アジア諸国の日系企業をとりまく投資環境の変化と労使関係:東南アジア諸国連合(ASEAN)
ASEAN経済統合と労働法制

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大阪女学院大学教授 香川孝三

  1. ASEAN経済統合の意義
  2. ASEAN経済統合にかかわる労働問題
  3. 労働組合側の見解
  4. ILOとADBの報告書『ASEAN共同体2015年:統合がより良い仕事と繁栄の分かち合いを求めて』にみる見解
  5. 労働法への影響

1. ASEAN経済統合の意義

2015年12月31日にASEAN経済共同体(AEC)が成立した。しかし、この日を境に経済統合のための制度が変わるわけではない。ASEAN経済統合によって「モノ、サービス、投資の自由な移動、資本の自由な移動、平等な経済発展、貧困と社会経済的不均衡の是正を実現し、安定・繁栄・強い競争力を持つASEAN経済地域の創造」を目指しているが、一気にそれらが実現されることは無理である。1992年第4回首脳会議でASEAN自由貿易協定を推進することを決議して以来、交渉によって関税の引き下げを実施しているが、非関税障壁のほとんどはまだ合意に至らず、2015年12月31日以降でも交渉していかなければならない。今後、ASEAN域内やASEAN域外との交渉によって徐々に自由貿易体制の実現に近づけていくという漸進主義が取り入れられている。

2003年10月インドネシアのバリで開催された第9回首脳会議において、「第二ASEAN協和宣言(バリ・コンコードⅡ)」が決議され、ASEAN共同体は、ASEAN経済共同体、ASEAN政治安全保障共同体、ASEAN社会文化共同体の3つを実現して初めて成立することを宣言した。しかし、すべてを同時に成立させることは不可能なので、その中で、ASEAN経済共同体を2015年12月31日付けで成立させることになった。最初は2020年末を予定していたが、2007年第13回首脳会議で、5年前倒しして2015年末に成立させることに合意された(注1)

その同じ首脳会議で「ASEAN憲章」が調印されるとともに、ASEAN経済共同体のブループリント(作業工程表)が定められ、それ以外の共同体のブループリントは2009年に決められた。経済共同体のブループリントでは、4つの柱が設定された。単一市場と生産基地、競争力のある経済地域、均等な経済発展、グローバル経済への統合、である(注2)

単一市場と生産基地はモノ、サービス、投資、資本の自由な移動、熟練労働者の自由な移動、12の優先分野の自由化、食料・農業・林業の安定確保の7項目が挙げられている。競争力のある経済地域とは知的財産権、消費者保護、反トラスト政策の実施、税制、通関業務の共通化などのインフラ整備を指している。均等な経済発展とは、大企業と中小企業の格差是正のように、地域内の格差是正を目指している。グローバル経済への統合とは、他の地域との自由貿易体制を構築することを目指している。

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2. ASEAN経済統合にかかわる労働問題

ASEAN経済共同体のブループリントの作成を受けて、2009年ASEAN労働大臣会議において、2010~2015年の作業計画が作成された(注3)。経済共同体の分野では6項目が取り上げられた。

1つ目は経営者や熟練労働者のビザや雇用許可を通じて移動の自由を整備すること。2つ目は専門的業務の資格の相互承認を進めること。3つ目はその相互承認のための取り決めを交渉すること。4つ目はサービス分野において人的資源管理や能力向上を強化すること。5つ目は主要なサービス分野の職業での中核的な能力と資格を設定すること。6つ目は加盟国において労働市場計画を策定する能力を向上させることである。

戦略目標を4つ立てている。1つは労働や雇用に関する法的基盤を整備すること。2つは労働法を施行するための政府の制度構築能力を高めること。3つは労働分野にかかわる当事者間の社会的対話を高めること。4つは雇用の機会を増やす労働市場を構築し、競争力のある労働者を生みだすための労働力開発の仕組みを作ることである。

