さよなら松島静雄先生

副主任研究員 立道 信吾

恩師松島静雄先生の訃報を聞いたのは、今年 1月 15日のことだった。産業・労働社会学者としての松島静雄先生の業績については、友子[1]の研究、中小企業の研究など周知の事であるので、この場をお借りして、松島先生の思い出を語ることで哀悼の意を捧げたい。

社会学との出会い

今から約 25年前の大学 2年の時、東大を退官されたばかりの松島先生の産業社会学の講義を受けたことが私が労働分野の研究者の道を志すきっかけとなった。ホーソン工場の実験、テーラーなど古典的な経営管理論、日本的雇用慣行や労使関係の特質など、幅広く産業・労働の問題を講義の題材とされていた。大学 3年の特殊講義では、近代組織論を学び、ゼミではウェーバーの「社会科学および社会政策の認識の「客観性」」[2]、4年のゼミではマンハイムの「イデオロギーとユートピア」の講読があり、社会科学の方法論を学んだ。その当時は、自分が政策に関わる仕事をするなどとは、夢にも思っていなかった。

大学院では、松島先生自身が今まで行った実証的な労働研究(中小企業の労務管理、ME技術革新、サービス経済化、高齢化等々)の要旨が詳細に語られる講義があった。また、パーソンズやマートン、グールドナー、シカゴ学派の業績などアメリカ社会学を中心として、社会学全体を幅広く紹介された講義もあった。

学際的な交流の場・育成の場としての研究所

大学院を満期退学した直後、私は、松島先生が所長を務められていた東京都立労働研究所で研究員として働かせていただくことになった。ここは大都市東京の主に中小企業の労働問題を研究対象とするという特色があり、 4 ~ 5のプロジェクト毎の研究チームに分かれて、各チームが2年度で 1つの研究成果を出していくという仕組みがあった。単年度にとらわれないこと、プロジェクトチームの形で研究成果を仕上げることは、研究の質を高めるとともに、自分などの半人前の研究者を研究所全体が育成する環境をも備えていた。松島先生も若手研究者の育成についてはいつも心を砕かれていた。

東京都立労働研究所の名物だったと思えるのは、毎月第 1金曜日に行われていた「全体会議」で、全研究チームが一堂に会し、進捗報告をする外、「助言者」の先生方(小池和男先生、佐野陽子先生、石川晃弘先生他の先生方[3])が、厳しい指導を行っていた。そこは学際的な研究交流の場で、議論が毎回のように沸騰していたが、松島先生は研究所の指揮官として、研究所全体を常にまとめ上げていた。2001年 3月、東京都立労働研究所は惜しまれつつ廃止された。

50 年という時間

松島先生の御葬儀の際に寄せられた弔電の中に、大変に印象深かった話がある。その弔電には、今から 50年ほど前に、松島先生とともに、東北地方の地域調査に参加された時の話が書かれており、若かりし日の松島先生は、調査チームの中でも飛び抜けて年上という訳でもないのに、大柄な体格なせいか、「兄貴ぶり」が際だっており、しかも、その明るい「兄貴ぶり」が調査チーム全体を引っ張って、盛り上げていたと。松島先生は、昼間の調査が終わり、夜になって皆が疲れている時でさえも、1人快活に「地元の古老の話を聞きに行こう!」と精力的に皆を誘っていたという話を別の機会に聞いたこともある。その弔電は最後に、「あれから 50年の時を経て、変わってしまった日本の雇用、労働の状況について、松島先生と会って親しく語り合いたかった」と結んでいた。イギリスのロナルド・ドーア先生からの弔電であった。

( 2007年 12月 10日掲載)


[脚注]

  1. ^ 松島(1950)では、「友子とは、徳川初、中期より發生した坑夫の自助的救済集團」と規定している。後に村串1998)は、友子を「ギルド的な性格を持ったおもに熟練採鉱夫の同職組合」と規定している。詳しくは、松島静雄(1950)「鑛山にみられる親分子分集團の特質」 『社会学評論』 第1巻,第1号,pp.61-67。村串仁三郎(1998) 『日本の鉱夫-友子制度の歴史』 。農商公務省鉱山局(1920)「友子同盟(旧慣ニヨル坑夫ノ共済団体)ニ関スル調査」などを参照されたい。
  2. ^ 当時読んだのは出口勇蔵先生の訳であり、折原浩先生の岩波文庫版 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 が出版される遙か前だったので、授業についていくのに苦労した。今の学生は幸せだと思う。
  3. ^ 他には、有泉亨先生(初代所長)、佐藤進先生、仁田道夫先生、尾形隆彰先生、川喜多喬先生、諏訪康雄先生、佐藤博樹先生、山崎喜比古先生、中村圭介先生(順不同)といった方々である。私が研究所に入る前には、氏原正治郎先生も助言者として活躍されていたと聞く。詳しくは、松島静雄監修、石川晃弘・川喜多喬・田所豊策編 『東京に働く人々労働現場調査 20年の成果から』 法政大学出版局、2005年を参照されたい。