温かいご紹介をいただいて、ありがとうございます。2005年になって、何で大正生まれの人間の話を聞く価値があるかと皆さん思うでしょうから、なるべく1時間を超えないようにいたします。
ちょうど35年ぐらいになりますが、労働協会がまだ芝大門のそばにあったときに、いろいろお世話になって、あそこの図書館で松村さんの指導を受けて勉強した、非常に懐かしい思いがありますので、こちらに招待されて、おしゃべりできる機会を持ったことを非常に喜んでおりますし、光栄に思っています。
労働の「意義」の二つの次元
働くことの意義について、私がこういうことを一生で初めて反省する機会を得たのは、「New Forms and Meanings
of Work in an Increasingly Globalized World」という題を仰せつかって、ILOの講演をしたときです。考えてみますと、仕事の意味、働くことの意味は、2つの次元で分けて考えることが重要、有益ではないかと思います。
1つは、主観的、個人的な次元です。稼ぐためでなければ誰もしようと思わないようなつまらない仕事、金もうけのための苦痛でしかない、例えば日本でいう3Kの仕事というのが一方にあって、また、いろんな満足を与えてくれるような仕事もたくさんあります。むしろそちらのほうがだんだん増えていると言えるでしょう。例えば問題を解決する知的満足、あるいは画家や作曲家がものを創造すること。あるいは、遺憾なことですが、このごろますます増えている、大変金ももうかるんだけれども、非常にギャンブルの本能に訴える仕事。今の金融業は、為替の売買とかデリバティブの売買ばかりして、毎日賭けをして、非常にギャンブル、競馬に行くと同じような楽しみができるような仕事になっています。
それから、職場における社交の楽しみ、あるいは団結の楽しみといいますか、1つの目標を持っている集団、企業あるいは組合が、集団に向かってみんなで一緒にやっていこうと呼びかけるコンパニオンシップの喜びはいろいろあります。それは人間普遍のものか、あるいは時代によって、社会によって、労働の構成が変わるものかといえば、特に社会維新から得る楽しみ、満足は、時代によってかなり違うと思います。
私が最初に日本に来た1950年ごろ、東大の教育学部の先生だったと思いますけれども、その先生の話を聞いて、非常に印象に残った話がありました。自分が若いときに、いつも人力車で大学に来ていたけれども、車引きを自分より下劣な人だとは思わなかった。車引きも、自分は世界一の車引きになるというような仕事のプライドを持っていた日本が、今はなくなっていると嘆いていました。まさになくなっているだろうと思います。
それは個人的な次元で、もう1つの次元は、社会にとってどれだけ役に立つことをしているかということです。封建時代の身分社会においては、身分に応じて働くということは最大のことでした。寺子屋の手習い本、往来物には、よく書き出しのところに4つの絵があったんです。士、農、工、商。まず侍の絵で、侍は国を防衛して、国、庶民を統治する、国を知ろしめす役割を持っている。農民は、みんなの食糧をつくる。職工が、食糧以外のいろんなものをつくる。そして商人は、生産地から消費地まで物を持って運ぶ非常に有用な役割をしますけれども、時には買い占めをしたり、ずるもするものだから、気をつけろというふうになる。社会的役割が非常に重要視されました。
ところが、明治になって四民平等の世界になったんだけれども、非常に国家主義的な四民平等だった。みんな身分に縛られず出世できる。
先週、台湾の台北公立図書館に入りましたけれども、心理学の書庫が50ぐらいあったんです。そのうち13台が出世の心理学、人生の成功。いかにも明治時代のようなところがまだ残っていると思いました。
ところが、出世する目標は何だったかというと、身分がないといっても、やっぱり官尊民卑の時代であったんです。だから、みんな官僚になるか軍人になるかというのが出世の目的でした。
