労働政策の展望
高等教育における職業教育重視を考える

猪木 武徳(青山学院大学特任教授)

文部科学省が高等教育機関での職業教育重視を目指す「有識者会議」を立ち上げ、その方向へ政策の舵を切りつつあるようだ。筆者は、名古屋の私立大学に勤務する友人から教えられて、平成23年1月31日に示された中央教育審議会「今後の学校教育におけるキャリア教育・職業教育のあり方について(答申)」(抄)に目を通す機会があった。さらに、昨年9月30日、文科省生涯学習政策局長と高等教育局長の「決定」として、「『実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議』の開催について」が公表され、その後、本年5月以降毎月、「有識者会議」(特別部会)が開催され議論が続いているようだ。

現在明らかにされている文科省の基本的な考えは次のようなものである。雇用環境の変化、人材需要の高度化、職業の多様化の中で、職業実践的な教育に特化した枠組みが求められていること、人材育成ニーズと高等教育機関が行う職業教育への期待が高まっており、そのための枠組みの整備が求められていること、などが強調されている。

そのために考慮すべき点として、1)経済・産業界の動向・人材需要を鋭敏に把握し、可能な限りこれに即応した教育を行うことを重視すべきであること、2)生涯にわたる学習活動と職業生活の両立、3)教育の質の保証、4)進路選択の拡大と職業実践的な教育の適切な評価、の4点が挙げられている。

これらを読むと、特に1)からは、産業界からの要請によって、高等教育機関を「職業訓練機関」と「人材派遣会社」を結合しようとするようなイメージを受ける。実際、最近の新聞報道では、専門学校や大学のなかでこの「専門職(業)大学」への移行を進めている所もあるようだ。調理師や介護士といった専門技術を持つ人材を育成するために、「学士」に相当する学位を与えて実践的な職業能力の修得への励みとする狙いがあるようだ。

だが現実には、専門学校で学ぶ生徒はそれほど「新大学の学位」にこだわっているのだろうか。むしろ、近年、大学で学士号を取ることの意味を考え直す若者が増えていると推定できる。そのことは大学進学率が頭打ちになっていることにも現れている。高度な職業教育のカリキュラムを、4年という長い期間ではなく、より短い期間で習得して実地に仕事をしながらさらに高度の技術の習得に励んだ方が、はるかに優れた職業人になれると多くの若者は実質本位に考えているのではないか。学位を持っている、というのは、厳しい職人の世界ではいわば「虚位」にすぎない場合が多いとも聞く。したがってこの「新大学」構想は需要者側の要求を充分市場調査したものではない恐れがある。

こう考えて行くと、「4年制職業大学」の創設にはいくつかの疑問と危惧が去来する。そのいくつかを以下述べておきたい。


先に触れた文科省の文書に「経済・産業界の動向・人材需要を鋭敏に把握し」とある。しかし、そうした産業別・職業別の雇用動向を鋭敏に把握し、それに対処できるのは「市場による調整機能」しかない。いくら企業経営者、行政、あるいは研究者が予測しても、労働市場の変化の速度と多様性を読み取ることはできない。この種の「職業大学」で教員の専門分野と教科内容の動きを「即戦力」という観点から長期的に見通すことはできないからこそ、一般の学校教育でその多様化に対応できる能力の基礎となる原理的学習が重視されるのである。現実の職場での仕事は、素人やエリート経営者が考える以上に複雑かつ高度であり、多様で広汎な力量が要求される。その力量は実地の経験(OJT)を通して獲得されるものがほとんどである。現場で実地に仕事をする者の知識と技能そして判断力をくみ上げるシステムこそが、これまでの日本の生産職場でうまく機能してきた点を軽視してはならない。

高等教育から産業への人材の移行プロセスを考える場合、どの職位職階の技能と熟練のキャリアパスを考えているのかを区別することが重要だ。これまでの日本のシステムのどこが強いか、どこに弱点があるのか、どこが改善されるべきなのか、その改善は社会的与件としての学校教育制度の問題なのかを検討しない限り、机上の空論に終わる。この点は文科省が同時に進める実践的職業教育の重視と文系学部の廃止・改組の問題とも関係する。