戦略目標ごとの具体的な作業内容は以下のように定められている。

法的基盤整備では、労働政策や労働法のベスト・プラクティスを促進すること、移民労働者を含む労働者の権利を保護することを目指すこと、特にASEAN加盟国の労働法典などによって労働者や労働組合の権利が保護されるようにすること、移民労働者のための規範であるASEAN移民労働者権利保護宣言の施行を推し進めること、移民労働者に関係する利害関係者にその義務内容を教えること、移民労働者に移民の前に事前教育を実施すること、移民に伴う国境を超える犯罪、人身売買をなくすための取り組みを実施すること、最悪の形態の児童労働をなくすための取り組みを実施すること、ASEAN政府間人権委員会との協力関係を構築すること。

制度構築の能力向上では、労働法遵守のために労働監督行政担当者への教育を実施すること、労働安全衛生規則遵守のためのネットワーク(ASEAN Occupational and Health Network)によって情報共有や人材育成を図ること、労働紛争処理のために行政担当者・裁判官・弁護士の育成を図ること、失業・病気・老齢・障害によって苦しむ者への社会保障や社会的保護を実施すること、就職サービスや職業訓練の充実を図ること、公衆衛生や職場におけるHIVやAIDS問題についての人材育成を図ること。

社会的対話促進のために、政労使の三者制による話し合い、企業の社会的責任を推進すること、国際協力、特にILOや労働問題を取り扱う国際的NGOや労働組合との協力を促進することの3点が挙げられている。

労働市場や労働力開発では、貿易の自由化によって影響を受ける労働者への雇用対策、良好な労使関係の構築やそのための人材育成の強化、インフォーマル・セクターにおける労働訓練や社会的保護の確保を図ること、労働移動や労働市場に関する情報や分析の共有という4点が挙げられている。

以上を整理してみると、労働者や労働組合の権利保護、移民労働者の保護、人身売買犠牲者の保護、最悪の形態の児童労働廃絶のための労働法や労働政策を立案し実施すること、労働法の施行を担う監督行政や法律家の人材育成、労働者の雇用対策や職業訓練対策、労働市場情報の共有、良好な労使関係の構築、政労使の三者制による意思疎通などが示されている。

3. 労働組合側の見解

労働者側の組織として2つ存在している。1つはASEAN労働組合協議会であり、これは1994年に設立されたが、ASEAN加盟国の中でブルネイの組合は加入していないが、東チモールの組合が加入している。マレーシア、シンガポール、ラオス、ベトナム、ミャンマーは全国組合が1つ加入しているが、フィリピンは2、インドネシアは3、タイは4つの全国労働組合が加入している。意思決定や政策形成の際に労働者の利益を代表すること、労働者の幸せを向上させること、共通の問題に取り組むためのネットワークを作ること、組合役員の養成訓練を実施すること等を目的としている。

もう1つは2007年結成のASEANサービス従業員労働組合協議会がある。建設、金融、通信、保健、電機、輸送部門の組合が加入している。3つの国際組織、Global Union Asia Pacific Office, Building and Wood Workers International Asia Pacific, Public Service International Asia Pacificが支援している。この組合がASEAN経済統合について積極的に発言している。ただ直接ASEAN首脳会議などに出席することができないので、ASEANレベルでの意思決定に参加することはできない。そこで、別の会議を作って活動せざるをえない状況にある。その代表的会議がASEAN三者社会対話会議であり、政労使の代表が参加する仕組みになっている。

正式にこの会議が結成される前に、2009年2月9~11日、インドネシアのボゴールで、「労働組合とASEAN経済統合」というタイトルでASEANサービス従業員労働組合協議会が中心となって会議を開催し、そこで経済統合への組合の対応がまとめられた(注4)