しかし、明治、大正になって漸次的に、個人の尊厳という思想、市民権の思想がだんだん出てきたんです。東北の1898年のストでは、労働者が何を要求したのかといえば、賃金ばかりではなくて、人間の尊厳が問題であったんです。つまり、間違いをすれば駅長の前にひざまずいて謝らなければならないというような。文章が面白いんですけれども、青二才の中学卒の横柄な事務員が、我々を下劣な者としか扱わないということに対するプロテストが非常に重要になってきました。戦争まで、そういう傾向が続いていたんです。軍国主義時代でも、例えば部落民も一流市民として扱わなければならないというのは、日本軍も推進した平等化の1つの形態であったと思います。
終戦後、民主主義の時代になって、また変わってきました。私は、最初来たときに、公僕ということをよく聞きました。公僕というのは英語のシビルサーバントの直訳なんですけれども、もちろん「僕」といえば非常に軽べつした意味が入っています。それは、官尊民卑を逆転しようという動きの表れの一つだったと思います。最近は、特にこの界隈では、公僕という言葉をあまり聞かないと思いますけれども。
教育制度の使命論の二つの要素
しかし、とにかく教育制度の使命、役割は何であるかということは、戦後の民主主義で再定義されたと思います。つまり、非常に大ざっぱな話ですけれども、2つの原理です。教育制度は国家に奉仕するため、東京大学をつくるための制定法(帝国大学令)は1885年に、国家に有用な学究活動を推進すると規定しました。一方は国家に奉仕するための原理、他方は、国民一人一人が能力を達成し、自己達成ができるような教育をするという個人的な点です。
1885年が東京大学制定法、1926年は大正時代になって、より平等思想、新教育思想が出てきました。その次の1950年には、戦後の個人主義の原理が進み、2000年になると、中曽根臨教審以来のもう少し国家に奉仕するための教育制度が重要視されてきました。国際経済における競争に勝ち抜くために、優秀な人間の能力を発揮することが最も重要であるという思想は、中曽根臨教審以来の傾向ではないかと思います。
仕事の社会的価値
自由民主主義時代になって、仕事の社会的価値をどういう基準で測るか、どういう基準で評価するかということについて、新古典派経済学者が非常に強い影響を与えていると思います。ある人たちは、明示的に、仕事の価値の問題と民主主義との問題、政治における民主主義、そして経済における消費者至上主義、消費者主権主義は類似性がある。なぜかというと、民主主義は1人1票。非常に利口な人であろうが、全くばかな人であろうが、とにかく1票しかない。また、市場においては1人1財布。100万ドルが入っている財布であろうが、空っぽの財布であろうが、とにかく1人1人が平等な立場に立っている。
ものの価値が何であるかというと、市場でどれだけのお金で売れるか。人の仕事の価値は何であるかというと、労働を直接売るか、あるいは製品として労働の成果を売る場合の価格によって、その価値が決定される。英語でよく言いますけれども、「Economists
are people who know the price of everything but the value
of nothing」。プライスとバリューは別なものであるという一般人の常識によることわざですが、学者に言わせれば、それは当たり前。同じものであるという考え方がますます浸透してきて、一般市民の何が公平であるかの常識に影響を与えてきているのではないかと思います。
それはいいことであるか悪いことであるかといえば、人の立場によって違うと思います。労働市場において売り手市場に直面している、例えばソフトウエアのエンジニアとか、非常に高度な技術を売っている人にとっては非常にいいことで、就職難の心配をする必要は全くない。ところが、スーパーで働いているおばさんとかオフィスの掃除をやっているような人、買い手市場に直面している人にとっては、自分の仕事の価値が市場における価格と同一視されることは、必ずしも喜ばしいことではないと思います。
原理未徹底の(幸いな)現実
その原理がどれだけ貫徹しているか、どれだけ徹底しているかということは、社会によってかなりの違いがあると思います。例えば日本と米国を比べてみると、1つの大きな違いは、金融業の仕事と、製造業やサービス業の仕事、日本語でよく片仮名で書きます、「カネづくり」と「モノづくり」の対比。そして、バブルのときにしょっちゅう、工学部の非常に優秀な学生が銀行に行ったり、証券会社に流れていっていることがいかに悲しいことであるかという記事を見かけましたけれども、その仕事の価値の基準は、アメリカよりもずっと日本のほうに残っているのではないかと思います。
