フィリップス曲線の思い出

副統括研究員 大塚 崇史

当研究所には経済分析のプロが多い。そんな中、私は専門外で経済には疎いのであるが、労働と経済の問題を考えるとき、やはり、最も鮮烈でわかりやすい理論としてフィリップス曲線を思い出す。

フィリップス曲線にはじめて出会ったのは学生時代の教養科目としての経済学であったが、以来、労働と経済の問題となると、あまりにも単純でわかりやすい、この1本の曲線を思い出し、労働問題とはそもそも難しいものなのだという印象を受ける。

20世紀半ば、イギリスのフィリップスが約100年のデータ分析を基に名目賃金の上昇率と失業率の関係を右下がりの曲線として描き、後にケインジアンが物価上昇率と失業率との関係に置き換え、「失業率を下げればインフレが進んでしまい、インフレを抑えれば失業率が上がってしまう。インフレと失業のトレードオフ(二律背反)の関係。」を指摘した。

つまり、インフレ問題と労働問題は同時には解決できない、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たず、トレードオフのせめぎ合いということだ。

そして、労働を巡る問題は、このフィリップス曲線に象徴されるように、いろいろな問題があらゆるところでトレードオフという形で現れているのに気づかされる。

労働時間か余暇時間か、正社員か非正規社員か、仕事か家庭か、高齢者問題か若年者問題か、労働者としての立場か消費者としての立場か、などなど、双方を同時に満足いくように解決するのは難しく、魔法の杖は容易には見つからない。

結局、どちらも程々にという解決策しかないのが労働問題の困難性とやや諦観する。ところが、良いことは同時には起こらないが、悪いことが同時に起こった事件が1970年代のスタグフレーション(インフレと不況・失業率上昇の同時進行)であった。

トレードオフのフィリップス曲線からは説明できない事が、悪い事に限っては例外的に発生したという不条理であった。ところが、インフレと失業の関係を動的に捉えることによって、フィリップス曲線自体が右上にシフトし変形する可能性があること、長期的には構造的失業等が失業率の重要な要素であることなどを示唆する説も生まれた。

とすれば、失業の問題は構造的失業等の解決が重要という別の視点が生まれ、それに相応する対応策の可能性も生ずるわけである。つまり、違う発想、長期・動的な分析等を加えることによって、難しい幾何の問題を補助線を引いて解くように、新たな解決の糸口が見つかるかもしれない。

したがって、トレードオフのフィリップス曲線が物語るように、労働を巡る問題の解決は難しいものの、今、話題の非正規労働問題にせよ、少子化問題にせよ、様々な問題には新たなアプローチの可能性があるのだということを忘れずに工夫することが必要なのだと思う。

フィリップス曲線、この単純な労働の困難性を感じさせる1本の曲線から想起されることは、実はそう単純なものでもないらしいというのが実感である。

(2009年6月26日掲載)