たとえば日本の場合これまで文科系の学部を卒業した者の多くは、大小さまざまな企業の事務職に就いてきた。その部課長クラス層の学歴を国際的に見ると、日本は4年制大卒者がほとんどであり「大学院以上」の学歴を持つ者は少ない。

もうひとつの日本の特色は、管理職にある者の現在の職能と彼らが高等教育で専攻した分野の相関関係の低さにある。日本の大卒ホワイトカラーは、高等教育において学部レベルで法学・商学・経営学・経済学を学んだ者が多かった。しかしこうした専攻分野と、彼らが現在企業で携わっている職能(仕事分野)との関係を見ると、その対応関係は弱い。例えば筆者が携わった調査(小池・猪木編『ホワイトカラーの人材形成』)では、経理部長・経理課長ポストにある者は、経済学と商学・経営学の専攻がそれぞれ3割程度を占めるが、法学専攻の者も14%程度いる。「営業」の職能については、工学と法学が全体の3分の1を占めている。日本では仕事に就いてからの実地訓練(OJT)が、いかに大きな力を発揮してきたのかがわかる。「最終学歴の教育内容」の有効性、すなわち「役に立ったか否か」をアンケートで尋ねると、米国では、一部の高等教育機関では実利性が強調されているのに対して、日本やドイツでは実利性、特に専門性の教育という意識は薄いことがわかっている。

「資格」に関しても、同じ調査で注目すべき結果が出ている。日本の場合、「役に立つ資格がある」と答えている者は3割にも満たない。その中で「もっとも重要な資格」とされているのは、人事における「社会保険労務士」(約65%)、経理における「公認会計士」(約3割)、「税理士」(約2割)であって、他に特に目立つ資格は挙げられていない。そして、これらの資格が仕事に就くための必要不可欠の条件となっているわけでもなく、昇進に有利だともみなされていない。

この点を考慮すると、新しい「専門職業大学」の学士号を企業がどのように(能力のシグナルとして)評価するかが極めて重要になってくることがわかる。「専門職業大学」が産業界からの要望で生まれるとしても、その産業界がその「学位」を信用しないことになれば、多くの若者の職業人生は歪められることになる。

ちなみにドイツでは、「役に立つ資格の有無」の割合はほぼ日本と同じ2割5分程度であるが、「資格」の役に立つ理由として、「仕事に就くため不可欠の条件」(38.7%)、「昇進に有利」(39.8%)としている者の割合が日本よりかなり高い点が注目される。

こうした調査からわかることは、国によって事情が違い、その事情を決定付けているのは、企業(労働需要側)がそうした学歴や資格を採用や処遇(昇進のための条件など)の必要条件としているか否かである。米国の労働市場では、「資格」の有無が労働の質を示す強いシグナルとして働いているのに対して、日本では「資格が転職の際に有利だ」という議論は一時出たものの、先に挙げたいくつかの職種以外では、「資格」は労働力の質を示すシグナル機能をそれほどは持っていない。つまり、労働市場の性質、特に企業(労働需要側)が学歴や資格にどの程度の人材選別機能を認めているかが決定的に重要なのだ。

日本の場合、「職業大学」卒や「資格」がどの程度シグナルとなるのか、ならないとすれば企業の人事慣行のどこに問題があったのかを充分洗い直さない限り、新しい「職業大学」の学位は単なる思い付きによる「負の烙印(stigma)」となりかねない。


第二の問題点は、文科省所管となる「職業大学」は、従来の厚労省所管の公共職業訓練施設や職業訓練校とどのように教育内容が差別化されているのかという点だ。そこが明らかにならない限り、文科省と厚生労働省との「縦割り行政」「二重行政」だと批判されかねない。

「普通職業訓練」「高度職業訓練」、あるいは「短期間」「長期間」などの区別のついた公共職業訓練を行う機関は全国に存在する。目標の明確な障害者の職業能力開発校は別として、職業能力開発校、職業能力開発センター、職業能力開発短期大学校、職業能力開発大学校、そしてこれら公共のもの以外にも、認定職業訓練を行う職業訓練施設(企業)などへのいわゆる「委託訓練」がある。すべて旧労働省が長い試行錯誤を経て作り上げた制度であるが、その「社会的機能」は認められるものの、必ずしも設立の目的通りには産業界からの人材需要を充分に満たせていないのが現状ではなかろうか。