  1. ASEAN経済統合が2億6300万人の労働者に影響を与えるので、労働組合は以下の点に焦点をあてて経済統合を見ていく。産業のどの部門が発展するのか、雇用の傾向、特に雇用機会や労働条件がどうなっていくのか、技能や訓練の需要がどうなるのか、よい労使関係の構築のためにどうすればいいのか、労働組合のあり方はどうあるべきかについて見ていく。
  2. ASEANの労働者が経済統合の内容を理解するように努力し、労働組合もASEANの情報を広げていく。組合役員は使用者との対話を行い、安定した経済成長と働き甲斐のある仕事(ディーセント・ワーク)の確保に努める。
  3. 労働組合もASEAN統合を支持し、ASEANビジネス諮問協議会、ASEAN商工会議所や使用者団体に建設的意見を述べる。それによって生産性向上によって産業の業績を改善し、安定した企業の発展を実現して、労働条件の向上を図る。
  4. 労働組合は使用者団体と協調的な関係を構築しつつ、労働者の権利の保護に努める。
  5. 労働組合は移民労働者に関心を持ち、ASEANの移民問題を検討する委員会で協議し、移民労働者の保護に努める。
  6. ASEAN各国政府が労働組合に使用者団体と対等にASEANの会議に出席できるよう配慮して欲しい。様々なプロセスに労働組合が参加することが必要であると考えている。

以上のことをまとめれば、労働組合はASEAN経済統合に賛成であり、これによって経済成長を達成し、その成果を労働者に公平に分配することを期待し、労働組合はそのための努力を行うということである。これは1994年8月に当時のICFTU/APROが作成した「民主的発展のための社会憲章」(注5)との類似性がきわめて強いことを指摘できよう。

その後、第1回三者社会対話会議は2009年10月バンコクで開催され、共同コミュニケ「ギャップの橋渡し:ASEAN統合に対する労働者の声」を発表した。第2回は2010年3月ハノイで「成長、雇用と健全な労使関係」、第3回は2011年10~11月、ジャカルタで「人民志向のASEAN構築」が合意された。第4回は2012年8月カンボジアのシェリムアップで、労働安全衛生について討議された。第5回はブルネイで非正規労働者問題が討議された。第1回から第3回までは総論、第4回以降は各論についての議論がなされている。

2015年1月13~14日ミャンマーの首都ネピドーで開催された第6回三者社会対話会議がある。これはASEANでのサービス部門における成長、雇用、健全な労使関係構築を目指すために開催された。今回は「女性労働者のためのディーセント・ワーク強化により人々の福祉を向上させる」が副題となっている(注6)。これは経済共同体発足が近づいてきた時期に開催されており、経済統合によって労働分野にどのような影響を与えるか、それにどう対応すればいいかを討議した会議である。

ここでは10項目のことが合意された。1つ目は協調的で生産性向上を目指す労使関係を構築すること。2つ目はすべての労働者の基本的権利としてディーセント・ワークを認め、生産性向上をもたらす環境を作ること。3つ目はインフォーマル・セクターや移民に多くの女性労働者がいるので、それらを保護し、よい生活条件や健康安全を目指す仕組みを構築すること。4つ目は女性や子どもへの暴力を廃止するASEAN憲章の実施を求めること。5つ目は職場における性差別をなくし、家族にやさしい政策を実施する。例えば仕事と家族の両立できるように休暇を増加すること。6つ目はASEAN社会保護強化のための宣言を実施し、女性が職場で平等に参加しつつ出産や育児、高齢者の介護ができるように社会保険制度を整備すること。7つ目は技能の向上やASEAN内での資格の比較対照を可能にする共通の枠組みに基づき技能の資格の重要性を認識すること。8つ目はASEANの女性が権利保護のために対話や協議に参加することを支援できるように「女性と子どもの権利拡大のためのASEAN委員会」の指令を実施すること。9つ目はASEAN内の労使の組織に女性部会が設けられること。10番目は女性に関するILO中核的労働基準の原則をASEAN加盟国に遵守することを求めること。

