労働政策の展望
ワークルール教育の重要性・難しさ

道幸 哲也(放送大学教授)

労働法は職場での労使の権利義務のあり方を研究することを主目的とする。権利義務は紛争状態を前提とし、裁判はそこでの合理的な、すなわち法的なルールに従った解決を目指す。法学部やロースクールでは、裁判規範の教育が中心となり、とりわけロースクールでは司法試験の合格が至上命令になるので最高裁判例を中心とした判例法理の学習に明け暮れることになる。

その過程で欠落するのは、次の2点である。

その一は、判例法理に対する批判的もしくはそれを相対化する視点である。法解釈はある種の価値判断に他ならないが、膨大な判例法理を暗記する作業に没頭して、そのような余裕を持つことは困難となる。疑問を持つことは受験生にとってはタブーであり、本人にとってはやむを得ない側面がある(私の感想は、「法科大学院の論点 ロースクールにおける労働法教育」法学セミナー2012年1月号65頁)。しかし、問題は、法学研究・教育のレベルにおいても判例法理を矛盾なく説明する「官僚的な」資質の獲得のみが追求されがちなことである。

その二は、職場における実際の紛争に対する関心の欠如である。紛争の背景、発生の経緯・メカニズム、人間的な葛藤、自主解決の意義、労使自治の評価、法的な処理の限界等についてまで考えようとする態度はあまり見られない。また、労使紛争の背景となる労務管理、労働運動等について知ろうという意欲もほとんどない。これは権利実現の仕組みや法の役割に関する無関心に結びつきやすい。


労働法が適用されるのは実際の職場であり、権利義務の担い手は労働者(労働組合)や使用者である。とりわけ、権利実現の主要な担い手は個々の労働者に他ならない。ところが、彼らは労働法に関する教育を、学校や職場においてほとんど受けていない。知識の面でも実践的な能力についてもそうである。したがって、職場の法的なトラブルに直面しても、その解決方法はもとより何が問題かさえも適切に理解し得ない場合が多い。それがブラック企業やブラックバイト問題を生み出している一つの原因である。

一般市民や学生に対し使い勝手のよい実務的(実践的)な労働法の考え方や法理を教えるワークルール教育のニーズは高まっている。論議も活発になっているが、マスメディアでは労働法の研究者よりも高校の先生、キャリア教育関係の研究者さらに弁護士の発言が多かった。ブラック企業やブラックバイト対策として「労基法や最賃法を学びましょう」という流れであり、労働法全体をどう考えるか、教えるかという側面ではきわめて不十分なものといえた。労働法研究者の問題関心のなさがその原因でもあった。

とはいえ、日本労働法学会でも、労働法教育についてここ15年ぐらい前から議論されるようになっている。たとえば、2002年の103回大会では「労働事件の専門性と労働法教育」と題してのミニシンポが開かれ、2006年の学会誌(107号)の特別企画として「労働法教育の今日的課題」が発表された。もっとも、教育といっても一般市民や生徒・学生向けというより法学部や専門家教育が念頭に置かれていた。本格的に、ワークルール教育の課題が取り上げられたのは、2015年春の労働法学会のミニシンポにおいてである。ワークルール教育がなぜ必要か、どのような内容を、どのようにして教えるか、の論点とともにワークルール教育とは何かといういわば原理的な問題も論議された。労働法学会としてやっとスタートラインに立ったといえる(なお、ワークルール教育の現状と問題点については、拙稿「ワークルール教育の課題」季刊労働法244号(2014年)4頁、「権利主張を支えるワークルール教育(一)(二)(三)」労働法律旬報1837号42頁、1838号30頁、1839号44頁(2015年)も参照されたい)。

確かに、「研究」という視点からはワークルール教育は卑小な論点と思われがちである。しかし、権利の実現という立場からは、権利内容をどう教えるか、何が権利行使を阻害しているかはまさに基本的問題である。同時に生徒・学生や一般市民に対し、ワークルールを実践できるようにどう教えるかという課題を追究することによって、労働法体系や個別の法理のあり方について新たな角度からの議論を展開しうる可能性もある。解釈学では、説得力が要求され、この説得力の獲得は、相手が理解しやすいように教育するという作業と類似しているからである。実際にも専門家同士の議論では見えにくくなっている論点は少なくない。


このような問題関心から研究すべき緊急の課題として、労働法における権利実現のメカニズムの解明を前提とした教育のあり方があげられる。権利実現については一応、次の5つの側面を指摘できると思われる。