金融業について、最近面白い数字を発見しました。アメリカの国民所得の統計を見ると、法人全体の利益総額の部門別の構成で、金融業の企業がとっている割合が随分上がってきています。1947年に8%だったのが、70年には20%。2001年から03年までの間の平均は40%とすごい上がり方で、それほどアメリカ人の働きの成果、業績を吸い上げているのが金融業であり、1つのメルクマールではないかと思います。
日本では、最近非常に面白いことに、バブル以来の90年代の傾向を少し逆行させようという意図なのかどうか知りませんけれども、最近しきりに、ものづくりという言葉を聞くようになりました。去年日経が、月刊『ものづくり』という新しい雑誌をつくったし、隣の経済産業省が『ものづくり白書』を出すようになりました。そして、総理大臣まで動員されて、いかにものづくりが大切であるかを広報しています。これは2、3カ月前の外務省の英語雑誌「The
Resurgence of Japanese Manufacturing」なんですけれども、後ろにいる人の心配そうな顔。
市場個人主義への傾斜と並行するもう1つの傾向
仕事の価値イコール価格という一連の思想を、私は市場個人主義と言ってもいいんじゃないかと思います。市場個人主義への傾斜と並行したもう1つの傾向は、労働強化、労働の長時間化ということではないかと思います。なぜ今、生活、労働のバランスが問題になっているかというと、生活における労働の位置が拡大していく傾向にあるからではないかと思います。
1929年にちょうど大不況が始まったときのケインズの講演ですが、彼の全集に、我々の孫の時代の経済的可能性、『Economic
Possibilities for Our Grandchildren』という論文があります。その中で、今は不況だけれども、とにかく技術の進歩が続いている。そして将来も加速的に続くでしょう。生産性がうんと上がって、70年先、2000年頃になると、我々はみんな週に5時間しか働いていないだろうという、見事に外れた予言をしました。
しかし、それでも70年の間、まあ50年間はそういう傾向にあったわけです。あるイギリスの経済学者の分析ですけれども、1880年から100年の間に、生産性の向上の成果をどういうふうにイギリス人が消化したのかというと、余暇で消化した分と、消費水準を上げることで消化した部分との割合は、大体1対2でした。日本で、実質賃金の傾向と労働時間の傾向を調査してみると、1975年からの20年間に、余暇で消化した分が4分の1、消費水準を上げることで4分の3ということでした。
しかし、労働時間の短縮は、1980年代までは先進工業社会において普遍的な現象だったんです。その後逆転が始まります。逆転の年は、イギリスやアメリカでは1982年、イタリアは85年、ノルウェー、スウェーデンは88年。ドイツは、96年まで労働時間が減少しましたが、それ以後は増えていて、日本の経団連に当たるドイツの経営者団体が、35時間の習慣を38時間にするような政治的運動をやっています。
日本でも、1990年の終わり、ドイツと同じ時期だったと思います。労働力調査で見ると、週60時間以上働いている人が、1995年の15%から2002年には21%に上がっている。NHKの生活時間調査では、技能職、作業職の人の毎日働く時間が、90年代半ばの7時間45分から、2002年までに8時間13分に上がっています。
競争と市場個人主義への志向
この2つの傾向について、仕事の価値を市場個人主義的に考えると、そして競争について考えると、供給面及び需要面の両方の説明がつくと思います。供給面では、なぜ余計働くかというと、消費の欲望が無限にある。ある時代にはぜいたく品と思われていたものが、そのうちに必需品となって、それを持てば1人前の人間と見なされる。3Cの時代とか、いろいろ日本にはサイクルがありましたが、まさにそうなんです。
しかし、消費の意欲の中で、2種類の消費を区別しなければならないと思います。イギリスの優れた経済学者だったフレッド・ハーシュが、『Social