以上をまとめてみると、基本的に協調的な労使関係を構築し、そのために中核的労働基準を遵守すること、ディーセント・ワークによって生産性を向上させつつ、仕事と家庭との両立の実現を目指そうとしている。特に女性、子ども、移民労働者などこれまで差別を受けてきた者への保護の必要性が強調されている。ここでは先に述べた「民主的発展のための社会憲章」には触れられていないディーセント・ワークが追加されている。

4. ILOとADBの報告書『ASEAN共同体2015年:統合がより良い仕事と繁栄の分かち合いを求めて』にみる見解

2014年発行の上記ILOとADB(アジア開発銀行)の報告書は経済統合と労働問題とのかかわりについて分析した文献(注7)であり、各国の労働法制への影響を検討する上での貴重な文献といえる。

  1. ASEAN経済統合はこの地域の6億の人々に経済的繁栄をもたらすであろう。経済統合を決定した2007年以降、世界の経済成長は年3.3%であったが、ASEANでは年5.1%であり、1991年から2013年の間に8300万人が貧困層から中産階層に移動した。外資導入によって3億人の労働力を引き付けている。しかし、貧困が消えたわけではなく、1億7900万人は悲惨な雇用におかれているし、9200万人は低所得で貧困から抜け出せないでいる。若者や女性はディーセント・ワークには手が届かない。これらの人々の労働市場は労働基準や社会的保護が十分でない。
  2. 投資や貿易の拡大で経済が成長していくが、熟練労働者の自由な移動が可能となっていく。その結果地域の雇用の構造や配分が変化し、雇用の増減、技能開発、賃金、生産性、労働力移動、社会的保護の仕組みという課題が生まれる。
  3. 国境を越えたインフラ整備は、孤立した地域に開発や経済上の恩恵を公平に受けることを可能にするであろう。ASEANとそれ以外のオーストラリア、中国、インド、日本、韓国、ニュージーランドとの貿易協定によって統合が進むであろう。
  4. ASEANは高い生産性を持つ地域となる可能性があるが、そのために質の高い仕事を生む雇用政策、社会的保護の積極的な措置、小企業への支援が必要である。農業の重要性が低下していくであろう。同時に運輸や建設業では不安定でインフォーマルな雇用を伴う。低い技術の仕事への需要はあるが、高度な熟練を急速に発展させるべきであろう。
  5. 基礎教育や基礎訓練の質の確保が必要であると同時に、中等教育や高等教育、職業教育が不可欠である。特に農村や貧しい家庭の若い男女に必要である。カンボジア、インドネシア、ラオス、フィリピン、タイ、ベトナムで熟練労働者の不足やミスマッチが予測される。これを解消するには技術の認証手続きと労使の共同作業が不可欠である。
  6. 企業は高い生産性を保持するには高い賃金を保証して熟練労働者を確保する必要がある。高賃金を得れば輸出に依存する傾向を減らすことができる。賃金は繁栄を分かち合い、公平な開発を保証する中心の手段である。しかし、ASEAN構成国間に賃金格差があって、ラオスの月119ドルからシンガポールの月3547ドルまでの開きがある。これは生産性の格差を反映するものである。
  7. 2010年から2025年の間に生産性は2倍に上昇すると予測されるが、公平に繁栄の成果がいきわたるには民間部門での団体交渉システムが定着する必要がある。ASEANではまだ本当の意味での団体交渉が普及していない。格差是正のためには最低賃金を設定する方法もある。この設定をめぐって紛争がおきているが、労使の利害を考慮して、調査による結果を受けて最低賃金額が定期的に改定されることが必要である。
  8. 1990年から2013年の間に、ASEAN内の移民が150万人から650万人に増加した。タイ、マレーシア、シンガポールが受け入れ国であるが、送り出し国では、増加する労働力人口を吸収する雇用の場が少ない。移った先での仕事は低い技術の現業職である。ところが経済統合では熟練労働者対策だけが議論されており、今後も増加すると予測される低い賃金の移民労働者は配慮されていない。移民労働者の権利保護のためにASEAN宣言の実施が望まれる。
  9. 経済統合によって構造改革の整備や管理が必要である。そのための産業政策や部門別政策の促進、小企業の支援、雇用や技能政策の強化、インフラの整備が不可欠となろう。それと同時に、悲惨な雇用条件で働いている労働者や失業の危機にある男女を対象に含める社会的保護の仕組みを確立する必要がある。地域統合によって得られる経済的富を公平に分配するために健全な労働市場のシステムが不可欠であると同時に、政府の役割を強化して、最低賃金、団体交渉、男女平等、若者の雇用対策、移民労働者の保護によって、生産性と賃金をリンクさせることが必要である。
  10. 今後地域の統合を進めるために、移民労働者の保護に関するASEAN宣言、社会的保護に関するASEAN宣言やその他の相互協定の実施、ASEAN地域内の資格(現段階では技術者、看護師、建築士、測量士、医師、歯科医師、会計士、旅行業専門職に限定)の比較対照を可能とする共通枠組み、労働市場情報の強化、労働市場の分析が必要となる。地域統合のために各国の政策との整合性が不可欠であり、国際労働基準条約の批准を通じて、それぞれの環境に合わせた適切かつ継続的な政策や競争条件の環境整備を行うことが必要である。地域統合の成功は、労働市場への影響や労働者の生活の質の向上につながるかどうかにかかっている。

