことなのですが、地域共同体意識は考慮すべき非常に大事な要因です。
それから、やはり勝負は技術力です。その地域の中で競争力ある技術をいかに蓄積していくのか。さまざまな仕組みで高度な人材を取り入れて、その人を媒介にして企業あるいは地域の中に新しい技術を取り込んでいく。そのためには、組織的なネットワークばかりではなく、個人のネットワークも自由自在に使う。できるかぎりのことをして、国境を越えていい人を連れてくる。先端企業で働く人に国籍は問題ないということです。
アメリカではこのところ、高度な能力を持った専門家とか技術者に対する移民の枠を広げるなど、移民政策がこの方向へシフトしております。アメリカの場合も日本と同じように、熟練度の低い未熟練といわれる人たちを基本的に受け入れていません。メキシコ国境に高い障壁を設定して受け入れない。低いスキルの人材はむしろ発展の障害になるけれども、高い能力を持った人は発展していくための知的ベースとして大事だということで、そこはむしろ枠を広げたわけです。少しひどい言い方をすると、アメリカは自分の教育機関、あるいは産業で育成できない高度な人材について、ほかの国で育成したものをさらってしまう。これが、実は開発途上国にとって頭脳流出といわれる大きな問題であります。
昨年、中国・上海市の復旦大学で集中講義をしたときに聞いた話ですが、半導体、マイクロエレクトロニクス関係の大学院生が20人卒業したけれども、実に17人がアメリカに行ってしまった。開発途上国がせっかく立派な教育をしても、残念ながら非常に大きな所得、賃金格差のために流出してしまい、中国の大学はこのままだと、先進国の予備校になってしまうと嘆いておりました。ただ、逃げていく人を止めることはできないんですね。祖国の発展が現実に見えてくれば、長い目で見れば戻ってくると考えざるを得ない。その点において、台湾のケースは、非常に巧みな還流を行っているわけです。国際的な人材マーケットをたいへん重視して、そこに突破口を見出し、将来に期待するということです。
もう一つ大事なことは、産業集積の場所と市場との関係を密接に持つことです。北イタリアのカントリーノという木工家具の集積地の話ですが、数人でやっている小さな企業を何年か前に訪ねました。そこの経営者はこう言いました。自分のところは、ほかの企業との距離をどれだけ保てるかということを最大の目標にしている。つまり人まねをしないということです。日本の飛騨の産地から調査団が来ると、翌年にはコピー製品が出るといっておりますけれども、彼らはそういうことを非常に嫌い、自分のところでつくっているのは、数は少ないけれども世界でここにしかないんだ、それが競争力の根源だということです。創造性とかユニークさで勝負するのだということであります。
しかも、自分たちは常に海外の市場にネットワークを持っている。例えば、自分たちの最大の競争相手はスウェーデンやドイツの家具メーカーであるなどというわけです。自分の店の商品を東京で見たかったら、青山通りの何とかという店へ行けばあるのだと。そういう形で、絶えず市場のニーズ、変化を取り入れる努力をする。創造性を常に発揮する雰囲気を絶やさないということですね。
そうしたことを考えていきますと、日本の現状は少し心寂しい感じがします。将来ビジョンがほとんどなく、地域振興券でバラまき支出をしたり、その場かぎりの仕事を生むだけの公共支出が目に余ります。日本の将来を考えて、次の世代のために多少回り道でも今なにをすべきかという視点が感じられません。ここで、私がお話するのは、そうした視点に基づいての長期プランの一つの構想です。この他にも、いくつかの構想があります。
一つは日本列島のランドスケープ(景観)再生案とでもいうべきものです。わかりやすく言いますと、例えば私が外国人を連れて新幹線に乗り、静岡県の小田原、三島近くで富士山がこの辺で見えるという話をします。晴天で富士山が見えるとたいへん喜んでくれるのですが、ある時、富士山はすばらしいけれども、その足下がたいへんアグリー(みにくい)といわれてしまいました。ふもとの静岡県の吉原周辺などでは製紙メーカーの煙突が林立していて、煙を上げている。こんな状態を日本はなぜ許しているのかと。そういうことを言われましてたいへんショックを受けました。一方、左側の旧東海道沿線あたりを見ますと、日本列島改造計画が行われる前は、白砂青松というほどではなかったと思いますけれども、子供たちが海水浴のできるところがかなりありました。清水や興津、熱海でも十分海水浴ができました。けれども、今や海岸線をテトラポットが埋め尽くし、かつての面影はまったくない。