Limits to Growth』の中で非常に強調していることです。消費財の中には、例えばいいワインを飲むなど、消費する経験を楽しめるものがあります。もう一つは、自分の消費する価値が、ほかの人たちがどれだけ同じものを消費しているかによるもの。つまり、自分が軽井沢に別荘を持っていることの価値は、みんなが別荘を持つようになればなくなるんです。自分が一番高価なシャンペンを飲むこと、ほかの人たちはここまで手が届かないだろうという楽しみは、ほかの人たちもそのシャンペンを飲めばなくなるから、より良いものを求めます。また、教育においても、みんなが学士になったら、労働市場において優位性を保とうと思えば修士にならなければなりません。みんなが修士になったら、自分は博士にならなければ比較的優位になりません。
消費の中で、単純消費財よりも、そういうポジショナルグッズのほうがますます増えているから、加速的に消費意欲が増えていく。そして、所得の分布などにもよります。アメリカの経済学者は、所得分布のばらつきと平均労働時間の相関関係を見ました。所得分配が不平等であればあるほど長時間労働をしているという結果が、かなりはっきり表れています。まず供給の面、つまり、みんなが自発的に余計働くようになっている。
ジュリエット・ショーというアメリカの社会学者が、『Overworked American』、働き過ぎのアメリカ人という面白い本を書きましたけれども、彼女は、アメリカで1週間の労働時間が長くなっているのには2つの要因があるとしています。まず、単純労働の賃金が低下して、夫婦共稼ぎで長時間労働をしなければ1人前の生活ができないということが1つ。もう1つは、経営層、あるいは職業人などの層、つまり楽しめるような仕事を持っている人々の間では、競争が激しくなって、より一生懸命に働かなければ浮かび上がれない世の中になっているということを強調しています。
しかし、それは結局、供給面、つまり自発的に長い時間働くこと以外に、需要の面、つまり企業の行動が変わった面も非常に重要ではないかと思います。1980年代のサッチャー、レーガンの新自由主義的革命の一つのきっかけは、国際競争の激化、経済競争でした。国際的ばかりではなくて、国内市場における企業の競争が激化してきたというのはどういう関係かというと、技術の進展により、品質や製品の新しさで市場シェアを獲得しなければならなくなり、ますます無理をして、競争が激化する。これが国内の市場。
それから、途上国からの低廉な輸入品の競争に直面して、それに対応する必要性から、企業がますます競争しなければならない。政府の政策は、企業の競争力強化が至上命令となってきています。産業政策については、イギリスの場合だと、労働党がやってみようとしたものは全くだめだとサッチャーが言って、むしろ民間企業が自由に、束縛されないで競争できることが重要であると主張しました。束縛されないための1つの重要なポイントは、労働保護法制を解体、緩和して労働市場の柔軟性を図るということでした。
市場個人主義浸透の2側面
こういう市場個人主義の浸透の2側面といえば、今の日本で行われている変化の2つの面で、1つは業績主義の浸透。年功主義を排撃して、業績主義、成果主義に移らなければならないというのが常識になっています。年功主義というのは、年功賃金、年功昇給制はどういうものかというと、英語でシニオリティーペイ、シニオリティープロモーションシステムといつも言いますが、それは年功の正しい訳ではないでしょう。シニオリティーだったら、「年イコール功」。ところが、日本の会社、役所も、「年イコール功」ではないんです。年功制度は、「年プラス功」によって昇給して、賃金が上がる制度と解釈したほうがいい。そして、年と功の比重はどうあるべきかが1つの問題なんです。つまり、50歳にならなければ会社の役員になれないという制度が当たり前であるか、あるいは、日産で社長が46歳になったように、年の比重を低くして、功の比重を高くするかです。
もう1つは、「年プラス功」であるとすれば、功の解釈をどうするかです。功は、人の働きが効果的、効率的であるか、頭のいい働き、てきぱきとやるかという成果、業績という面もあります。ところが、日本の評価システムはそればかりでなく、どれだけ努力しているか、そして協調性、どれだけみんなと情報を分け合って協調しているか、あるいはスタンドプレーをやろうとしているか、そういう業績以外の努力や協調性を評価するのが今までの制度だったんです。そして、業績、努力、協調性の相対的な比重は、今まで一般の日本人の公平の観念にわりに合致していたんじゃないかと思います。その制度を変えて、業績、成果1本でやれば、同じように公平の観念に合致するかどうかは非常に疑問だと思います。