以上のILOとADBの報告書や先に述べたASEAN三者社会対話会議での議論をまとめてみると、ASEAN経済統合によって経済成長は望めるが、その成果の分配において不公平が生まれないような対策、貧富の格差を拡大させないような対策を組む必要性がある。その内容としては、①経済成長によって労働市場がどうなるのかが問題である。熟練労働への需要が拡大するが、一方、非熟練労働への需要は減少しないと予測される、②職業訓練や教育制度の整備によって人材養成が不可欠であるが、一方、若者の失業率が高く雇用の機会が十分でないので労働市場の整備が不可欠であること、③移民労働者に見られるように低技能、低賃金で悲惨な雇用条件のもとで働き、さらにインフォーマル・セクターに従事している者の多くが低い所得でいることから社会的保護が必要であること、④所得向上のために賃金交渉の普及が不可欠であり、そのために結社の自由や団体交渉権の確保が必要である。さらに最低賃金の上昇も必要である。そのために中核的労働基準のような国際労働基準の批准が必要になる。さらに⑤ジェンダー格差の問題が存在し続けており、これへの対策が必要である。

5. 労働法への影響

以上の動きからASEAN経済統合を受けて、今後労働法にどのような影響をもたらすのであろうか(注8)。ASEAN経済統合によって経済発展が見込まれるが、その結果貧富の格差が拡大する可能性があり、それを防止して、労働者がディーセント・ワークや中核的労働基準を含む国際的労働基準を実現することに労働法の役割がある。

(1)ASEAN経済共同体の作業工程表の中で、労働問題に関連する論点は熟練労働者の移動の自由だけを指摘している。これを促進する法制度は出入国管理制度である。ビザの発給手続の簡素化、資格の相互認識の実現のための法制度を整備することであろう。ビザの発給については、2010年10月に採択されたASEAN接続性に関するマスター計画によって、ASEAN国籍を有する者の域内旅行の査証免除に向けた作業が進められることになっている。1995年ASEANサービスに関する合意に基づき、エンジニア、看護師、建築士、測量士、医師、歯科医師、会計士、旅行業専門職の8職種だけについては相互承認の協定が締結されている。2012年11月には、自然人の移動に関する協定が締結され、商用訪問者、企業内転勤者、契約で合意したサービス提供者に限定して、移動の自由を認めることが合意されている。しかし、それをそれぞれの国でどのように取り入れるかは各国の判断に任されている。したがって、どの資格を持っている者をどのように入国を認めて、どの条件で働くことを認めるかが各国の判断によって決められる。さらに熟練労働者の自由な移動に伴って競合避止義務や秘密保持義務の問題が重要になってこよう。

