学問と落語

三浦幸廣

内部外部を問わず様々な研究会に参加させて頂き、色々な方の発表を伺っている。そこで感じることは、自分の意見や考えをひとに伝えるということは実に難しいということだ。発表を聞いていてもその場ではどうも理解できず、配られた資料を後で読み返してみて「ナルホドこういうことだったのか」と頷いたりすることがある。こういう時はいつも当方の浅学菲才ぶりを棚にあげて、発表者の伝達能力の問題だと責任転嫁している。

再び自分の勉強不足・理解力不足を棚にあげて言わせていただくならば調査や研究を企画・実行してまとめあげる力とそれを他人に伝える力、特に話し言葉で伝える力というものはどうも別物のように思える。こうした力、つまり言語能力の低下は最近の高校生や大学生でかなり深刻らしく、NHKでも特集を組んでそうした能力を磨くための教育や方法を取り上げ、海外の先進的な事例を紹介したりしている。

しかしわざわざ海外に手本を求めなくてもわが国特有の優れた技があるとするなら、まずはそれを試してみるのが自然だと思う。その技とは申しあげるまでもなく落語のことである。テレビやラジオで聴く落語家は一流中の一流揃いだから、誰のどんな噺をきいても面白い。しかし寄席などに行くと落語家の上手い・下手がハッキリと分かる。同じネタなのに一方が演じると腹の皮がよじれるほど面白く、他方が演じると何の感動も無いまま眠くなるばかりなのだから。

「学問と落語を一緒にするな」とお叱りを受けそうだが調査・研究を発展させるためには多くのひとに自分の成果を知ってもらい議論を深めることが大切であろうし、そういうプロセスがさらに質の高い成果を保証してくれるのではないだろうか。このように考えると落語家の苦労や工夫を知ることは無駄ではないと思う。

柳家花緑という落語家がいる。人間国宝にもなった五代目柳家小さんの孫である。修業時代の話だ。稽古で師匠の噺を丸暗記して演ってみたところ「全然なってない。お前は落語との距離が雑なんじゃないか」と叱られ、若手真打の時代には何とか自分なりの工夫でウケようとギャグ満載の構成にしたところ「聞いていてもまったく景色が見えてこねェ。噺が薄っぺらくなっちゃっている」と酷評されたことを書いている。

そこでもう一度振り出しに戻って稽古をやり直す。こうして辿りついたのが「落語はただ物語を話せばいいわけではない。意味もなく客席を笑わせさえすればいいのでもない。噺の本筋をちゃんと見つめ、どうすれば登場人物の魅力を引き出せるか、お客さんに伝えることができるかを考えて演じきる。それがあってこそ、見ている人は噺に入り込み、共感し、感情を揺さぶられる。そして、面白いと感じてくれる」ということだという。

調査研究の発表も同じではないだろうか。長い時間と多くのエネルギーを投じてまとめ上げた成果を、限られた時間内でしかも不特定の聴衆に伝えるためには、それなりの知恵と工夫が求められるはずである。それがうまく行って聴衆が耳と心を傾けてくれた時、成果の意義と価値が伝わり、研究をさらに深めるための議論が期待できるのではないだろうか。

当機構が発行する月刊誌『ビジネス・レーバー・トレンド』では誌上座談会を活用して、また公開の『労働政策フォーラム』ではパネル討論などを舞台にその時々の緊急課題について、議論を掘り下げる。当機構からも研究員や調査員が成果を携えて登場する。登場者の役割は政策論議活性化のための情報提供であるから、登場者にとっては自分の言葉が読む人・聞く人の心をどれだけ捉えられるか、そして議論をどこまで深められるかという力量を問われることになる。そこで必要なのが「噺の本筋をちゃんと見つめ、どうすれば登場人物の魅力を引き出せるか、お客さんに伝えることができるかを考えて演じきる」という姿勢のはずである。落語鑑賞を推薦する所以である。

[参考] 柳家花緑 『落語家はなぜ噺を忘れないのか』

(2010年4月2日掲載)

※2010年3月31日まで調査・解析部長