八百屋お七は八百屋の娘なのか

本コラムは、当機構の研究員等が普段の調査研究業務の中で考えていることを自由に書いたものです。
コラムの内容は執筆者個人の意見を表すものであり、当機構の見解を示すものではありません。

副主任研究員 堀 春彦

昔からずっと疑問に思っていることがある。井原西鶴の『好色五人女』の中の八百屋お七を読んでいた時のことだ。文章や挿し絵から感じられるお七のイメージが大店の娘に思えてならないのである。父親の八百屋八兵衛は本郷のほとりで売人をしていると書いてあるが、八百屋=裕福というイメージが全く浮かばないのである。個人的な思いでいえば、江戸時代の八百屋といえば、店先に野菜を並べて売っている店売り(たなうり)か、籠に野菜を入れ担ぎ売りをしている棒手振り(ぼてふり)であろう。どちらも細々と商いをしている感じで、裕福な大店と八百屋が全く結びつかないのである(全国の八百屋さん本当にごめんなさい。)。

そもそも八百屋お七とは何者であろうか。『日本国語大事典第二版』によれば、八百屋お七のことを次のように記している。「江戸前期の江戸本郷の八百屋の娘。天和2年(1682)の大火災で檀那寺に避難した際、寺小姓と恋仲になり、恋慕のあまり再会を願って放火し、火刑に処せられたという。……」(p34)。世間知らずの大店の娘ならば、さもありなんという感じである。

どうも江戸時代の八百屋のことがあまりよくわかっておらず、それが八百屋と大店の結び付きを阻んでいるように思えてならない。そこで、手近なところにある文献ということで家にあった『守貞謾稿』を繙いてみることにした。それによると、江戸時代の職業を紹介している菜蔬賣の項目に八百屋の記述がある。要約すると、①菜蔬賣のことを江戸・京阪とも八百屋と呼ぶこと、②江戸では、瓜茄子等一種の野菜を持ちまわって売る者を前栽賣といい、京阪ではこれも八百屋ということ、③(江戸では)八百屋は数種類の野菜を売る者であること、④江戸・京阪とも菜蔬を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋ということ等が記されている。

『守貞謾稿』の説明だと、筆者がイメージしている八百屋そのもので、八百屋=大店という図式を思い描くことができない。そこで、独善的ではあるが、八百屋=大店を思い描けるようないくつかの仮説を立ててみた。

仮説その1 「八百屋八兵衛は青物問屋である」

伊藤若冲の生家が青物問屋であることは夙に有名であるが(だからこそ、生計(たつき)に頓着せず、画を描けたのであろう)、青物問屋であれば八百屋=大店という図式が成り立つように思える。三田村鳶魚によれば、「お七の親は加州の足軽で、後に八百屋になった……」(p145)とあることから、場合によっては、加賀藩へ野菜を納める大商いを行っていたのかもしれない。ただし、この仮説には1点難しい問題があり、それは当時青物問屋を八百屋と呼んでいたのかどうかということである。

仮説その2 「八百屋八兵衛は万屋だった」

八百屋というのは、もともと八百万(やおろず)の品物を扱っており、それが八百屋の語源ともなったとする説がある。今でいう万屋(よろずや)であろうか。もしそうだとすると、八百屋が手広く高価な品物等も扱っており、大店として営業していた可能性はある。この仮説は、かつて当機構に在職していた奥津女史が筆者との議論の中で唱えた仮説である。

仮説その3 「元々は野菜を商いしていたが、そこから派生して異なる商売を行っているケース」

宮尾登美子の『菊亭八百善の人々』を読むと、八百善について次のように記されている。「……何でも創業は元禄のころ、場所は山谷で最初は野菜と乾物を商っていたので、八百屋善太郎が代々の屋号になったと聞いています。……」(p66)。八尾善とは、いわずと知れた江戸で最も有名な料亭の一つである。この例のように、元々野菜を商っていた八百屋がその後そこから商売替えをして大店となる場合もあろう。

