子どもたちの教育と大人になってからの勤労観

主任研究員 池添 弘邦

新しい年が始まり、今年度の仕事を仕上げなければならなかったり、次年度に着手する仕事の仕込みを始めなくてはならなくなってきた。長時間労働→過労死という事態にはならないが、仕事や職場の慌しさは増すばかりである。このご時世、毎日仕事ができて生活していけるのだから、ありがたいことと考えるべきであろう。しかし、子を持つ親として少し気になることがある。それは、子どもの頃からの勉強、特に受験勉強と、大人になってからの勤労観、例えば、仕事の忙しさや労働時間の長さとの関係である。教育と労働の関係を研究している学者には鼻で笑われそうだが、筆者の専攻は労働法であり、門外漢であるから仕方がない。思い浮かんだことを書くことにする。

筆者は昨夏、家族で高原旅行に出かけた。木々と緑が遠方に見える山々まで延々と広がり、空は大きく開け、そこを雲がゆったり流れる。体を包み込む澄んだ空気は清々しく心地よい。都会では見られない鳥達が美しい声を響かせている。

そのような環境の中、早朝7時から、体育会系よろしく、揃いの鉢巻をした子どもたちの威勢のいい掛け声が宿泊地界隈に轟渡る。こちとら休暇旅行で訪れているゆえ、全く御免被りたい気分である。何かと思い目を凝らせば、ある進学塾の中学受験に向けた夏合宿であった。宿の人に聞いてみると、都市部にある同じ塾の児童達が、1ヵ月の間に1週間から10日位の単位で入れ替わり立ち替わり合宿に訪れるのだそうだ。高原地の書き入れ時は冬場で、スキー客が対象だから、夏場は当然、閑散としがちである。そこで、その界隈の宿は、進学塾に宿泊・勉強施設として宿を提供していたのである。進学塾は、宿泊はこの宿で、国語はこの宿で、算数はこの宿でなどと子どもたちを移動させながら、朝から晩までいたく熱心に受験勉強に励ませている。もちろん子どもたちも、おそらく親の意向でなく、自らの意思で参加し、勉強に励んでいるのであろう。学校が休みでまとまって受験勉強に充てられる時間は夏休みしかないから、その時期に熱心に受験勉強をする(させる)ことは至極当然のことと思われる。

筆者は、朝風呂で火照った体を宿の外で冷ますなどしていたところ、先のような子どもたちの威勢のいい声を聞かされ、移動の様子を眺めつつ、当初は単純に、「朝っぱらからやかましいのぅ」と思っていたのであった。

その時ふと考えた。人生山あり谷あり、荒波の時もあれば凪いでいる時もある。受験勉強もまた、山であり、荒波の時の一つではある。だが、そのような長い目で見た生き方をイメージしながら進学塾の夏合宿に参加している子どもはどれくらいいるのだろうかと。反面、この夏合宿勉強の勢いのまま大人になったとき、勉強すること働くことは自分のためであり、絶対的な美徳だと勘違いをしたまま育ってしまう子がいやしないかととても心配になった。

確かに、勉強することも働くことも美徳には違いない。しかし、今は受験勉強に集中している子どもたちにも、遅かれ早かれ様々なライフイベントは必ず訪れる。子どもの頃、特に受験勉強をする中で万が一勘違いが培われてしまった場合、ライフイベントの時々に勘違いした価値観を捨て去れない子がいたらどうなってしまうのだろうか? 働かないことは美徳ではないとしても、休むことも必要ではないのか? 長時間働かないことが美徳ではないとしても、働く時間を短くすることも必要ではないのか? 進学塾で受験勉強をしている子どもたちのことだから、きっとクレバーに生きていってくれると思いたい。

宿泊地界隈に静けさが戻り、ふと我に返れば、自分の子どもたちの教育のことが気掛かりで仕方がなくなってきた。将来の受験勉強のことが頭をよぎるが、一方では、豊かな人生を送ることができるような勤労観を折に触れて授けていかねばならない。あぁ、子育ての苦悩はこの先何年続くことやら…。

(2012年1月27日掲載)