その最大の理由は、いかに優れたプログラムを作成しても、経済の変化と技術内容の多様化・高度化についていけないだけでなく、こうした長期のOff-JTによる技能形成と人材育成は機会費用が高く、実地訓練(OJT)には到底勝てないという点にあった。そのため職業訓練施設では、基本的・原理的な学習に軸足を置かざるを得なくなる。したがって現在の大学のカリキュラムを改編して実践的職業教育に重点を移せば、問題が解決できるとは思えないのだ。

そもそも座学中心の集合教育からなる学校制度自体は、基礎的・理論的な知識を教授することにその特徴がある。「職業実践的な教育」はそれを前提として成り立つのであり、原理的な知識の教育は実践のベースを与える。長い歴史を振り返ると、その原理原則的な知識の教育の基本が、「自由学芸」と呼ばれる数学や哲学だったのである。

19世紀後半、激しい国際経済競争にさらされた産業界からの強い要望によって、自然科学・工学教育は欧米の多くの大学のカリキュラムに組み込まれた。科学教育が普及し、科学者(scientist)という職業集団が出現し、専門学会も誕生する。20世紀に入るとこの動きは加速し、科学と技術は相互にますます密接な関係を結び、自然科学は、アカデミズムとその実践の場である産業界にまたがる巨大学術分野と化す。大学における「自由学芸」のウエイトの低下は、この自然科学の隆盛と表裏一体の関係で進行してきた。しかしそれでも、欧米の主要大学から「自由学芸」が、いわば知識の同心円構造の中心としての姿を消すことはなかったのだ。

こうした自由学芸の「最低限」を守ろうと四苦八苦している欧米の大学には、安倍首相が、本年5月、OECD閣僚理事会の議長国として行った基調演説はどのように映っただろうか。「わたしは教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。」という箇所はどう理解されたであろうか。すでに「工学」系に目立って傾斜している日本、その日本の首相が、「学術研究を深めるのではなく」実践的職業教育に力を入れる述べた言葉は奇異に響いたに違いない。


大学はその比較優位から考えて、実践的な教育研究ではなく、「自由学芸」を守ることによってしかその存在価値を維持できなくなる時代が来ると筆者は考える。50年、100年のタイムスパンで見ると、今後、科学知識や技術情報は、企業、民間の研究所など、大学以外の場所から生まれる可能性はさらに高まる。また、実践的職業教育でもキャリアパスを考慮した企業内のOJTが中心的役割を果たし続けるであろう。

「即戦力」ばかりを求める企業が、長期の安定した雇用を守れるとは考えられない。したがって大学は、生半可に実践教育に専念するのではなく、言語表現と数理的な思考を核とした教養教育に力を注ぐのが賢明ではないか。技術変化の多い社会で直接役に立つ知識や技能は、大学教育によってではなく、実際の仕事を通して獲得されるものがますます多くなるからだ。実業教育は産業の現場で実地に与えられてこそ身に付くものが多い。それほどに現場の知識や技能は生きたもので奥が深いということを筆者は生産現場の調査研究で痛感した。

人文学や社会科学の遺産をよく学び、数学と哲学・言語(特に読解力と作文力)の訓練を通して、豊かな想像力を持って、自らの考えをまず母語で正確に豊かに語る能力、説得力のある文章を書く力を養うことが、これからの大学教育で重視されて然るべきだろう。そこにこそ大学の生き残る道がある。社会の変化に対応し、社会の要請に順応しながら、社会人教育、実践的知識の鍛錬も一部取り入れつつ、しかしその最終的な担い手を企業に委ねながら、大学本来の「自由学芸」を守り育てて行くという二枚腰の姿勢こそ正攻法だと筆者は考える。

2015年9月号(No.662) 印刷用(PDF:608KB)

2015年9月25日 掲載

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