調査屋の憂鬱

副主任研究員 藤本 真

ここ数年間は毎年、年に3~4本のアンケート調査の立案・実施と、企業、労働組合、職業訓練機関など40~50か所のインタビュー調査を行ってきている。あるテーマを、アンケート調査やインタビュー調査の積み重ねに基づいて検討していく人のことを、労働に関する調査・研究の世界では「調査屋」と呼ぶ。少なくとも外目からは、私も調査屋のはしくれということになるだろう。

調査屋の頭の中はいつも些細な心配と憂鬱で満ち溢れている。「アンケートを予定通り実施するのに今日中に調査票の内容を固めなきゃ」とか、「回収率を上げるためにあの設問は削ったほうがいいのだろうか」とか、「あんな言い回しでインタビューをして先方に十分にこちらの意図を理解してもらえただろうか」とか、「集計結果の表を見栄え良くするにはエクセルで作った表の行の幅を少し広くして、表の字体をゴシックにしたほうがいいんじゃないか」などなど。ここには書ききれないが、一つの調査研究プロジェクトを進めていくのに解決が必要な数々の作業上の課題や、意見調整、日程調整に関わる課題をめぐって、些細な心配や憂鬱が次々と噴き出してくる。

20年ほど前に刊行された『労働調査論』(日本労働協会,1989)という本がある。執筆者は下田平裕身、八幡成美、今野浩一郎、中村章、川喜多喬、仁田道夫、伊藤実、中村圭介、佐藤博樹(敬称略)という、日本の労働調査を長年第一線で支えてこられた(現在も支えている)先生方である。この本の中にも調査屋が数多くの些細な心配や憂鬱に直面する様が書かれている。私が労働研究のとば口にたった10年ほど前にこの本を入手した際には、まさか10年ほど先にこうした記述の多くを身をもって味わうことになろうとは露とも想像せず、先生方の奮闘の様を時に笑いながら読んでいたが…。

『労働調査論』には、調査の中で調査屋が直面する些細な心配や憂鬱が書かれているばかりでなく、今後の労働調査に向けての貴重な提言や警鐘も綴られている。その中には調査に関するデータベースの作成や、アンケート調査の個票データのアーカイブの整備など、いくつか実現されたものもあるが、未だに解決されていない課題、実現していない提言も多い。例えば先生方が当時の状況として繰り返し指摘する「調査洪水」と言われるほどのアンケート調査過多の事態は今でもさほど変わっていないように見えるし、そうしたなかで、より意義のある調査を実施することに対しての要請は格段に高まっているように思う。また、先生方が難しいと指摘する調査を担う人材の育成は、おそらく20年前よりも現在のほうが困難になってきており、調査屋はそのうち「絶滅危惧種」(誰も危惧してくれないかもしれないが…)になる可能性がかなり高い。こうした課題は、些細な心配や憂鬱の上に大きな憂鬱として積み重なり、現在の調査屋であるわれわれにものしかかってくる。

『労働調査論』の著者の一人でもある川喜多先生から、私が労働研究のとば口に立ったころメールでやり取りをした際に、「調査屋になるのは薦めません。労多くして益が少ないから」というお言葉を頂いたことがある。川喜多先生がなるのを薦めなかった調査屋になってみて、「調査屋が何らかの意味ある成果を得るためには人一倍頭も体も働かせなければならない」という意味で、川喜多先生のお言葉は正しいと心底思う。ただ、面倒くさいと思いつつアンケート調査を丹念に集計・分析していく中から新たな傾向を見出すことができたり、インタビュー調査の中で自分の世間知らずなことに忸怩たる思いを抱きながら、理論的思考のみでは捉えられない経験的事実の貴重な深みを目の当たりにしたりすることは確かにある。こうした経験を社会に向けて発信することができるならば、あるいは経験を記録した報告書が何十年か先に重要な歴史的資料として扱われる毛すじほどの可能性を頭に描くことができるのならば調査屋稼業も捨てたものじゃない。そんな風な思いを胸に秘めつつ、しかし今日の通勤中も私の頭の中は、調査に関する些細な心配事と憂鬱、そして時に大きな憂鬱で、一杯になっている。

(2010年5月28日掲載)