その一は、法に関する知識や情報である。権利について知らなければ「権利主張」ができないのは当然である。条文や主要な裁判例を知る必要があり、そのためには一定の体系的学習も必要とされる。同時に、自分の契約上の権利内容、具体的には労働契約書、会社の就業規則等について的確に知ることも重要である。さらに労働組合、相談体制や救済機構等の権利実現の仕組みに関する知識も必要とされる。

その二は、権利意識である。権利をわがものにし置かれた状況で行動を起こす資質といえる。そのためには、権利についての理解、それを他人に適切に伝えるコミュニケーション能力、さらに対立をおそれない態度が必要とされる。自分の権利・利益とともに、他人、とりわけ同僚の権利行使を敵対視しない態度も案外重要である。実際に権利行使を妨げるものとしては使用者の対応よりも権利行使を嫌悪する同僚の態度のほうがよほど抑圧的な場合があるからである。現実の職場においては緊張状態を作らない「協調性」が重視されるとともに、強い「同調圧力」がある。権利・義務的な世界とは異なった組織文化といえる。

その三は、権利行使を支援する仕組みである。権利行使は個人の主体的行為に他ならないが、それを社会的に支える労働組合や外部の団体(労働NPO)の役割、さらに同僚の支援も重要である。労働紛争は職場を基盤とした集団的性質があり、その帰趨は他の従業員に対しても決定的影響があるからである。その点では、職場トラブルの処理の仕方について共通の情報を得るニーズも高い。さらに、法テラス等による法律扶助の役割やマスコミ報道による教育的効果も見逃せない。また、権利行使を促進する仕組みとして、特定の権利行使や申立・申請をしたことを理由とする不利益取扱いを禁止する規定の存在も重要である。

その四は、権利を実現する機構・手続きである。種々の相談体制以外に、労働局による個別斡旋制度、労働委員会、労働審判さらに裁判所等が整備されている。しかし、それが使い勝手の良い制度として適切に利用されているかはやや疑問である。実際にも紛争解決手段としてはそれほど利用されてはいない。

その五は、具体的権利内容を規定する実定法である。とりわけ、労働基準関係の立法が重要であり、ほとんどが強行規定なので知る必要性も高い。もっとも、労基法上の労働時間規定や労働者派遣法の規定は、複雑難解であり、普通の労働者にとって理解が難しいものである。また、就業規則や雇用終了に関する条文は、判例法理を追認した内容になっているので、関連する知識が必要である。条文の簡易・明確化も権利実現のためには重要な課題といえる。

以上の諸側面のうち、その一とその二は個人的資質・能力の向上である。その三は社会的支援、その四とその五は制度的仕組みの整備といえる。法学教育では、もっぱらこの制度的仕組みを学ぶことになる。しかし、権利実現の観点からは、社会的支援のあり方とともに、個人的資質・能力をどう向上させるかも重要であり、それらが制度的仕組みとどう関連するかも問題になる。とりわけ、次の2点について解釈論の精緻さだけでは対応し得ない緊急の研究・教育上の課題があると思われる。


第一に、契約的世界をどう教えるか。個人的資質については、条文や裁判例についての情報の入手は容易であるが、その趣旨を適切に理解することは困難である。学校教育でも使い勝手のよい形では教えられていない。また、自分の契約内容についての知識さえあやふやである。労働法の全体的仕組みを正確にわかりやすく解説するテキストの作成は緊急の課題といえる。その際に重点的にとりあげるべき事項として次の3つを想定しうる。①労働基準法を中心とする労働立法、②労働契約の法理論、③集団的な労働条件決定に関する法理、である。現代の「主流」は①といえようか。いわゆるブラック企業・ブラックバイト問題への対処という点では理解できる流れである。しかし、よりベーシックな問題として、②の契約法理の教育こそが不可欠と思われる。労働法上の強行規範はまさに契約法理との緊張関係で意味を持つからである。

職場実態をふまえて自己決定・自己責任の世界を適切に生徒・学生に教えることは難問である。ここでは労働契約をめぐるホットな争点である合意の「真意性」の問題から考えてみたい。この点は、労働条件の不利益変更とりわけ賃金減額事案や退職合意について争われている。最高裁は、権利放棄の事案につき、「自由な意思に基づくものであることが明確」なこと(シンガー・ソーイング・メシーン事件・最二小判昭48・1・19判例時報695号107頁)、「自由な意思に基づいてなされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」していることを厳格かつ慎重に判断すべき(日新製鋼事件・最二小判平2・11・26労働判例584号6頁)と判示している。