いずれにしてもよくわからない。勝手な思い込みだけでは大きな誤りに繋がることになる。ではどうするか。江戸といえば、やはり江戸東京博物館であろう。ということで、単なる思い込みで、江戸東京博物館の7階にある図書室にお邪魔した。訳を話すと、お忙しい中司書の方が関係ありそうな文献を探してくれた。

その中の『江戸店舗図譜』や『定本江戸商売図絵索引』には、当時の八百屋の姿が絵(浮世絵)で示されている。『江戸店舗図譜』にある大阪の八百屋を見ると、大店のレベルまではいかないにしても多少裕福そうに見える。これはどうしたことであろうか。『江戸店舗図譜』には絵とともに八百屋の説明書きがある。それによれば、「江戸時代の八百屋は、俗に青物と呼ばれる野菜類のほかに、辛子・胡椒・胡麻・葛粉・わらび粉・椎茸・干瓢・鰹節・湯葉・素麺・干うどん・昆布などの乾物類も一緒に商っていた。」(p285)、とある。仮説その2でも述べたように、手広く多くの商品を扱っていたとすれば、八百屋が大店として商いを行っていた可能性はある。

でも何となく釈然としないので、図書館内をふらふらと歩いていると、大部の『江戸商家・商人名データ総覧』が目に飛び込んで来た。説明によれば、江戸問屋仲間の「名前帳」や「名簿」、各種記録文書中の仲間商人連名、買物案内、地誌、武鑑等に掲載されている限りの商人の名前データが収録されているとあるので、参考になるかと思い「八百屋」を名乗る商人名を見てみた。八百屋浅五郎をはじめとして「炭薪仲買」を生業とする者が多く、確認された時期を見ると「慶応」となっていることから江戸も末期の頃の状況だとわかる。八百屋善四郎は「料理」を生業となしており、八百屋太兵衛は「すし」を生業としている。いずれも「文政」期となっていることから江戸時代も後期であることがわかる。また、八百屋和助は「番組人宿」(注) となっており、時期は後期の「文化」が記されている。

こう見て来ると、江戸時代も後半では「八百屋」を屋号に掲げながら、いわゆる野菜を売る八百屋とは異なり、他業種の商いを行っている八百屋があることがわかる。当然の事ながら、『江戸商家・商人名データ総覧』に掲載されている八百屋は大店であろう。八百屋お七が生きた時代は江戸時代も前半のことなので、江戸時代前半の商家に関する資料がないか司書の方に聞いたところ、資料はないとの返答であった。

いろいろと見て来たが、結局のところ、八百屋八兵衛がどの様な商いを行っていたのか特定することはできなかった。しかしながら、ひとつ分かったことがある。江戸時代(それも後期)の八百屋は野菜を売るだけの商いではなかったということである。野菜とともに野菜以外の物も商っている八百屋もあり、全く異なる商いをしていた八百屋も存在したということである。

参考資料

  • 井原西鶴(1986)『好色五人女』、岩波書店。
  • 喜田川守貞(1996)『近世風俗史(守貞謾稿)』岩波書店。
  • 小学館(2006)『日本国語大辞典第二版』小学館。
  • 田中康雄編(2010)『江戸商家・商人名データ総覧』柊風舎。
  • 林美一(1978)『江戸店舗図譜』三樹書房。
  • 三谷一馬(1986)『定本江戸商売図絵索引』立風書房。
  • 三田村鳶魚(1977)『三田村鳶魚全集』中央公論。
  • 宮尾登美子(2003)『菊亭八百善の人々(上)』中央公論新社。

(注)

「番組人宿」については、一般財団法人日本職業協会がホームページ上で解説している「職業安定行政史 第1章江戸時代 職業紹介事業の発生とその規制」に詳しい。職業紹介事業者は口入屋、肝煎等様々な名称で呼ばれていたらしいが、その「公用語」が「人宿」であるという。数多くの人宿が発生すると、中にはたちのよくない人宿も出てくる。「番組人宿」とは人宿の組合で、人宿は組合への加入を強制され、町奉行所は組合を通じて人宿の運営についての指示、指導を行ったという。

(2015年9月3日掲載)