「自称ケインジアン」のひとり言

研究所長 浅尾 裕

最近、朝、新聞を開いてまず確認するものが二つある。一つは、永年の習慣となっている翌日ものコール・レートであり、もう一つが最近習慣となった福島市のモニタリング・ポストの放射線量である。前者は、少し前までは0.1%あたりにあったものがここのところ(このコラム原稿は2月上旬に書いている)0.08%前後で推移している。後者は、一時期0.9μSv/h(マイクロシーベルト毎時)を下回っていたが最近ふたたび0.9μSv/h台となっている。前者の指標については、世間の見方と違うかも知れないが、経済活動の結果指標とみる私にはもう少し上がって欲しい数値である。後者については、世間の見方と完全に一致すると思うが、どんどん下がって欲しい数値であるし、人々が努力すれば下がり得る数値である。

さて、近年の我が国経済社会をみると、好き嫌いや個人としての利害得失を越えて、やらねばならぬ方向は見えているのに、それができないでいるようなもどかしさを覚えてならない。喩えれば、峠の向こうに(=山のあなたに)「幸い」があることは判っていて、峠を越えるために尾根道に出ようと思って焦ってはいるものの、実際は山の斜面をズルズルと下っている旅人のようなものであろうか。

経済は大きな流れであり、循環である。循環が生じるためには、持てる者が一時期それを手放さなければならない。手放すことで流れと循環が円滑になり、より大きくなって元に戻ってくる。しかし、不確実性が高まるとそれを忌避するようになるが、そうすると循環が滞り、結局持っていたはずのものも失われてしまう。手放す勇気、それをケインズは「アニマル・スピリッツ」と呼んだと私は解釈している。

不確実性そのものを政策的にどうこうしようとしてもそれはできない、と考えるかどうかが議論の分かれ目かも知れない。いや、政策的にどうこうできる範囲であれば、それを「不確実性」とは呼ばないといった方がよいであろう。できることは、思い切ってやってみることでしかない。政府自身が市場のアクターとなって行動してみせるか、それとも流れが滞っている部分に流れのバイパスを作るしかない。いずれも経済が重篤な場合に限られるが、前者はそれでも比較的軽症な場合に効果があり、より重傷の場合は後者をやるほかない。とはいえ、政治の世界の「アニマル・スピリッツ」について語る資格は、「自称ケインジアン」にはない。

ただ、闇雲に経済を拡大すればよいわけではない。経済についての見方を変える必要もある。従来の第一次、二次、三次産業という分け方にもやや対応する面はあるが、自然(資源やエネルギー)を消費する程度によって経済を区分することが必要であろう。経済の根本は人々の必要を満たすことであるが、そのニーズが自然を消費することで満たされる部分と人々の知恵や工夫(=サービス)で満たされる部分とに分けることでもある。経済成長をめざすにしても、前者を適度な水準にとどめ、後者をより大きくすることが求められるだろう。また、そのうえで、労働時間の適度な短縮も必要であろう。

近年、国際経済は、二つのサブプライム・ローンに翻弄されている。一つは米国の低所得者向けの住宅ローンとその派生金融商品であり、もう一つはユーロ制度の間隙をついたソブリン・ローンである。やや遡れば、我が国の住専もそうであるが、金融資本の調子に乗った「はしゃぎ過ぎ」であり、金融が経済の足を引っ張っているといえる。格付けが下がって一部に右往左往する面もみられるが、下がっているのは、「格付け会社」を含む金融資本全体の格付けなのではないだろうか。金融は経済のサポーターに徹するべきであり、ゆめゆめ自らが経済を引っ張っていけるなどと考えてはならない。「市場に聴け」というときの「市場」は、「株式・証券市場」ではなく、「通常の生産物市場」や「労働市場」であるべきであり、そうなることを祈っている。

【参考】「自称ケインジアン」の愛読書

『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(特に後半の第5篇、第6篇)、『自由放任の終焉』、『貨幣改革論』、『説得論集』、そして『確率論』(いずれもケインズ著)

(2012年2月24日掲載)