本日の講演には、富士通の方が来ることになっていたそうですけれども、富士通でそういう革命を起こして手を焼いたという話はかなり有名であって、一般の富士通の職員の公平さの観念に合致していなかったということが分かったんじゃないかと思います。
市場個人主義のもう1つのあり方は、企業の価値をどう思うか。企業価値イコール時価総額という考え方は一般的になっているんじゃないかと思います。企業のお偉方、経営者は、よくCSR、企業の社会的責任など、すごいレトリックを使いたがるんですが、実態はやっぱり変わってきていると思います。昔は、どちらかといえば経営目標は、市場におけるシェアの拡大、そして収益を拡大して、利益よりも収益を重視する。そして従業員の福祉を、できればよそより良い待遇にすることが目標であったのが、最近は、むしろ株価の維持が第1の目標となってきている。そうでなければ時価総額が下がって、乗っ取り、敵対的買収にあう心配もあります。
企業価値イコール時価総額という思想が浸透してきている一つのメルクマール、指標は、最近のライブドアの事件に対する、メディアなど、一般の人の評論に見られるのではないかと思います。ニッポン放送が、ライブドアに対して東京地裁に訴訟を起こし、裁判官はニッポン放送の訴訟を蹴ってしまったのです。敗訴にした理由は、裁判官が言うには、それはただ経営陣の防衛戦術であって、会社ひいては株主全体の利益にならないから蹴ってしまった。「ひいては」という日本語は非常におもしろい。会社ひいては株主全体、会社イコール株主全体という考え方がそこにある。とにかく企業の価値の考え方が株主にとっての価値しかないというのは、今の裁判所の常識になっていると言えるのではないかと思います。
市場個人主義時代の「公平さ」に関する常識と不平等
市場個人主義の浸透の1つの結果は、所得分配のばらつきが開く、貧富の差。雇用者の中の、あるいは現役労働人口の第1次所得、つまり市場がもたらす所得分配の格差が開くということは、イギリスにおいては1980年代の初めからかなり開くようになって、日本も最近かなり開くようになってきているのではないかと思います。
その変化は、所得分布が開くということばかりではなくて、所得分布が開くことを容認する常識、つまり当たり前じゃないか、悪平等を是正することじゃないかという考え方がますます支配的になっていくのではないかと思います。労働人口の間の所得分配が開いていくということは、みんなが機会平等だったらいいんじゃないか、機会の平等はもちろん必要。しかし、結果の平等はだんだんなくなっても仕方がないんじゃないかということです。ところが、機会の平等が成立するような条件がだんだんなくなっているのではないかという心配が、格差社会という言葉に表れているように、ますます認識されるようになっています。つまり、日本の階層制がますます世襲的になりつつあるのではないかという心配が当然そこで出てきます。
先週の経済財政諮問会議の、2030年のビジョンの中で、格差の固定化、つまり階層の世襲化ということが将来心配しなければならない問題ではないかと指摘しています。関係していた方の話によると、その言葉が入ったのは橘木さんと玄田さんのおかげで、自分は反対だったと言うんです。
どういうことになりかねないかというと、米国の社長の給料を考えればいいと思います。1960年代の米国の企業は、現在の日本の企業と似通ったものでした。1970年には、社長の中で、生え抜きの社長が95%だったんです。社長の給料は、一番大きい100社だったと思いますけれども、アメリカの平均給料の39倍だったんです。ところが今は、同じ100社をとっても1,000倍以上になっています。そして、生え抜きではなくて、外部の市場から入ってきた人たちは、5%から35%に上がっています。5%から35%に上がることによって、社長の給料の決め方が変わってくるんです。どういうふうに変わるかというと、外から入ってくると、取締役会の報酬小委員会で交渉するんです。あんな安い給料で誰が来るものかということで、給料、ストックオプションズ、年金給付など、いろいろ交渉します。そうすると、外部から来る人が35%だったら、内部から上がってくる人も同じような交渉をするんです。
