押すことと押し返すこと

 副主任研究員  堀 春彦

「おはようございま~す」

ランドセルに背負われているような幼気(いたいけ)な小学生が、ちょこんと恥ずかしげに頭を下げる。

「はい、おはようございます。気を付けてね」

孜々(しし)として働いているみどりのおばさんが笑顔で応じる。通勤途上で目にする朝の清々(すがすが)しい光景だ。ところが大人ときたらどうだ。皆時間を気にするかのように、蒼惶(そうこう)としてみどりのおばさんの脇を通り過ぎて行く。挨拶を交わす者など一人もいない。まるで挨拶をすることが損とでも言いたげな表情だ。

「おはようございます」という挨拶は、もともと「朝早くからご苦労様」と相手の勤勉を労(ねぎら)う言葉である。朝早くから働いている方をみれば、その労働に対して敬意を表し、「ご苦労様です」と心の底から思い挨拶をするのが人であり、人としての自然な感情の発露であると思う。

当機構でも、朝早くから清掃に従事されている方々が忙しそうに働いている。先に玄関から中に入って「おはようございます」と言っている職員がいるが、声が小さいため働かれている方の耳に届かないのである。そのため、働かれている方からは「おはようございます」とか「ありがとうございます」といった返事が返ってこない。これではいけない。九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)く[1]こととなる。

柳田國男によれば、挨拶は禅僧が中国から輸入した近世の言葉で、挨は押すこと、拶は押し返すことをいう(元は単に受け答えという程度の意味しかなく、礼儀といった意味合いは含まれていなかったという)。押した後、押し返す行為があってはじめて挨拶は完結するのである。他人に聞こえないような独りよがりの挨拶は、挨拶とはいえないのである。「おはようございます」や「ご苦労様です」という強い押しがあり、それに対して働きを労(ねぎら)われた者が「ありがとうございます」などの言葉を返してはじめて挨拶は終了するのである。

挨拶は、挨拶をされた側に対しても大きな力を及ぼす。かつて筆者は学生時代、新聞奨学生なるものに従事していた。生計 ( たつき ) を立てるためである。この新聞奨学生時代、筆者の心の支えは、読者からの「ご苦労様」という温かな言葉であった。「ご苦労様」という何気ない言葉の持つ力は、その言葉を掛けられた者にしかわからないものがある。新聞配達の途中で、また集金に際して読者から「ご苦労様」と一声掛けられれば、疲れなど一遍に吹っ飛ぶのである。身体の底から力が漲り、両拳を握りしめながら「よし」と言っている自分がいる。これ以上の心の栄養があろうか。「ご苦労様」という言葉には、人のやる気を引き出す大きな力が隠されているのである。

しっかりとした挨拶ができない人間が、しっかりとした仕事をできるはずがない。目線を上げて相手を直視し、臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れ、身体の内に籠もっている悪い空気を全部はき出すように元気よく「おはようございます」と言ってみよう。昨日までとは違う世界が見えてくるに違いない。

―説教好きな田蔵田(たくらだ。♪ようこそここへクッククック、因みに桜田とは関係ありません。悪しからず)の独り言―

( 2007年 9 月 7日掲載)


[脚注]

  1. ^ 九仞(非常に高いこと)の山を築くのに、最後に一杯の簣(もっこ)の土を欠いても完成しない。事が今にも成就しようとして最後のわずかな油断のために失敗するたとえ(広辞苑)。