その上で、どこでどのような熟練労働者を募集しているかの情報の公開が不可欠になる。海外からの求人情報の公開を進めるために、ASEANでインターネットを整備して熟練労働者の効率的な再配分機能の強化が求められるであろう。

(2)作業工程表にはなんら掲げられていないが、未熟練労働者の移動が現実には多く見られる。しかし、未熟練労働者の移動は経済統合の交渉の場では議論されていない。ASEAN内部では、シンガポールとマレーシアへのインドネシアやフィリピンからの流入、タイの周辺国であるミャンマー、ラオス、カンボジアからタイへの流入が見られる。

2007年移民労働者の権利の保護と促進に関するASEAN宣言が合意されているが、安い労働力を受け入れたい受け入れ国と、移民労働者の人権保障や雇用環境を守りたい送り出し国との妥協の産物として合意がなされた。これに基づきASEANの文書を作成する委員会が同年4月に設置され、検討を重ねている。2012年に草案が作成されたが、その文書に法的拘束力を持たすのかどうか、さらに正規の移民労働者だけでなく、違法に入国している移民労働者をもカバーするのかの点で合意がなされていない(注9)。文書に法的拘束力があれば、各国が批准をすればそれに拘束を受けることになる。法的拘束力がなければ、未熟練労働者の入国をどこまで認めるかは各国の法制度によって決まることになる。

(3)経済統合によって競争が激しくなって、生産性の低い産業は衰退し、そこで働く労働者が整理解雇されて、失業が増加する可能性がある。さらに、経済統合によって最適の国や地域に生産拠点を集約することが起こりうるが、この場合に他の国に企業が移転すれば整理解雇がなされ、発生する失業にどう対応していくかという問題が起きてくる。ここで整理解雇に関する法制度の内容が問われることになる。ASEANでは解雇規制の強い国がほとんどであるが、整理解雇はそれ以上に規制を厳しくしている。整理解雇回避措置を講じることが企業によって求められている。これまで解雇された後、再雇用の場を探すのが困難な状況があるために、解雇規制を厳しくしている。これを緩和することを企業が主張する可能性があるが、これにどう答えるかが問われよう。

さらに、失業中の労働者の雇用を援助する仕組みが不可欠である。インドネシア、フィリピン、シンガポールには失業保険制度がないが、退職金制度が失業中の生活不安を若干解消する1つの手段となっている。マレーシアではILOの協力を受けて失業保険制度の導入を努力中である。失業保険制度があっても適用範囲を限定してカバーされる労働者の範囲が限られている場合がある。そこでできる限り早期に職業紹介がなされるような仕組みが望まれてくる。

職を探す場合に、一定のレベルの技能を身につけておくことが必要である。そこで職業訓練制度の整備が必要であるが、経済統合が成立することによって、技能のレベルの評価をASEANで統一的に実施することは人の移動を自由にする前提である。資格の相互承認をやりやすくするために技能レベルの評価を統一することが必要である。日本式かオーストラリア式かの選択になろうか。

(4)社会的弱者として、(2)で述べた移民労働者だけでなく、非正規労働者、女性労働者、労働に従事する児童、インフォーマル・セクター従事者の取扱いが問題となってくる。1990年代以降急に非正規労働者の活用による労働コストの低下が企業によって図られた(注10)。非正規労働者にはパートタイム労働者、派遣労働者、雇用期間の定めのある労働者が含まれるが、非正規労働者の地位の期間を制限するのかどうか、非正規労働者から正規労働者への転換を認める条件をどうするかが議論される可能性がある。ジェンダー格差指数をみれば、ASEANは日本より小さいが、それでも男女の格差は存在する。昇進や賃金の格差は存在しており、それにどう対処すべきかの法制度が議論になるであろう。児童労働については最低就労年齢の法律上の規定は整備されており、その施行を実施できる仕組み作りが不可欠となってこよう(注11)。インフォーマル・セクター従事者の多くが低所得であり、ASEAN経済統合による恩恵を受けることの少ない層である。定職への移動の可能性を高めるか、社会保障制度による保護の拡大という政策が整備される必要がある(注12)

