“ものづくり”に新しい視点を

JILPT研究員 山下 充

熟練の魅惑

“ものづくり”という言葉は,この10年の間に人々の関心を惹きつけてきた。国内の優れた企業や工場に調査に行けば,エンジニアや「職人」と呼ばれる熟練工の卓越した「わざ」の逸話にすぐに出会う。

私自身,ものづくりに関わる人々に惹きつけられたひとりである。調査した工場では,エンジンの稼働音を聞いただけで内部の不良個所を特定できる職人がいた。何台も同時に試験運転をしている中で,遠くからの音で機械の調子を聞き分けられるのである。

分析の陥穽

研究者は,ものづくりの現場で働く人々をどのようにとらえてきただろうか。一般に,製造現場の分析をおこなう場合,その分析単位は個人である。工場のものづくりの能力とは,個人の能力の合計であり,ものづくりの核心をとらえるには,卓越した力量を備えたエンジニアや熟練工の「個人わざ」─労働者のスキル─を分析することを意味していた。

しかし,多くのエンジニアや職人の方々への聴き取りを進めていく中で,次第にいままでのものづくりに関する見方に違和感を感じるようになってきた。これまでの分析手法は,職場をひとつのサッカーチームに例えるなら,あるチームの能力を,ひとつの決定的なシュートに代表させて測るようなものだ。魅力的なプレイが人々を惹きつけるように,職人の卓越したわざは人の心をとらえる。研究者も例外ではない。

しかし果たして,チームの能力をひとつのシュートに代表させて理解することは適切な方法だろうか。そのシュートが決まるまでには,チーム内の連携プレイが積み重ねられているはずである。そして,製造業の現場は,サッカーチームよりもいっそう複雑な組織性を備えたシステムである。組織内の協力・協業関係を抜きにして,ものづくりをとらえることにはムリがある。

「身分」と戦後

職場とは,職種や立場が大きく異なる人々の集合体である。この異質な人々をどのように協力させることができるのか。これこそが,日本のものづくりの歴史の中で最も困難な課題のひとつであった。

戦前の日本の工場では,際立った身分格差が存在していた。エンジニアと職人とでは,賃金や処遇に大きな違いが存在していた。このため,エンジニアと職人の間では円滑なコミュニケーションが難しかった。ある機械工場では,設計の問題点を協議する会議も設置されておらず,設計エンジニアが現場の声を聞かないことに,現場の職長が不満を漏らすことも珍しくなかった。

企業内身分制の問題は,戦後の日本では解消されたと考えられてきた。ホワイトカラーとブルーカラーは同じ組合に所属しており,職場においても両者の良好な関係と円滑な情報共有こそが,日本製造業の強みを支えてきたとされてきた。

過去と未来

近年,グローバル化にともなう国際競争の中で,製造業にも厳しいコスト競争が起きている。職場では,正社員以外にパート,派遣,請負,契約といった新しい雇用形態の人々が次第に重要な仕事を担うようになってきた。雇用形態の違いは,職場に新しい「身分」をつくりだしているのではないだろうか。

私の懸念は,“ものづくり”という言葉とそのイメージが,このような現代的状況から乖離したところで人々の関心を集めている点にある。卓越した個人わざに注目すればするほど,結果として労働現場が多種多様な利害から構成された生臭い場所であることを忘れさせるように思えてならない。“ものづくり”という言葉が,本当にそれに関わる人々にとって貢献するような言葉になるためにも,新たな「身分」の違いに着目して,ものづくりの現場を分析する必要性を痛感している。