50年代、60年代の経済成長が非常に大きな経済的成果をもたらしたことは事実でありますけれども、その反面、失ったものも非常に大きいわけです。失ったものを何とか復元して、次の世代に戻す。そのためのランドスケープの再生。自然をもとあった状況に、完全に戻すことなどはできるとは思いませんが、少なくともある程度は復元し、美しさを誇れる国土にしたい。今の日本の技術をもってすれば、決して無理な注文ではない。別に、反工業化政策を提案しているわけではありません。環境、自然との共存を全面に押し出した新しい産業や立地の構想が必要ではないでしょうか。こういう考えが一つの国家的な政策目標になれば、それを通して波及した枝葉の計画が出てくるわけです。今はまさに短期的考えが支配して、将来像がほとんど何もない。とにかく公共支出だけ増やせば、土木事業が生まれるのではないかと。こういう情けない計画が横行しているわけです。
11.日本を再び魅力ある国にするために
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もう一つ必要なことは、今まで強調してきた高度な、これからの日本を支えていくような知的人材の養成プランをどうやって提示できるかということです。今の日本の高等教育は、完全に荒廃しています。戦後日本の高等教育は、進学率だけを増やし、短期大学まで含めますと今やほぼ50%弱、要するに同世代の2人に1人は大学へ行くところまできました。本来大学に期待する知的な関心ははじめから持っていない層が大学生になってゆく。友達が行くから自分も行く。大学を出ていなければ、職につけないかもしれないから行く。もう少ししますと全入時代といわれて、大学の名前さえ問わなければどこかに入れる。そういう時代が本当に目前に来ているわけです。国立大学も全部含めまして、日本の大学生の知的レベルが急速に低下していることは、いろいろな資料で歴然としています。
教育には多くの人々が関係しますが、こうした事態を放置してきた文部省にとりわけ大きな責任があると思うのですが、形式的・表面的な部分にしか手を着けていない。しかも、一国の高等教育のあり方を議論する大学審議会のようなところが、大学は卒業試験をもっと難しくするようになどと、子供みたいなことを提言しているわけです。
きょうの話の関連でいえば、グローバリゼーションの時代には、国籍だとか年齢だとか性別だとかいった属性にこだわらない優れた人材の登用を考えなければいけません。そのためには、いかなる政策が必要なのだろうか。
目前に迫った次の世紀に日本がどんな産業で生きていくのかというイメージが残念ながらほとんど具体化していないのです。通産省をはじめとして幾つかのレポートが出てはおりますけれども、一般国民には疎遠な感じがしますし、現在の段階でみても新しい世紀におけるイメージはほとんど見えていない。ましてやそれを具体的な人材の教育・開発体系と併せて考えるということには全然なっていない。沈没している船から脱却するための戦略的な思考が非常に欠如している。
考えねばならないことは非常にたくさんあります。きょうのテーマは、雇用の側面でありましたけれども、雇用の次元だけを考えても雇用政策は成立しません。雇用は、よく知られるように派生需要といいます。それが生まれる前段に幾つものステップがあって、例えば自動車業界で雇用が生まれるためには、自動車が売れなければならない。そのためにはどういう自動車が開発されて、どういう経路をとって売れ、どこのマーケットに売られたかという非常に長いステップが鎖、チェーンのようにあるわけです。ですから、産業と雇用をもっと密接に引き寄せ、広い次元において産業・雇用政策を構想しないかぎり、望ましい政策は生まれてきません。縦割り行政の弊害は、今日のような危機的状況で先鋭に露呈しています。
グローバル・スタンダードという妙な言葉が流行しています。ひところ、日本的経営とか日本的雇用システムというものが、世界的に採用されるモデルとまではいかないまでも、一つの有力なモデルとして注目されました。しかし、今回の経済危機で、もろくも沈没してしまっているわけです。ただ、やや希望的観測も含めてではありますが、やはり企業は人あっての企業であります。日本の企業が今まで大事にしてきた、例えば人的資源を中心に置くという考え方はまだすっかり消え去っているとは思えません。そこをベースにして、人間重視の経営をどう再構築していくか。働く人たちの生き甲斐と能力を最大限に引き出し、確保できる環境をどのように準備していくかということが、日本の人的資源政策の大きな課題だと思っています。 そのためには、さきほど少し申し上げました世界の高度なマンパワーをむしろ積極的に誘致できるような状況をつくる。日本人だけの雇用というのではなく、必要ならば世界の人材の力を借りて活性化を図る。日本の高等教育機関である大学や産業が世界の人々にとって魅力あるものになりうるか。多くの問題を抱えながらも、アメリカの高等教育や先端産業はそうした課題にひとつの答えを出してきました。アジアの国々の人々がなぜ日本を飛び越えて、アメリカに行くのか。日本は世界にとって魅力ある教育・産業の場を提示できるだろうか。この問いに日本が応えうるならば、次の世紀に日本が新たなモデルとして見直され、再浮上する可能性は残されていると思われます。