注目すべきは、減額合意につき上述判例法理を援用して真意性を重視する裁判例が最近相次いでいることである。たとえば、ザ・ウインザー・ホテルズインターナショナル事件・札幌地判(平23・5・20労働判例1031号81頁、同事件控訴審・札幌高判平24・10・19も同旨)は、次のように判示している。「賃金減額の説明を受けた労働者が、無下に賃金減額を拒否して経営側に楯突く人物として不評を買ったりしないよう、その場では当たり障りのない返事をしておくことは往々にしてあり得ることである。しかし、実際には、賃金は、労働条件の中でも最重要事項であり、賃金減額は労働者の生活を直撃する重大事であるから、二つ返事で軽々に承諾できることではないのである。そのようなことは、多くの事業経営者が良く知るところであり、したがって、通常は(労務管理に腐心している企業では必ずと言って良いくらい)、賃金減額の合意は書面を取り交わして行われるのである。逆に言えば、口頭での遣り取りから、賃金減額に対する労働者の確定的な同意を認定することについては慎重でなければならないということである。原告が供述する程度の返事は『会社の説明は良く分かった』という程度の重みのものと考えるべきであり、この程度の返事がされたからといって、年額にして120万円もの賃金減額に原告が同意したと認定すべきではないと思料される」。

合意の真意性を担保するために、減額事由の適切な説明が必要なことは判例法理としてほぼ確立している(たとえば、更生会社三井埠頭事件・東京高判平12・12・27労働判例809号82頁、日本構造技術事件・東京地判平20・1・25労働判例961号56頁、NEXX事件・東京地判平24・2・27労働判例1048号72頁)。さらに、書面化の要請さえも指摘されている(技術翻訳事件・東京地判平23・5・17労働判例1033号42頁)。

リアルな職場認識からはこの判示はそれなりに理解しうる。とりわけ、個別事案の事後的な処理としてはそうである。たしかに減額事由の適切な説明やその点に関する労働者サイドの理解が必要なことはわかるが、いやいやであっても「合意」した責任をどう評価すべきか。効果を認めるためには本人の心からの「納得」まで必要といえるであろうか。ここで争われているのは、心理過程そのものではなく行為に対する規範的評価に他ならない。法解釈学的な精緻さとともに、合意した責任を回避しうることに対する社会的な理解・コンセンサスが必要とされよう。まさに社会的な「納得」が要請されているわけである。実態に合った契約法理の解明のためには、この世界を適切にかつ理解しやすいように教える必要がある。


第二に、どうしたら権利意識の醸成ができるか。この問題になると絶望的な状況である。実際にも、権利行使に対する解雇・処分というハードな対応以外に、処遇上の不利益やなにげない排除まで多様な抑圧手段に事欠かない(最近の傾向については、拙稿「権利主張を支えるワークルール教育(二)」労働法律旬報1838号(2015年)参照)。このソフトな抑圧構造の解明も緊急の課題である。裁判規範の研究だけでは見えない、というより研究すればするほど見えにくくなる領域といえる。その点では、ハラスメント紛争と同様である。

ところで、行動する資質については、キャリア教育でも強く要請されている。そのためにコミュニケーション能力の強化が指摘されているが、実際に想定されているのは協調的な対応能力である。ルール違反の有無やその是正に関し対立した関係を前提に「議論する」資質ではない。これは、お仕着せのディベートでは身につかない。自分で価値判断をし、それを踏まえた理論構築をし、反論に対し即座に対応することが重要になる。何が正しいかわからないことに対する姿勢も必要とされる。

権利意識を教育を通じて醸成することは想定しうるが、実際の職場というフィールドで自然にそのようなアクションをとることは難しい。ある種の人間関係的な能力・工夫も必要とされる。では、それを全体としてどう教育できるか。契約的世界は対立構造を前提とした利害調整が不可欠であるが、職場はエゴのぶつかり合う場であるとともに労働の場、つまりある種の共同性が不可欠なフィールドである。したがって、ワークルールを踏まえつつも、相手に対する説得力のある説明能力やそれを支える人間的資質が要請される。集団化や組織化の基盤ともいえる。

2015年12月号(No.665) 印刷用(PDF:600KB)

2015年11月25日 掲載

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