日本では、大体慣習的になって、専務から社長になれば、給料が10%上がるか15%上がるかということが決まっている。それがアメリカ式に変われば、自分の職種のほんとうの職業能力に加えて、能力の市場価値以上の組織力、つまり報酬委員会に自分の友達が全部行くように仕組むという組織力もかかわってくるんです。
格差拡大が必然的か
格差が拡大するようなことが可能であるか、そして固定化するかというと、私は、そういう傾向、そこへの道を日本がたどっているのではないかと思います。どういう変化でそれが一番端的に表れているかというと、年俸制度に移ったのも一つの要素だったんですけれども、今までの日本の企業において、トップの経営者から課長までの給料の上昇率は、大体労働組合の賃上げ率と同じように、歩調を合わせていたんです。組合がベースアップ5%を取れば、社長を含めて経営者も大体平均5%ぐらいの給料引き上げになっていた。ところが、最近の多くの企業では、それが全く切り離されています。
去年、経済産業研究所のアンケートをやらせてもらったんですけれども、そういう変化が起こっているということを意識していた課長、部長が非常に多かったんです。つまり、今は経営側の給料は何にリンクするかというと、利益にリンクする。労働者の賃上げは労働市場の条件によって決まる。ところが経営者のほうは、むしろ利益にリンクされるようになっている。それが、ますます株価中心の経営に走るもう一つの要因になっていますし、また、アメリカでこの30年に起こった、社長のべらぼうな給料引き上げの要因ともなっているのではないかと思います。
逆転の可能性
市場個人主義への傾斜が直される、逆転される可能性があるかどうかということを考える場合に、第1に、こういう傾向がなぜ起きているかということを考えなければなりません。もちろん小泉派の構造改革を推進している方に言わせれば、競争が激化する世界経済において日本が勝ち抜くためにという曼陀羅を唱えるでしょう。とにかくそれに対応するための、経団連のコーポレートガバナンスの報告書だったと思いますが、グローバル金融市場に好かれる企業にしなければならない、そうでなければ資金調達が不可能になると。ところが、ゼロ金利で、銀行が3%ぐらいで一生懸命に金を貸そうとしている日本で、資金調達が不可能になることは当分あまり心配ないのではないかと思います。日本人の膨大な貯金がどれだけ円に残っているか、どれだけドルに逃げているかといえばほんのわずかです。だから、そういう必要性は、私はあまり説得力がないと思います。
むしろ、変わってきているのはイデオロギーだと思います。イデオロギーの変化は、日本ばかりではなくて、ヨーロッパを見ても、ドイツやイタリアなどでも同じ現象が起こっています。そして、そういうイデオロギーをもとへ戻そうという動きが出るかどうかは、エリート層の心理によると思います。ところが、日本の世論、常識を形成しているエリート社会層は、別に苦に思っていません。自分たちの子供は就職難にぶつかる心配も全くないし、買い手市場に面しているわけでもないからいいんじゃないか、悪平等是正はやはり進歩じゃないかというマインドになる可能性が非常にあると思います。
ですから、最後にやはり儒教に返りますけれども、逆転の可能性はどこからくるかといえば、仁政、つまり力を持っている人、権力を持っている人たち、そして非常にいい生活をしている人たちが、こんなに自分たちはもうけているんだけれども、あそこでこんなに貧乏な人、ホームレスの人、フリーターがあふれているような社会に住むことは何だか良心がとがめるというエリートの改心でしょう。どういう預言者が出てきて、どういう説教をしてそれが起こるのか、私は知りませんが。
労働組合の人たちは、本来、貧乏人の味方をすべきです。儒教から仁政をとって、復初というのは荘子の言葉だそうです。辞書で見たら、欲望に迷った状態から、人間本来の正しい状態に戻るとある。労働組合が労働運動の本来の使命に戻ることも、1つの重要な条件ではないかと思います。それはどういう形でというのは、後の討論のときに、また話が出てくると思います。 |