葛藤と防衛

統括研究員 松本 安彦

「葛藤」という言葉は、精神分析や心理学の用語としても使われるが、日常的に使われることも多いだろう。

自分ではAの方向に行きたいのに、Bの方向に行くように強制される。Aの方向に行くことを強制する人がいるのに、Bの方向に行くように強制する人もいる。というような時の心の状態に「葛藤」という言葉をあてはめることが多い。強制されているわけではないが、自分の中にAの方に行きたい気持ちとBの方に行きたい気持ちが両方ある、というアンビバレントな心の状態の場合もあるだろう。人間というのは複雑な生き物だから。

葛藤の状態になると、人は混乱する。そのような状態が続くことは耐えがたいので、何らかの解決策を選ぶ。上手に両方を納得させるような塩梅のいいやりかたを工夫するかもしれないし、タテマエとホンネを上手に使い分けるかもしれない。また、とにかくAかBかどちらかを選択して、選択しなかった方については言い訳を考えたり、自分を納得させる理屈を考えだすかもしれない。これらはとても健全な対処である。

しかし、こういう健全な対処ができる場合ばかりとは限らない。そういう時は、とにかく心の中から選択しなかった方を追いだす、両方に無感情になる、事務的に反応する等々ということになる。たとえばAに行けといわれればAに行きかかる、その途中でBに行けと言われれば今度はBに行きかかり、この繰り返しをする、ということもあるかもしれない。

「防衛」というのも、心の状態としてよくあることだろう。葛藤に陥ったり、手痛い攻撃を受けるなど避けたい状態に陥りそうだと思った場合、それに応じた危機管理方策をあらかじめ考えておくというのはとても健全な「防衛」で、それができない場合、心のシャッターを閉めてしまうような防衛をするようなこともあるだろう。

さて、組織として大目標が明確で、その下に下位目標の連鎖が調和的に設定できていれば理想であろうが、この複雑な社会ではなかなかそうはいかない。そこで個々に見ると相矛盾することを同時に追求しなければならないことは実に多いが、これを一人の責任にしてしまうと、その人が深刻な葛藤に陥り、無感情や事務的になることで自分を守るところまで、あるいは精神がまいってしまうところまで追いつめられるかもしれない。

休職、退職、自殺が多いと言われる最近の教員をとりまく状況などには、これに近い面があるのではないか。

やはり矛盾をはらんだ目標は別の人(部署)に割り当てて、人対人、部署対部署の対立・調整の構図にした方が、(平和的に解決できるという条件付きでだが)余程メンタルヘルス的に健康である。とすると、経理が営業の、営業が開発の、悪口を言いながら居酒屋で気炎をあげている図というのは、実に健康的ということになる。

(2012年11月16日掲載)