「なにもしない」という価値

副主任研究員 小野 晶子

被災地を調査で回っている。中でも応急仮設住宅で支援員の方にお話しを伺うことが幾度かあり、被災地で重要な役割を担っていると感じている。

阪神淡路大震災では、仮設住宅で1人暮らしの高齢者の孤独死が相次いで見つかったことから、コミュニティが分断された中での「見守り」の重要性が叫ばれた。今回の東日本大震災ではほぼすべての仮設住宅において支援員が配置されている。

この支援員はどういった人達なのか。多くは緊急雇用創出事業の基金を利用して自治体からの委託でNPO、社協、企業に雇用されている。雇用される要件の1つに、被災者であることがある。つまり、被災者が被災者を支援するのである。この難しさは実際に話を聞かないとわからないことが多い。

支援員は住民の生活相談に乗ることも多い。住民は同じ地域の被災者として支援員に親近感と安心感を抱き、相談だけでなく愚痴や不満をぶつけるようになることもある。親身になって話を聞き、なんでもやってあげたくなるが、支援員本人が大きな負担を抱え込むことにもなる。自治体も初めてのことなので手探り状態でのスタートだ。支援員の仕事の範囲をどこまでとするのか。例えば、平時に自治会などの地域のコミュニティで手分けして行っていた草刈りや清掃といった作業をやるのかどうか。ある仮設住宅では支援員が行い、ある仮設住宅では行わない。皆、悩みながら進めている。

ある仮設住宅の支援員事業を運営しているNPOから支援員の仕事内容について話を訊いて衝撃を受けた。

「コミュニティのために手出しはしない。なにもしない、というのが価値なのです。」

その仮設住宅は、地元のNPOと人材派遣会社が協働して支援員事業を受託していた。人材派遣会社としては、住民のニーズに答えて「なんでもかんでもやりたかったんですけど」という。客先に対する真摯な態度である。しかし、NPO側の考えは明確に異なった。

「我々はサービス提供者ではないんです。サービスを提供する側に立ってしまうと、支援員さんはだんだんきつくなっていくと思うんですよ。そしてだんだん住民の皆さんは何もしなくなっていくと思うんですよ。そうすると将来にとってよくないじゃないですか。」

一般的に企業で仕事をすることを念頭に置けば、客先のニーズに最大限応えることが重要であり、従業員は自分が与えられた仕事以上に自分なりに仕事の幅を広げたりすることがよいと考えがちだが、コミュニティの仕事とは必ずしもそういう公式には当てはまらないらしい。このNPOは、将来のためにコミュニティの自立を促していくのだという明確な答えを導きだし、カウンターパートである人材派遣会社を説得した。その方針を自治体も深く理解し、「なんでもやる」ことよりも「なにもしない」ことを選んだ。

ただ、最初からこういう考え方を理解された訳ではない。支援員が日中、集会所を占拠していて使いづらい、支援員はなんの仕事をしているのかといった苦情が住民から寄せられていた。住民の目にそう映ったのはしごく当然のことだっただろう。しかし、このNPOは自らの考えを繰り返し説明した。住民との信頼関係が生まれてきた今、住民も支援員の仕事を理解し集会所に集うようになってきている。

ある仮設住宅では支援員が「イベントがなくても、おじいちゃん、おばあちゃんたちと、こたつに入りながら、一緒にごろごろしながらテレビをみている」という。一見、暇そうな光景である。しかし、孤独になりやすい仮設住宅の部屋から出て、皆でテレビをみることで、安心感やコミュニティの紡ぎ直しが行われている。

誤解があるといけないので言っておくが、支援員は本当になにもしないわけではない。特に仮設住宅がスタートした当初から1年くらいの間は炊き出しのボランティアを差配したり、大量の支援物資を1つ1つ各世帯に振り分けたりとかなり忙しかったようである。また、草刈りなどの住民活動を補助し支える「黒子」として活躍している。仮設住宅の受付窓口としての役割も大きい。集会所は仮設住宅の入口近くに建っているため、支援員が常駐していると、被災者を狙った悪徳セールスや新興宗教等の勧誘などへの抑止効果は高い。

被災地で出会った人の言葉だ。――ただやみくもに支援するというのでなく、その先を見据えてそれにあった支援をすることが大切だ。「支援漬け」になってしまわないように、自立を目指せるように――被災地は黙々と考え、進もうとしている。

(2012年12月14日掲載)