(5)労働立法の制定された時期を基準にASEANをみると2つに分類できる。植民地から独立して1950~60年代にすでに労働立法が制定されていた国(マレーシア、シンガポール、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、民主化前のインドネシア、植民地ではなかったタイ)と、1990年代以降になって新たに制定された国(カンボジア、ラオス、ベトナム、ミャンマー、民主化後のインドネシア)に分けられる(注13)。ともにこれから団体交渉の充実を図ることが不可欠になる。その前提として結社の自由を保障する必要がある。ASEANではインドネシアを除いて、労働組合の強制登録制度が採用されている。この制度を改正することはないであろう。これをいかに運用していくかが問われるであろう。これを利用して組合の結成を抑制する場合があるからである。登録されるまでは労働組合として認められないために、組合指導者を解雇して組合の消滅を画策する事例がある。ASEAN経済統合のもとでは労働組合は生産性向上に協力して良好な労使関係を築く当事者として位置付けられていることと矛盾する事態をなくす努力が必要となる。

 表1に示すように組合の組織率は低く、それが徐々に低下している状況にあり、今後組織率を上げる努力が必要である。労働協約の適用を受ける労働者の範囲が小さく、団体交渉の成果が広がっていかない。そこで、賃金交渉を行う際に、最低賃金額の上昇率を根拠にする傾向が強まってきている。そこで最低賃金をいくらの率で上げていくかが、それぞれの国での労働運動の中心課題になってきている(注14)。シンガポール、ブルネイを除いてASEANでは最低賃金制度が設けられている。シンガポールでは全国賃金評議会が賃金のガイドラインを策定し、賃金引き上げ率を勧告している。それは労使の自主的な交渉による賃金決定方式にこだわっていることを意味するが、それでも最近では低賃金労働者に対して定額の賃金引き上げを勧告しており、事実上最低賃金制度と同じ機能を持たせている(注15)

表1:組合の推定組織率
インドネシア 8%(2013年)
タイ 3%(2011年)
マレーシア 6.9%(2012年)
フィリピン 8.5%(2013年)
シンガポール 18.8%(2013年)
カンボジア 13%(2012年)
ベトナム 20.5%(2012年)
ラオス 4%(2010年)
ミャンマー
  • 資料出所:シンガポール、マレーシア、フィリピンはJILPT編『データブック国際労働比較2015』、タイは厚生労働省編『世界の厚生労働2014』、カンボジアは国際労働財団(2014)『アジア雇用労働レポート』、ラオスは国際協力銀行(2014)『ラオスの投資環境』、インドネシア、ベトナムは国際労働財団ウェブサイト「海外の労働事情」より。

(6)労働法の施行を担う人材育成が不可欠となる。特に労働監督官の養成やその倫理感の醸成が必要である。人数を増やすだけでなく、せっかく法制度があっても、腐敗によってその効果がなくなってしまうことを避けなければならない。さらに労使紛争を処理する専門家の養成も不可欠である。

参考レート

プロフィール

香川孝三(かがわ・こうぞう)

大阪女学院大学国際・英語学部教授。神戸大学名誉教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得認定退学。富山大学経済学部助教授、同志社大学文学部社会学科教授、神戸大学大学院国際協力研究科教授を経て2007年から現職。専攻はアジア法、労働法、労使関係論。主な著作に「アジアの労働法と労働問題(第19回)ミャンマー労働争議解決法の意義」『季刊労働法』244号(2014年)、『法整備支援論――制度構築の国際協力入門』(編著、ミネルヴァ書房、2007年)、『アジアの労働と法』(信山社出版、2000年)、など。

2016年1月 フォーカス:アジア諸国の日系企業をとりまく投資環境の変化と労使関係

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